リアルファンタジー小説『アルディア』

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序文案内

かみさまの懺悔

時詠みの少女

死神の天秤

かみさまの懺悔

2011年7月19日

 リディアは小さな可愛らしい手を口元に当てると、悪戯好きな少女のように男の背中に歩み寄った。
 その若い男は茶色い煉瓦でできた背の低い壁に座って、公園の柱時計を見ていた。
 午後8時。彼女は夏の夜に小さなため息を洩らす。

「セレン君……」
 彼女は小さい声で呟いた。しかし目下の男は声に気付かず、じっと時計の針を見ていた。
 彼女は男が気付いてくれるのを待った。1, 2, 3……と心の中で数えながら。
 やがて心の数が8を指した辺りで、もう一度声をかける決心をした。

 だがその前に彼女はもう一度呟いた。今度は世界の誰もが聞こえないほどの小さな声で。
「見えないほんとうはつくりもの。見えるうそはそこにある」


 そのわずか一分前。水月静は公園の柱時計を見ながら憂いていた。
 失った過去を憂い、暗い現在を憂い、底の見えない未来を憂いていた。
 気が付いたら30になっていた。10代の頃とは違う。心も体も変わってしまった。
 あの頃はまだ「未来が決まっていないこと」が希望だった。いつからだろう、それが不安に変わったのは。

 自分の人生が特別不幸だとは思わない。だが何か違う。何かが足りない。そんな思いがある。
 毎朝起きるたび、「こんな人生に何の意味があるのだろうか」と思ってしまう。
 夕方が来るたび、「こんな毎日を無為に繰り返して、自分は何も成さずにただ死んでいくだけなのか」と思ってしまう。

 精神科にかかれば疲れによる軽い鬱状態とでも説明されるだろう。
 そして効きもしない薬を処方されるのだ。
 彼は苦笑するとポケットに手を入れ、薬を探す。
 そろそろ食後30分だ。7時すぎに駅前のファミレスで夕飯を取ったが、店内はうるさいので早々に立ち去った。

 スーツのポケットから手を引っ張りだすと、出るわ出るわ、薬の山。銀色のシートが何枚も出てくる。まったくもって30の若い男に似つかわしくない。
 10代、20代の頃は当たり前のように享受していた「痛くない体」を維持するためだけに、こんなにもたくさんの薬がいるものなのか。
 この銀色のシートはきっとこれから年を重ねるごとにさらに増えていくことだろう。

 今日は辛い。いや、今日も辛い。そして明日は今日より暗い。
 成長はしない。好転もしない。ただ漫然と失うだけ。
 それが大人というものだ。子供の頃に憧れた「称号」は、手にしてみれば何のことはない、ただの枷だった。

 ペットボトルの水を口に含んで薬を飲むと、重苦しいため息を吐く。
 彼はじっと柱時計を見た。もう8時だ。

 ――このときはまだ予想だにしなかった。
 この短針が8を指した瞬間から、自分が神の夢の観測者になろうなどとは。


 一方、リディアは目下の恋人が気付いてくれるのを待っていた。しかしいくら背中を見つめても、彼は呆然と時計を眺めているだけだった。
「セレン君……」
 リディアは慰めるような優しい声で囁いた。
「……やっと見つけた、あなたを」
 ふいに声をかけられ、彼は驚いた。
「リディア……?」
 それはよく知っている声だった。彼女は亜麻色の髪をなびかせながら佇んでいた。

 彼女はいつも「セレン君」と呼んでくる。これは自分が創ったアルカという人工言語における名前だ。最初の頃は戸籍名で呼ばれていたが、今ではもうすっかり「セレン君」だ。
 この名前は「相手を黙らせる人」という高圧的な意味があり、もともとはあだ名として付けられたものだ。だから最初は気に入らなかった。
 しかし慣れというのは怖いもので、徐々に戸籍名よりもアルカ名で呼ばれるほうが自然に感じられるようになっていった。どちらの名前もサ行だし、カタカナにしたところで文字数も同じだ。そんなこともあって今ではもうこの名前を受け入れている。
 実際、頭の中で自分を客観視するときでさえセレンという名を使うし、周囲の親しい人間にもその名で呼ばせている。もはや戸籍名は身分証や仕事上など、非プライベートな状況でしか使わない。

「リディア……? どうしてここに」
 逢う約束などしていない。今日この時間にここに来ることも告げていない。
 戸惑うセレンに対し、彼女はまるで全てを見通していたかのような素振りを見せる。
「今日で20年だね、わたしたちが出逢ってから。セレン君、きっと来てくれると思ってた」
 リディアは羽ばたくように手を広げた。
「そしたら本当に逢えた。すごいね」
 とても嬉しそうだ。

「だからって何の連絡もよこさず、こんな時間に一人で来たのか」
 セレンは心配そうな顔をする。
「大丈夫だよ。逢えるって信じてたから」
 彼女はセレンの左に腰掛ける。そして頭をちょこんと肩に乗せた。
「……人が見てる」
 周りを気にするセレン。この時期は柄の悪い連中がたむろしていることがある。絡まれたら面倒だ。
 近くの男と目が合う。サラリーマン風の中年なので多分何も言ってこないだろうが、何となく気まずくなって下を向いてしまう。
「わたし、迷惑かな」
 ふいに憂いを帯びた夜桜のような表情を見せる。
「そんなことない」すぐに否定した。「……俺も逢えて嬉しかった」
 その言葉に、彼女は花開くように微笑んだ。

 リディアは公園の時計に目をやった。
「8時だね。わたしが初めて貴方に声をかけたときと同じ。わたしが生まれたときとも同じ。
 ねぇ、この20年、色んなことがあったね」
「あぁ、あった」
「貴方は人工言語アルカを創った。わたしは人工世界カルディアを創った」
「そしてそのふたつを合わせて幻奏と名付けた。つまりこの20年の間――」
「――わたしたちは幻を奏でていたんだね」

「だが逆に言えば、それだけ時間をかけても、たったふたつしか成せなかったんだな」
 遠い目をするセレン。
「他にもあるよ」
「うん?」
「……大切なこと、あったよ」
 リディアは小さな白い手をセレンの手に寄せる。小指の先が手に触れると、セレンは心なしか緊張で身を固くした。
「――わたし、貴方のこと、すきになれた」
「……恋をしたんだな、俺たち」
 彼は恥ずかしそうにぎこちなく言った。
「手……重ねてもいい?」 
 紅潮した頬で尋ねるリディア。セレンは答える代わりに彼女の手にそっと手を重ねた。
 黙っていても互いの鼓動が伝わる。温かいぬくもり。

 しばしの沈黙の後、ふたりは口を揃えて「ありがとう」と言った。あまりの奇遇さに思わず顔を見合わせてしまう。
「……続き、何て言おうとしてたんだ?」
「え?」恥ずかしそうに俯くリディア。「あの……わたしを好きになってくれてありがとう、って……」
「あぁ」空を見上げるセレン。「おんなじだ。俺を好きになってくれて、ありがとう」


「それにしても、これだけ頑張って創ってきたものがすべて幻なんだよな」
 セレンは淋しそうに呟いた。
 いくら頑張っても幻は幻。どんなに努力を積み重ねても架空は架空。
 そんなことは分かっている。最初から、分かっていた。だが、そこには一抹の寂しさがあった。
 そんな彼の心情を知ってか知らずか、リディアは翡翠の瞳で彼を見つめると、そっと囁いた。

「ねぇ、もし自分の想い描いたファンタジーが実在のものだったとしたら?」

 夏の夜に澄み渡る静謐な吐息が、彼の耳をくすぐる。
 だがセレンは侘しそうに嗤うと、それきり何も応えようとしなかった。彼は自分がもう夢の世界の主人公になれるほど若くはないことを知っていた。
「わたしたちは異世界カルディアの登場人物だよね。オーディンという中世の時代を生き抜き、悪魔を倒して世界に平和をもたらした英雄」
「――俺たちの創ったお話の中では、な」
「ううん」かぶりを振る。「そうじゃなかったんだよ」
 そして 月に向かって誓うように彼女は告げた。
「あの世界は実在したの」


 彼女は漆黒に浮かぶ立ち待ち月に手を伸ばす。セレンは黙って彼女の指が示す先を目で追った。
「悪魔を倒したわたしたちは転生して、異世界カルディアを去った。その転生先がユマナ、つまりこの世界なんだよ」
 ふだん冗談をあまり言わないリディアの奇妙な言動に、セレンは戸惑いの色を隠せない。
「わたしたちは出逢うべくして出逢い、この世界でも再びアルカとカルディアを創った」

 悠然と語る彼女に対し、セレンは渋い顔をした。
「正直、賛同しがたいな。古いアルカには英語や日本語の単語が入っていた。アルカが異世界のものだとしたら、このことをどう説明する」
 しかしリディアはそんな疑問など最初から想定していたかのような口調で答える。
「最終的にアルカは英語などの自然言語を排他し、今の形に至った。完全なるアプリオリ人工言語としてね。
 わたしたちは幻奏を創っていたつもりだったけど、実際は転生前の記憶を無意識に呼び起こしていたにすぎなかったの」
 セレンは手を顎に当てて考え込んだ。彼女の発言の意図が分からない。

「アルカほど創り込まれた言語がどうしてこの世にひとつも無かったんだと思う? それは別に貴方が人より優れていたからじゃない」
「……転生前の記憶のおかげってわけか。つまり俺は異世界で救世をした後この地球に転生し、10歳から30歳までの20年間をアルカに費やしたと」
 真剣な顔で頷くリディア。どこまで本気で言っているのだろうと不安になる。

「仮にそうだとしても疑問があるな。なぜ異世界で創ったものをわざわざここで再現したんだ? 単なる二度手間、徒労じゃないか」
 すっと立ち上がるリディア。スカートが風で舞う。「すずしい」と言いながら両手を広げる。そのまま空に飛んでいってしまいそうな儚さがあった。

「異世界に地球の言語は持ち込めない。反対に、地球に異世界の言語を持ち込むこともできない。
 だけど、異世界の言語を異世界に持ち込むことならできる。なぜなら拒絶反応が起こらないから」
 なんだか臓器移植みたいな話だなとセレンは思った。
「つまり地球でアルカを創っておけば、そのままカルディアに持ち込めるってことか」
「そう。かつて異世界に転生した貴方は日本語を失っていたし、この世界に転生した貴方は逆にアルカを失っていた。でも今回は違う。もうアルカはできているから」

「『今回』? 何だかその言い方だと、まるでこれからもう一度カルディアへ行けって風にも聞こえるな」
 苦笑するセレン。しかし彼女はあっさりと彼の言葉を肯った。
「この20年間の苦労は、わたしたちが最初からあっちの世界で生きていけるようにするためのものだったんだよ。おかげでわたしたちは最初からアルカが話せるし、向こうの文化や歴史にも詳しい」

 彼女の表情はとても冗談を言っているようには見えなかった。それだけに背筋に冷たいものが走る。
「大変だったんだよ、初めて貴方がオーディン時代にやってきたときは。異世界カルディアの言葉を何一つ知らず、日本語すら失っていたんだもの。だから今回はそんなことがないようにってね」

 セレンは溜息をついた。
「ごめんリディア、もう冗談は止めにしないか。幻想は幻想、現実は現実だよ。悩みや願い事があるなら聞かせてほしい。俺にできることなら何でもするから」
 頭から信じようとしない彼の言葉を聞いた彼女は悲しくなって夜の朝顔のように塞ぎこんでしまった。困惑しながらも、そんな彼女を心配そうに見やるセレン。

「……ごめん。別に嘘吐き呼ばわりしているわけじゃないんだ。ただ、あまりに突拍子もない話だから」
「平気……わたしも転生前の記憶が戻ってなかったら、きっと戸惑ってたと思うから」
 だが彼女の表情はとても冥い。華奢で小柄な身体がいつも以上にか細く見える。
「転生前の記憶?」
「思い出したの……。契約……死神との」
 うわ言のように呟くリディア。

「あの、その……質問、いいか」
 彼女の悲しむ顔は見たくない。彼は戸惑いながらも話を続けることにした。
「うん?」
「何のために俺たちはまた異世界へ行くんだ」
「……終わっちゃうの」
「終わる……?」
「異世界カルディアはあと20年で終わりを迎えるの」

「異世界カルディアが終わる?」
 それは流石のセレンも驚きだった。
「わたしたちが転生するのはメル422年。ランジュ時代だね。そこで20年のあいだ過ごすの」
「20年……か」
 ちょうどアルカを創ってきた時間と同じだ。おおかたその20年の間に世界の滅亡を阻止せよとでも言いたいのだろう。

「それでその……転生ってのはいつするんだ」
 問われた彼女は公園の時計を見つめる。
「5分くらいかな」
「もうそれしか時間が残ってないのか」
 目を見開くセレン。あまりに急な話だ。準備する時間すらないではないか。もう自分は身一つでどこでも行けるほど若くない。常備薬など、色々持っていくものがある。
 しかしリディアはふるふると首を振った。肩より長い髪が柔らかく揺れる。
「ううん。転生してからもう5分くらい。8時にわたしたちの魂――というかセレスは向こうに旅立ったから」
「え……」
 既に出発済みとは斜め上の発想だった。
「地球人には元々セレスがないから、これでわたしたちも普通の人間だね」
 とはいうものの、特に何か失ったような感じはしない。

「魂だけ向こうに行ったところで、肉体がないと困るだろう?」
「向こうにはセレスのない肉体だけの貴方がいるの。カルディア人なのにセレスがない状態でね。その身体にセレスが入るんだよ」
 どうやら異世界には魂の容れ物が用意されているようだ。

「向こうの貴方は異世界で過ごしてきたわけだから、当然アルカができる。その肉体に乗り移るセレスはアルカを使える必要がある。でないと拒絶反応を起こしちゃうから」
「なるほど、それで地球の俺はここでアルカを再現してきたってわけだ」
「ちなみに、向こうの貴方はアルカを創らなかったから、今より身体に負担をかけてこなかったはずだよ。本来のセレン君のあるべき姿がそこにあると思う。もともと貴方の体力は常人離れしているからね」

「そうか」静かに、しかし深く頷く。「それにしてもまさかこの年になって再び神話の主人公を演じさせられることになるとはな」
「え?」と意外そうな顔。「セレン君は主人公じゃないよ」
「そうなのか」なかば安堵したような表情になる。「やはり主人公はお前なんだな」
 だが彼女はそれにも首肯しなかった。
「この物語の主人公はわたしでも貴方でもない。彼女の名前はlein melkant、通称melkantfian」
「レイン=メルカント、時詠の少女……? アシェットの人間じゃないのか」
「彼女はメル422年からの20年間、終わりゆく世界を観測するの」
「何のために?」
「世界の結末を変えるために」
「変える? でもその子はただ世界を視るだけなんだろ」
 困惑するセレンに、リディアは謎めいた微笑を浮かべた。
「観測することが世界を変える力になる可能性もあるってことだよ」
「ふむ……なにやら難しい話だな」
「難しいんじゃなくて、受け入れがたいってことじゃない?」
 からかうようなリディアの口調に彼は一瞬口をつぐんだ。言い得て妙だった。

「それはそうと」セレンは空咳を決め込む。「もし向こうの俺に何かあった場合、こっちの俺はどうなるんだ?」
 ふと不安がよぎる。しかしリディアはそんな不安を振り払うように答えた。
「何も起こらないよ。もし異世界の貴方が怪我をしてもこっちの貴方に影響はないし、逆もまた然り。重要なのは身体じゃなくてセレスだからね」
「セレス……魂か。そういやセレスといえば、どうして今回の転生は魂だけだったんだ? 俺たちの身体が地球に残る意味はあるんだろうか」
「意味、だね……」
 細くて長い脚を伸ばすリディア。子供のように幼い体つきだ。
「正直、異世界が実在すると言われても、自分の身体が行くわけじゃないからいまいち実感が湧かないんだよな。かつて自分がオーディン時代で悪魔を倒したっていう事実とやらもすっかり忘れてしまっているし」
 首を傾げるセレンに、リディアは確認するかのように言葉を添える。
「オーディン時代での活躍ってカルディアではメル2-22年のことだけど、地球では西暦1991-2011年のことだよね」
「あぁ。でもその期間、俺は地球にもいたぜ? カルディアにいた覚えはないよ」
「つまり、1991年にオーディン時代に転生したときも、セレスだけが転生したってことだよ。
 わたしたちの場合、肉体は常にふたつあるの。地球にひとつ、カルディアにひとつ、って具合にね」
「なるほど……」こくこくと頷く。「それで今回も肉体だけは地球に残ったわけか。しかし毎度毎度なんで肉体だけ残るんだ?」
「ふしぎ?」
「だって、ふつう異世界物っていったら身体ごと飛ばされるものだろ。こっちに残った俺たちに一体何の意味があるんだ」
 するとリディアは桜色の唇をセレンの耳に近付けた。桃の香りが微かに彼の鼻腔をくすぐる。
「あのね、この世界に残ったわたしたちの使命は――」

 ――しばしの沈黙の後、彼は感心したような呆れたような顔を見せた。
「……よくもまぁそんな巧い『やり方』を考えたものだな。
 確かにその方法なら『使命』とやらを達成できる。しかも、たとえこちらに残ったほうの俺に途中で何かあっても大丈夫な仕組みになっている」
 リディアは子供のようにくすくす笑うと、セレンの耳元からゆっくり離れた。

「それに、そういう事情なら、俺がカルディアでの出来事を覚えてないのにも納得できるよ」
 腕を組んで頷くセレン。
「ううん、少しは覚えてるはずだよ。確かに記憶としては残ってないけど、セレスに刻まれた無意識はしっかりとカルディアのことを覚えてるから」
「そうなのか?」
「例えばわたしたちのこの20年間で特別なことが起こった日は、たいていオーディン時代でも特別なことが起こった日なの。セレスの無意識がわたしたちに似たような行動を取らせていたってことだね」
「俺が地球でアルカを再現したのもその一環か……」
「まぁ、そっちは死神との契約が大きく絡むんだけど」
「死神?」
「あ、ううん……」
 口ごもるリディア。彼女は話題を変えようとする。

「ほかに、絵や音楽なんかもそうかな。セレン君、新古典主義とか好きでしょう? あれって神様が実在するカルディアだと最も発展した分野よね」
「俺が新古典主義を好きなのは異世界の記憶に引きずられてるからってことか。で、音楽もそうなのか?」
「地球じゃ西洋十二音階が一般的だけど、カルディアでもアルミヴァの十二神を用いるから音階の数は同じ。その上、人間が心地良く感じる和音なんかは物理的特性によって定まるものだから、異世界でも和音の仕組みは同じ」
「ってことは、使われるコードやメロディも完全に恣意的ではないということか。つまりカルディアにも地球と同じコード進行やメロディがあると」
「そう。そしてどちらの世界にも数えきれないほどの曲がある。となれば単純なメロディーの曲ほど、同じものが二つの世界にある可能性が高くなる」
「車輪の再発明みたいなものだな。全く情報のやり取りがない間柄でも結果的に同じものを作ってしまうというような。……例えばどんな曲がかぶってるんだ?」
 するとリディアはくすくすと楽しそうに笑った。何だか今日の彼女はおかしい。前世の記憶が蘇ったせいか、あるいはそれ以上の何かがあったのか、いずれにせよセレンの知らない様々なことを把握しているようだ。
 リディアは彼の反応を楽しむかのように、指折り数えだした。

「例えば日本で有名なお菓子の曲。『ちょっこれーとっ……』ってやつね。あれとよく似た曲が凪国の国歌になっている。貴方の耳が惹かれるはずよね。
 それと、グリークのペール・ギュント、山の魔王の宮殿にて。あれはkakoの時代に作られた"non keno hacma"という曲によく似ている。
 あとルティアの国歌は、イギリスで生まれた世界一有名なファンタジー小説の映画版テーマ曲にそっくり。
 そして日本で二番目に有名なRPGゲームのテーマ曲……。あれは惑星アトラスの星歌となっている」
「星歌? 国歌じゃなくてか?」
「本当に忘れているのね。わたしたちアシェットは悪魔と戦った際、トルバドールという連合国を作り、国家を越えた星歌アンシャルディアを作った。
 それは人類の希望の歌となり、その後はアルバザードの国歌としても採用された。
 ――そしてその歌を作ったのは、ほかでもない貴方なのよ」
 セレンは目を見開いた。
「俺が!? いや、でもあれはあの会社が――」
「――作ったよね、当然この世界では。でもカルディアでは貴方が作った。幻字の歌なんかと一緒でね」
「けどほら、そんなこと言っても著作権とか色々大人の事情がさ……」
「異世界相手に申し立てるの?」
「……ごもっともで」
 涼風になびく髪を押さえながら、リディアはふふと笑った。
「わたし思うんだ。どうして貴方があのゲームに惹かれたり、あのお菓子の曲を好きになったのか。きっと、魂の記憶が惹かれたからよ」

「はぁ……」
 セレンは疲れた顔で首を回した。肩が凝った。今夜はあまりに新しい情報が多すぎだ。やれ前世だ使命だ音楽だ物語の絡繰だと……。
「ん、絡繰……?」
 ふっとあることに気付き、リディアを見つめる。
「なぁ、もし俺がこの物語の絡繰を聞かされなかったら、20年のあいだに見抜けていたかな」
「きっと分からなかったんじゃないかな」リディアはあっさりと否定する。「貴方だけじゃなく、きっと誰も気付かなかった思う。最も複雑な仕掛けは、最も見えやすく最も見えにくい部分に潜んでいるから」
「そう……かもな。あからさまなトリックが囮のように見えて――」
 言いかけた彼の唇に人差し指を当てるリディア。そして悪戯げに囁いた。
「神様は嘘を吐くための嘘を吐いた。
 これはそんな寂しい神さまのおはなし。
 かみさまの、懺悔」


 静寂が訪れる。
「ねぇ」思い出したように呟く。「さっき、自分にできることなら何でもするって言ってくれたよね」
「……言ったな」バツの悪そうな顔をする。「悩みや願い事があればの話だが」
「お願いごとならあるよ」
 脚をぷらぷらさせながら、あどけない顔で笑う。
「……聞いてやる」
「あのね――」胸の前で手をきゅっと握る。緊張で声が少し上ずっているようだ。「――わたしに貴方のこと、ずっと好きでいさせてほしいの」
 セレンは暫しの間沈黙した。その言葉は聞こえよりずっと重い。それが何を意味するか、どれだけの苦労と犠牲を払うことになるか、彼は重々承知していた。だからこそすぐには返事ができなかった。
 やがて彼はその言語の重みを十分噛み締めてから「分かった」と応えた。
「約束するよ、リディア」
 彼は静かに宣言した。
 それから彼は自分の願い事をリディアに告げたが、夏の夜風がふいに言葉を掻き消してしまった。
「うん……」桜色の頬で頷くリディア。
「約束するよ、セレン君」

 ふとリディアは物憂げな表情で公園の時計を見やる。
「そろそろ転生したわたしたちはカルディアに着いたころかなぁ」
 呟きながら、彼女は顔を暗くする。
「転生した俺たちは一体そこで何をするんだろうな」
 ぽつりと疑問を投げかけるセレン。しかしリディアはかすみ草のようなか弱い微笑を返しただけだった。その眼はまるでこれから起こることを知っているかのようにも見えた。

「手……つないでもいい?」
 その声はなんだか今にも崩れてしまいそうなものだった。
「うん……」
 差し出すと、彼女は小さな手でしっかりと握ってきた。その手は微かに震えていた。
「どうした?」
「怖いの……」
「怖い?」
「だって、転生した先でも貴方がわたしを好きでいてくれる保証はないもの」
 リディアは今にも泣きそうな声でそう告げた。
「大切なのは魂……セレス。そのセレスが異世界へ行ってしまった。物語の視点は地球上にいるこのわたしたちから離れてしまう。
 カルディアに着いた貴方はわたしをまた選んでくれるだろうかって思ったら自信がなくて、それですごく不安になったの」

「そうか……」
 ぽんぽんと頭を撫でるセレン。彼女は応えるように彼の肩にしなだれかかった。
「このまま少しだけ寝てもいい?」
「いいよ、長旅で疲れただろ。少し休むといい」
「眼を閉じたら、今のわたしたちの物語は終わってしまう。次にわたしたちの魂が出逢うのはカルディアの中。
 だけど、そこでわたしたちの関係性が維持される保証はない……」
 リディアは不安げな顔をすると、繋いだ手に力を込める。
「手、ずっと握っていてくれる?」
「……あぁ。離さない」セレンは力強く言った。「――たとえ次の世界へ行ってもな」
 その言葉に勇気づけられたリディアは安心したように微笑むと、幸せそうに眼を閉じた。
「このまま夢に降りたら、向こうで最初に逢えるのはきっとセレン君だね」

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