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前時代の残滓

dkの作業中に、次のような疑問を抱いたことがある。

「自分が作っているのは要するに国語辞典なわけだが、国語辞典は果たして今後使われるだろうか。
 国語辞典はたいてい漢字を引くのに使うが、携帯が出てから急に使わなくなった。
 また、広辞苑は十万語以上載っているのに、新語やスラングは出てこない。
 多くの現代人は「敷衍」が分からなくてもスルーするが、新語のカタカナ語は生活や仕事に絡んでくるので調べる。
 しかしそういうのに限って載ってない。で、グーグルを使う。スラングなんか顕著で、ネットに頼るしかない。
 今後国語辞典はどんどん使われなくなる。情報革命は実質グーグルに移ったわけだし……」

その後、規範主義とプラグマティズムの分析を通して次のことに気づいた。
この分析を通して、もやもやしていた疑念が確信めいてきた。

「国語辞典は規範主義だが、グーグルは検索エンジンであってサイトの集積を参照しているにすぎない。
 そしてサイトの集積は言語の用例の集積に等しい。
 となると、第二次情報革命とは百科事典的な規範主義からネット的なプラグマティズムへの転向だといえる。
 だとしたら間違いなく21Cはプラグマティズムの時代で、dkは81年生まれの昭和的価値観の残滓なのではないか。
 アトラスで考えても今より進んだレインの時代にタウンページのようなdkを果たして配布するだろうか、多額の税金かけてまで」

dkの発想自体が前時代の残滓なのではないか。
プラグマティズムへの移行はむしろ時代の流れに対して順行しているのではないか。
17~19Cの人工言語にはなかったオプションへ動いている過程が現在の状況なのではないか。

つまり、dkの発想は新しいように見えて古かったということになる。
自分が規範に拘泥していたら、頭の柔らかい若い世代にあっさり置いていかれたかもしれない。
新世代の人工言語はプラグマティズムへ向かっていくのではないか。

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では今後の人工言語の辞書はどのような規模になるだろうか。
dkでは死にデータが多すぎ、かつ前時代的な規範主義が強すぎる。
かといって辞書は大切で、単語帳で満足というわけにもいかない。何事も極端なのはよくない。

その言語独特の語法は必要だし、その世界独特の文化記述も必要だ。
語源や多義の記述もあったほうがよく、用例はいうまでもない。
アルカでいえば幻日が最も近く、生きデータの割合が最も高い。
したがって、幻日程度の規模が中庸ではないかと思われる。

ただ、「幻日程度」といったが、語弊がある。
幻日は人工言語の辞書としてはかなり詳細で、語法や文化欄は自然言語の辞書以上に細かい。
実際にはあれよりもっと簡素な辞書でも十分なのではないかと思う。
また逆に、幻日は規範主義のせいか、用例が少なすぎる。これはむしろ改善点だろう。

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