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STUDY:はじめてのアルカや概説等

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新生のアスペクト考

・アスペクト

ひとつの動詞につき、アスペクトは7相。
将然・開始・経過・完了・継続・終了・影響の7相。

それぞれ下記のように表す。内側の3つのみ動詞語尾で、あとは副詞である。
sat, kit, -(o)r, -(i)k, -(e)s, took, ilt

この7相に2つの無相が加わる。無相は相がないので、アルカの相は7種。
無相は2種ある。ひとつはkit~ikまでの「行為無相」。ひとつはik~tookまでの「状態無相」。
前者は動詞に何も付けない無標形であるが、「これは動詞である」と明示するために接尾辞-(e)mを使うこともできる。
後者は副詞xaを付けて表す。

fai(燃やす)の実例

fai:燃やす
fai xa:燃えている。燃え始めから燃え終わりまでの総称

fai sat:燃やそうと考える。準備する。火を近づける
fai kit:火をつけ始める
fair:火を当てている。チリチリいう
faik:火がつく。点火
fais:燃えている途中
fai took:燃え終わる
fai ilt:灰になっていて燃やした結果が残存している

skin(座る(正確には座らせる))の実例

skin:座る
skin xa:座っている。座り始めから起立までの総称

skin sat:座ろうとしている
skin kit:座り始めて腰を曲げた
skinor:腰を下ろしている途中
skinik:座面に尻が着いた
skines:座っている状態
skin took:座り終えて立つ瞬間
skin ilt:座面が暖かく、座っていた影響が残っている

・例外動詞

xa(いる)、siina(好き)などは、無標が行為無相でなく継続相になる。
例外動詞では継続相が無標になる代わりに、行為無相に必ず-(e)mが付く。

siina(好き)の実例

siinam:好む
siina xa:好きである。好きになり始めから好きでなくなるまでの総称

siina sat:好きになろうとしている。まだ他人
siina kit:好きになり始めた。意識し始めた
siinar:好きになる途中。あの人いいかも状態
siinak:好きになった。私この人のこと好きなんだという気付きの時点
siina:好きである。好きだ
siina took:好きでありおわる。好きでなくなる
siina ilt:むかしは好きでした的な意味

継続相で使う頻度が最も高く、かつ行為無相で使う機会がほとんどない動詞のみが例外動詞になる。
その動詞はこのとおり。

・存在動詞:xa, mi
・所有動詞:til, si
・心理所有動詞:naのみ
・定義動詞:eks, mols, gartなど
・心理動詞:siina, tiia, sin, varae, hatia, kafなど、siina型の動詞

定義動詞については詳しくは[[定義動詞]]参照。

感情動詞であるvem, jo, emt, nauなどは例外に含めない。
感情動作動詞であるnax, asex, kuklなどは例外に含めない。
いずれも行為として使われる機会がそこそこあるため。

所有動詞は、「手にする」という意味では所有動詞ではないので、行為動詞が無標になる。
従って、「手にする」という意味では、継続相が無標にはなれず、(e)sを付けねばならない。
具体的には、「鎌を(手に)持つ」はtil markで、「鎌を(手に)持っている」はtiles markである。
後者をtil markとすることはできない。所有ではないからだ。
tilの無標が2つあるように見えるのは、「所有する」と「手に持つ」という2つの現象が多重定義されているからだ。

英語と違って知覚動詞は特別扱いにならない。
inは正確には見るではなく「目をやる」と覚えるとよい。
視線が当たった瞬間がinikであり、見ている状態がinesであり、目を離したときがin tookになる。
思えば日本語の「見た」もinikのときもあればin tookのときもあり、よく区別ができなかったりする。

・アスペクトのモデル

将然・開始・経過・完了・継続・終了・影響のうち、開始・完了・終了は点のアスペクトである。
ほかは線のアスペクトである。従ってこのようにモデル化できる。

――○――○――○――

このモデルは7相体系とか単位動詞のモデルなどと呼ばれる。
単位動詞については後述される。

・3段階と2動詞

将然~継続=行為動詞
経過~影響=状態動詞

のように7相は2種の動詞に分けることができる。
行為動詞は状態動詞より動的で主語の意思のある行為を示す。

また、7相は3段階に分けることができる。
将然~経過:事前段階
経過~継続:実行段階
継続~影響:事後段階

実行段階を内相、それ以外を外相という。
内相はすべて頻度が高い相であるため、動詞語尾すなわち接尾辞で表現され、唯一アクツィオンスアルトになっているのが特徴である。

・実際使うのは内相

7相と聞くと大変そうだが、実際に使うのは内相のみ。あとはレアケースである。
また、5相から7相になったことで、いざ厳密にアスペクトを表現しようと思ったときに、きちんと表せるようになった。
普段は3相、厳密には7相を使い分ければいいので、合理的な体系といえる。

・不定動詞

「歩く」「走る」「書く」などの動詞には定動詞と不定動詞の用法がある。
スラブ語と異なり、アルカは定不定により単語を分けない。

「歩く」の定動詞は移動動詞で「solがyulを通ってaに歩いて行く」である。
「歩く」の不定動詞は運動動詞で「solがyulを歩く」である。

不定動詞「歩く」は一歩歩いても千歩歩いても歩いたことになるという特徴を持つ。
一歩歩くという最小単位の累積が不定動詞になっている。
一歩歩くというのはそれだけで終始する一回性のある運動である。
これを○で表すと、不定動詞は任意の個数の○、すなわち……○○○○○○○○……で表せる。
定動詞が有界であるのに比べ、こちらは非有界である。

しかし現実の行為は無限ではない。始まりも終わりもある。
始まりと終わりを|で示すと、不定動詞のモデルはこうなる。
|○○○○|
任意の個数の○が|の間にある。

また、|にいたるまでの過程と、|からの未来を――で表すと、モデルはこうなる。
――|○○○○|――
これは定動詞のアスペクトのモデルと異なっている。

なお、「歩く」は不定動詞だが、「座っている」は不定動詞でなく「座る」の継続相である。
一秒座っていれば座っていることになるから歩くと同じ理屈であり、skin xaも不定動詞であるというのは誤り。
lukesとskinesは意味が違う点が根拠。lukesは「動物が道を歩いた足跡がある」や「今日は長く歩いているので足が疲れた」などの場合に使う。
ロシア語にはsitに不定動詞Сидетьと定動詞Посидетьがあるが、アルカのskinに不定動詞がないのは、skinの正確な語義が「座る」ではなく「座らせる」、つまりseatだからである。

・なぜ定不定を分けなくても言語は成立するか

スラブ語と違い、日英幻は定不定の語彙レベルでの区別がない。
「歩く」には移動動詞と運動動詞が多重定義になっている。

setの単位動詞と反復動詞を見てみよう。

――○――○――○―― 定動詞(=単位動詞。以下同)「殺す」
――|○○○○|――  反復動詞「殺し続ける」

setの場合、単位が基本だが、反復動詞として累積も使う。

次にlukの定動詞について見る。

――○――○――○―― 定動詞「歩いて移動する」→よく使う
――|○○○○|――  反復動詞「歩いて何度も移動する」→使わない

lukの定動詞は反復で使うことがまずない。
定期便の馬車が決まった道筋を歩いて何度も往復するような場合に使う動詞だが、まず必要ない。

次にlukの不定動詞について見る。

――○――○――○―― 定動詞「一歩歩行する」→使わない
――|○○○○|――  累積動詞「歩行する」→よく使う

一歩歩行する行為にも当然脚を出して地面につけて……という動作があり、その短い時間を微分して考えれば7相が立つ。
だが、まずその意味で使うことはない。

さぁ、lukの定不定を見て気付いただろうか。「使わない」と「よく使う」が逆転している。
そこで、使わないものを排除して統合するとこうなる。

――○――○――○―― 定動詞「歩いて移動する」→よく使う
――|○○○○|――  累積動詞「歩行する」→よく使う

この体系にすれば、lukは定動詞と不定動詞を混ぜつつ、setと同じように2つのモデルで必要な部分だけを表せる。
これが言語によっては定不定の区別がない理由であると思われる。
定不定のある動詞は、どうやら定の場合は単位、不定の場合は累積がデフォルトになる。
従って、それらを組み合わせれば、setなどの定動詞同様、2モデルで事足りる。

事足りるので日本語では語彙レベルで区別しない。
また、事足りても気になる言語、例えばスラブ語などはきちんと区別する。

なお、このことは定不定を持つ動詞すべてに言える。
「読む」「書く」「走る」「泳ぐ」などなど。

・消えた定動詞の反復動詞と不定動詞の単位動詞を表すには?

――○――○――○―― 定動詞「歩いて移動する」→よく使う
――|○○○○|――  反復動詞「歩いて何度も移動する」→使わない


――○――○――○―― 定動詞「一歩歩行する」→使わない
――|○○○○|――  累積動詞「歩行する」→よく使う

これのよく使う部分だけを併せて……

――○――○――○―― 定動詞「歩いて移動する」→よく使う
――|○○○○|――  累積動詞「歩行する」→よく使う

……にすると、例えば不定動詞の単位動詞「一歩歩く」は表現できなくなる。
省かれた……

――○――○――○―― 定動詞「一歩歩行する」→使わない
――|○○○○|――  反復動詞「歩いて何度も移動する」→使わない

……についても表現するにはどうすればよいか。

単位動詞を示す副詞を作ってもよいが、定不定の区別のある動詞はそう多くない。
そのためだけに副詞を作ってもほとんどのユーザーは理屈が理解できず、使いこなせない。
このような場合は迂言法が適切である。

――○――○――○―― 定動詞「一歩歩行する」→luk du ko (luk)
――|○○○○|――  反復動詞「歩いて何度も移動する」→luk di ras di

・単位動詞と非単位動詞

累積と反復は似ていてしばしば区別がつかない。
にもかかわらず、殺すの――|○○○○|――モデルは累積というよりは反復だと思う者が多いだろう。
殺すと歩くの――|○○○○|――のどちらが反復かと言われればふつうは殺すを反復というだろう。

だがそれに特に根拠はなく、恐らくほとんどの人が何となくそうしているのだと思う。
これまでは「なんとなく」殺すが反復だと言っていたにすぎないが、この記事によると、定不定の混ざった――|○○○○|――モデルが累積で、そうでないものが反復になる。
では累積と反復の何が違うか。

アルカでは――|○○○○|――モデルの継続部分がso diかsoで示される。
累積の場合、行為無相がsomになり、継続部分が無標になる。
一方、反復の場合、継続部分はso diになる。

つまり「歩く」の場合、「歩いて移動する」という定動詞の行為無相よりも累積動詞で使われることが多いので、いちいちso diとは言わず、soでよい。
だが「殺す」の場合は逆だ。単位動詞で使われることが多いので、反復動詞の継続部分はso diとする義務がある。
これが累積と反復の違いである。
この違いは日本語にも有効で、日本語では「歩く」で単に累積動詞になれるが、「殺す」は反復動詞になれず、「殺し続ける」という義務がある。

一方、累積も反復もモデルとしては等しく――|○○○○|――で表される。
そこで、累積動詞と反復動詞をまとめ、非単位動詞とする。

・非単位動詞のモデルは単位動詞のモデルから作られる

――○――○――○―― 単位
――|○○○○○|―― 非単位

↑のモデルを見る。実は1段目の――○――と2段目の○○○○○が違うだけで、よく似ている。
非単位モデルは単位の経過・完了・継続の内相の部分を、単位の無相の連続で置き換えたものである。

作り方
1: ――○――○――○――の左から1番目の○と――と2番目の○を取り、無相として1個の○にまとめる。 すると2のようになる。
□□□□↑□□↑□□↑
□□□□開□□完□□終

2: ――○――○――
□□□□↑□□↑
□□□□無□□終

3:無相部分を増殖。すると残った相はこの5つ。
   ――○○○○○――○――
□□□↑□□↑□□↑□↑□↑
□□□将□□累復□継□終□影

残ったのは将然、累積(反復)、継続、終了、影響である。

4:次に累積部分のスタートとエンドを挿入。現実のあらゆる累積反復動作には始まりと終わりがあるからである。

――|○○○○○|――○――
↑□□□□↑□□□↑□↑□↑
将□□□□累復□□続□終□影

5:ここまでは行為動詞の無相を連続させた場合である。
状態動詞の無相を連続させて1~4まで同じ操作をするとモデルはこうなる。
行為動詞と左右対称にできあがる。

――○――|○○○○○|――
↑□↑□↑□□□↑□□□↑
将□開□過□□□累復□□影

6:4と5のモデルの共通している部分を抽出し、ひとつの図にする。

4の――|○○○○○|――○――の続と終の――○の部分は5にないので落ちる。
5の――○――|○○○○○|――の開と過の○――の部分は4にないので落ちる。

結果 ……

――|○○○○○|――
↑□↑□□↑□□↑□↑
将□?□□累復□?□影

……が残り、冒頭の非単位のモデルになる。

統合の結果、継続と終了と開始と経過が落ちた。
ところで現在縦棒が2つ?になっている。
意味的には累積反復の開始と終了である。
そして面白いことに現在開始と終了が落ちて手持ち無沙汰になって余っている。
そこで、これらをリサイクルすると……

――|○○○○○|――
↑□↑□□↑□□↑□↑
将□開□□累復□終□影

……となる。

――|○○○○○|――
↑□↑□□↑□□↑□↑
将□開□□累復□終□影

の開始と終了は元々あったものでなくリサイクルしたものなので、名称は同じでも元の相と内容が同一ではない。
ゆえに開’や終’と呼ぶべきものである。

終が終’に変化したことにより、隣接していた影響相も元の影響相とまったく同じ内容というわけにはいかなくなる。
そのため影も影’になる。同様に将も将’となる。

――|○○○○○|――
↑□↑□□↑□□↑□↑
将’開’□累復□終’影 ’

bad tookは「机が凹んでいる状態から戻る時点」と「乱打終了」が同じになってしまうが、これは終と終’の違いを示している。

以上、非単位動詞のモデルが単位動詞のモデルから作られることがわかった。
では、具体的に非単位動詞に出てきた将’~影’までの5相をどのように命名すればよいだろうか。

方法は3種。
1:’~影’はダッシュ付きであって元の相と違う。従って別の単語を設ける。
例えば7相体系とまったく別の副詞を用意し、kor, luko, leev, rotのようにする。累積はΦで反復はdi。

2:将’~影’はダッシュ付きだが互いに似ているため、sat, kit, took, iltで代用。 累積はΦで反復はdi。
badの場合は終は「机が凹んでいる状態から戻る時点」で、終’は「乱打終了」だが、ふつう意味的にいって、後者しか使わない。
ではtookで終’を表しても事実上混乱しないのではないか。

1にすると厳密にはなるが、実際使わない意味ばかり出てきてしまう。
また、副詞を5つ新しく覚えないといけない。
さらに書くのを止めるというとaxt tookと言いたいが、これをaxt leevと言わなければならないのはアルカの単語のイメージにも反する。
となると、2のほうがよく思える。

3:1では新しい副詞を作ったが、新しく副詞を作らずに、意味の違いは統語操作でまかなう。
2のようにsat, kit, took, iltを使うものの、1のようにきちんと終と終’を区別する。
tookを副詞でなく連動詞として使う。すなわちtook soである。

アルカは3を採用する。
set kitは単位動詞「殺す」の開始で、一人を殺し始めることである。
kit setは反復動詞「殺す」の開始で、開’にあたるものである。意味としては連続殺人を始めるというもの。

日本語は絶妙に単位と反復を区別している。
(1) ジグソーは交通事故の後、人を殺し始めた:反復の解釈
(2) ジグソーは交通事故の後、殺しを始めた:反復
(3) ジグソーは交通事故の後、殺し始めた:単位。省略された目的語に「人々」などが入らない限りは連続殺人の意味にならない。また、仮に人々が入っても、その場合は連続とは限らず、一度の大量殺人の可能性がある。

日本語の場合、ヲ格に何が来るかで単位と反復を分けている。
語彙レベルで単位と非単位を区別しないので、絶妙な技といえる。
これと比べると、アルカのほうはkit(始める)という語の位置で単位と非単位を表すので、いくぶん単純である。

ほかの例
kit luk:歩行の開始
luk kit:移動の開始

なお、非単位相は元々単位相にはないため、satやkitのように単位相から借りてくる必要がない。
また、副詞だったkitを連動詞にするという必要もない。
そのため、diは副詞のままでいい。

luk (di):歩き続ける
set di:殺し続ける

ちなみにset diとset xalは日本語ではどちらも「殺し続ける」だが、前者は反復動詞の反復相で、後者は行為無相に副詞がついたもの。
後者は「過去と同じく、今も人を殺す」という意味で、服役して出てきた人間が懲りずにやっているニュアンス。
前者は殺しまくるのニュアンス。

・瞬間動詞と反復

「消える」「光る」などは瞬間動詞で、7相体系――○――○――○――において、経過相が極端に短い。
結果、――○○――○――に見える。
○○がくっついて、――○――○――に見える。
従って、無相が事実上完了相に見える。bad=badikといっているようなものだ。

瞬間動詞を――○――○――○――にするというのは、経過相を顕微鏡で見て広げるような行為だ。
実際は行為無相が一個の○になってしまうのが日常的。
それゆえ、累積動詞「歩く」と同じく――|○○○○|――のモデルが成り立つ。
そこで、bad diで「殴り続ける」という表現が可能になる。

行為無相を一個の○でまとめるという行為を応用すれば、本来経過相がほぼゼロにならないset(殺す)の無相も一個の○でまとめたらどうかという考えが出てくる。
つまり一般の動詞も――|○○○○|――のモデルで捉えたらどうかということだ。
この場合、set diで殺し続けるの意味になる。

・極小単位を持たない動詞は累積動詞になれない

vat(待つ)は累積動詞か否か。
結論から言うと、否。

「なぜだ、一歩歩いても歩くだからlukは累積なんだろ。
じゃあ一秒待っても待ったことには変わらないからvatも累積だ」

――と思うかもしれない。
ここで単位について考えてみる。実は上の括弧内はおかしい。正確には

「なぜだ、一回歩いても歩くだからlukは累積なんだろ。
じゃあ一回待っても待ったことには変わらないからvatも累積だ」

――というべきである。
累積とは単位の繰り返しなのだから。秒とか歩ではなく、回で考えなければならない。
さて、それでは最小単位の歩くとは何だろう。それは一歩歩くだ。
従って歩くという不定動詞の単位は「歩」になる。

書くも同じだ。最小単位は手首のワンストロークだ。
あるいは一文字でも一点でも一画でも結構。
書くの最小単位は「最小ストローク」になる。

読むは?
一文字が最小単位だろう。別に編や旁でもよいが。
読むの最小単位はおおむね「文字」である。

一方、待つの単位は何だろう?
心理動作にすぎない待つには実は極小の単位がない。
一秒と思うかもしれないが、そうではない。

一秒の間何もしなくても最小単位の待つをしたことになるだろうか?
一秒脚を上げたままで最小単位の歩くを行ったことにならないのと同じである。
秒というのはその間に何もしないことができるので、単位にはなれない。

そうすると待つには極小単位がないことになる。
殺すと同じく、別の大きな着点を持った単位を考えなければならない。
それは対象が来た時点である。
人間にとって「一回待つ」とは、相手が来るかこちらが諦めるかした場合だけである。

従ってvatに累積を求める行為は、ものすごく短い時間の中で何度も何度も「待つ」という行為を送ることを意味する。
もしそのような言語観を人間が持っているとしたら、彼女は待ち合わせの相手にこのように言うだろう。
「遅いよ。もう2500回も待ったんだから!」
だが、実際に誰もこのような言い方をしない。
みな、待つの一回の単位は一度の待ち合わせという比較的長い時間を指すことを知っているからだ。

このように、心的動作は極小単位を設定できない。
極小単位を持たない動詞は歩くのような累積動詞にはなれない。setのような反復動詞にしかならない。
従ってvat diは「何度も何度も待ち続ける」という気の長い話になる。
vatの仲間にはlax(望む)などがある。

・動詞の相の局面の組み合わせは、内相が最も高頻度になるように設定する

では、「待っている」はvatorかvatesか、どちらだろう。
vatorである。vatesにするとvatikは「待つ準備を終えた瞬間」を意味する。
すると内相であるvatorは「待つ準備をする」になる。
表にするとこうなる。

vator:待つ準備をする
vatik:待つ準備が終わり、待ち始める
vates:待っている

日常生活で上記のor,ikを使うだろうか?
一方、「待っている」をvatorに設定した場合はどうか。

vator:待っている
vatik:待ち終わった。相手が来たか諦めたか
vates:待っていた形跡がある

明らかにこの組み合わせのほうが内相に無駄がない。
7相体系は内相が最も頻度が高くなるようにできている。
従って「待っている」はvatorであるべきだ。

同じく、laxについてはこのようになる。

laxor:望んでいる
laxik:望み終わる。叶ったか諦めたか
laxes:望んでいた痕跡がある

vatとlaxは心理的な動作であるという点で同じであり、そわそわ期待している点で意味も共通している。
今気付いたが、「期待」の中には奇しくも「待つ」という字が入っているね。
それで、vatとlaxの相は合わせたほうがいい。バランスを整えないと動詞ごとに相を覚えるのが面倒だ。

・無相の指向性

人はsetとsetesはきちんと区別するが、vatとvatesはきちんと区別しないのではないか。
(1) 彼は彼女を殺す
(2) 彼は彼女を殺している
(3) 彼は彼女を待つ
(4) 彼は彼女を待っている

(3)と(4)は同じことを言っているように聞こえるが、(1)と(2)は同じに聞こえない。
(3)も(4)もまだ彼が来ていない感じがするし、そこまで意味の差があるようには感じられない。
一方、(1)と(2)は違う。(2)はまだ止める余地がありそうだが、(1)はなんだかもう手遅れな気がする。
そしてそのように感じるのは正常な言語観だ。だが、なぜその差が出るのかは謎なはずだ。

実は無相には指向性がある。
動詞によって、その無相が暗示している相というのがある。

例を追加しよう。
(5) 星が消える

どうだろう。(3)のときは彼が来ているかどうか不明だったし、むしろまだ待っていると解釈しただろう。
(1)だと彼女が死んでいるかどうかは半々くらいだと解釈しただろう。
そして(5)だとほとんどの読者は星がもう消えたも同然だと解釈しただろう。

そう。sedoのような瞬間動詞では、無相は完了相への指向性を持つのだ。
言い換えれば、無相が暗黙の了解で完了相っぽく振舞うということだ。
この原因は経過相の短さにある。「瞬間」動詞だから、このようなことが起こる。
瞬間動詞は経過相がほぼゼロである。
従って7相は……

――○――○――○―― から

――○○――○―― になる。

そして開始と完了がくっついて、

――○――○―― になる。

結果、無相がつまるところ、完了相と等しくなってしまうわけである。
このせいで、瞬間動詞の無相は完了相へ指向性を持つ。

一方、setの場合はどうか。殺すというのは通常待つほど長い時間はかけない。
色んな殺し方はあるだろうが、たいていはナイフでサクっとか、まぁじわじわやることは少ない。
かといってふつうは原爆で一瞬に灰にするほど瞬間的にも殺さない。

そこで、経過相は「ほぼゼロ」ではないが「とても短い」になる。
あえて図にするなら……

――○――○――○―― から

――○・○――○―― になる。

元の7相に比べて、無相が完了相に近付いている。
だがしかし、完了相と融合はしていない。
そこで皆さんは(1)に対して彼女が死んでいるかどうかよく分からないと感じたわけだ。
setのような動詞は完了相へ多少の指向性があるといってよい。

一方、vatはどうか。待つというのは一般的に経過相が長い。
そして人類は待つという行為のうち、一番経過相に焦点を当てる。
殺すという動詞の場合は刺し殺した瞬間に焦点が行きやすいが、逆に待つという動詞は待っている間に焦点が行く。

こういうのは動詞のイラストを書かせてみると分かる。殺すの場合、AさんがナイフをBさんに刺し、Bさんがギャっとなっている絵を描くだろう。
待つの場合、Aさんが腕時計を見ながらイライラ貧乏ゆすりしている絵を描くだろう。相手が到着した瞬間の絵は描くまい。

さて、待つは経過相が長いが、それをあえて図にするなら

――○――○――○―― から

――○――――○――○―― になる。

こうなると、無相部分である○――――○の中で最も焦点化されているのが経過相であるということがビジュアル的に理解できると思う。
結果、vatの無相は経過相に対して指向性を持つということになる。

指向性はアナログで漸次的であり、瞬間動詞のように強く完了相に指向性を持つものもあれば、「殺す」のようにやや指向性を持つものもある。
変化動詞「殺す」は不変化動詞「叩く」より完了相への指向性が強い。
心理動詞vatのような動詞は経過相への指向性が強い。

まとめ

動詞の無相は指向性を持つ。
指向性は経過相か完了相に向けられる。
どちらかになるかは、経過相の長さによって決まる。
例えば瞬間動詞は経過相がほぼゼロなので、完了相への指向性を持つ。

なお、ここで述べたのは行為無相に言えることである。
状態無相の場合、問答無用で継続相に指向性を持つ。
つまりskin xaはskinesに指向性を持つ。

・単位動詞の数直線モデル

単位動詞のモデルは下記の通り。

――○――○――○――

中心は完了相である。
図が数直線に見えるので、ここを仮に0とする。
すると0を中心として、おおむね左翼が行為動詞、おおむね右翼が状態動詞になる。
○が左に行くごとに-1,-2…としていく。右も同様に+1, +2…としていく。
するとこのようになる。ただし、この図では±2の地点が含まれていない。

――○――○――○――
□□-1□□0 □□+1

行為動詞「座る」は-2の手前から1までの範囲を指す。変域は-2<x<1
状態動詞「座っている」は-1から+2の手前である。変域は-1<x<2

このアスペクトモデルは線のアスペクト――と点のアスペクト○で表されている。
――――や○○という組み合わせは存在しない。――○か○――のみがありえる組み合わせである。
順序に大きな意味はないので――○で一般化する。
――○という2相体系は、一般に言語におけるアスペクトの最小単位である。

――○という最小単位のアスペクトを繰り返していくと、何相でも作れる。
最小単位は――○だが、最大どこまで増設するかは決まっていない。理論上はいくらでも繋げられる。
ただアルカは7相を採用している。

では、仮に「座る」という動詞の左側を増設してみよう。

――○――○――○――○――
□□-2□□-1□□0 □□+1

上で-2<x<1でひとつの「座る」というまとまりになったのと同じように、ひとつ変域を左にずらして-3<x<0で見ても、ひとつのまとまりを作ることができる。-3<x<0の区間は例えば「倉に手を伸ばす(将然)、椅子を取り出しはじめる(開始)、椅子を設置して座る準備をする(経過)、腰を下ろしだした(完了)、腰を下ろしている(継続)」の5相に相当する。
将然から継続が「座る」のそれに対してひとつずつ左にずれているので混乱しないように。

さて、-3<x<0の区間は-2<x<1(座る)や-1<x<2(座っている)に比べてイメージしづらかったはずだ。
それは日本語に「その区間を表す表現」がないからだ。
しいていうなら、その区間とは「着席準備する」という漢語動詞になるだろう。

もしかしたら言語Lには「着席準備する」という動詞があるかもしれない。
あるまとまった区間に意味を見出すなら名付けをし、見出さないなら名付けをしないというのがポイントだ。
言語Lが着席準備するという現象に興味が持つなら、言語Lは上の-1の部分を中心点0に挿げ替え、ここを中心に「座る」とは別の新しい動詞を作る。

別の例を見よう。
燃焼という現象について考えると、「火を準備している、火を付け始める(-1)、燃やそうとしてパチパチいってきた、火がついた(0)、燃えている、火が消える(+1)、灰になっている」という7相を用意すれば、燃焼に必要な局面はすべて表現できる。
――○――○――○――のように。

むろんこの図の左側を増設すれば、「火種を揃える、火種が揃った(-2)、火を準備する」を加えることができる。
――○――○――○――○――のように。

だが、人類にとって表現したいことは恐らく-2<x<2である。この長さがあれば十分である。
燃焼準備をするという動詞があるとするなら-3<x<1が十分な長さになるが、燃焼という動詞についていえば-2<x<2が十分な長さである。

・十分な長さ=必要な長さではない

燃焼という現象の事前段階から事後段階まで過不足なく表現しようとすると、-2<x<2の7相が必要になる。
だが、7相も相を作るということは、それだけ表現を複雑にすることを意味する。
表現には十分だが、7相すべてが必要とは必ずしも言えない。

日本語の場合、日常的には「開始(しだす)・経過(している)・完了(した)・継続(している、してある)」の4相を使う。
日本語には-2<x<2もの長さが必要ない。

人工言語にも同じことが言える。
制アルカでは5相が必要とした長さだった。

・なぜ7相が十分な長さなのか

当然の疑問だが、なぜある現象の局面を表すとき、-2<x<2あれば十分局面を表現できるのだろうか。
「-2<x<2が必要ではないが十分である」の根拠を考えてみたい。

ある現象には、その現象の事前段階と実行段階と事後段階がある。
旅行の準備をして旅行をして後の処理をするとか、デートの予定を立ててデートして日記を書くとか、予習して勉強して復習するとか、日常的に言えばそういうことだ。
人間がひとつの現象に関わるとき、準備をし、実行し、事後処理をするというのが基本だ。
実行が中心に来るが、その前後についても考える。
燃焼とか着席といった現象についても、このように事前・実行・事後の3段階で考えるのが、人間として自然なのだろう。

ただ、あくまで重要なのは実行段階だ。
そこで言語によっては「ウチは実行段階さえ表せればいいよ。あとの相は迂言法で表現するから」ということになる。

さて、アルカではこれを踏まえた上で、あえて七面倒な七相体系にこだわろうと思う。

・数直線の中心が意味するものは

数直線の中心が意味するものは「実行段階の終了」である。
例えばデートというイベントなら、別れた段階である。殺すという現象なら、対象が死亡した段階である。
最も焦点化されている実行段階が完了した段階が、7相数直線の中心になっている。

・例外動詞はなぜ起こる

恋愛という現象を7相体系に収めると、0には「好きになった瞬間」が来る。
そして人間が恋愛という現象で最も注目するのは、「好きだ」という状態、0<x<1の区間だ。
――○――○――○――
□□□□□□□↑ココ

従って、このような動詞では0<x<1の区間を無標にしたい。
それが英語の心理動詞や知覚動詞であり、無標であるからこそing形を伴わない。

一方、殺害という現象では、無標になるのが-2<x<1の区間である。
アルカでは行為動詞の無相に当たる。日本語では辞書形の「殺す」に当たる。
恋愛と無標区間が異なるのが分かる。

そして殺害タイプと恋愛タイプを比べると、どの言語でも前者のほうが圧倒的に多い。
そこですべての動詞の無標区間を殺害タイプに合わせると、恋愛タイプの動詞を使うとき、無標区間を有標形式で表現しなければならない。
例えば英語でいうとI am liking itのように言わなければならなくなる。
これが冗長なので、すべての動詞の無標区間を動詞の種類ごとに振り分ける方法が一般的だ。
そして比率の問題で、恋愛タイプの動詞が一般に例外として処理される。

・重要なのは何を「実行段階」に持ってくるか

上で見たように、燃焼という現象で見れば、-2<x<2が十分な長さである。
ところが燃焼準備という現象で見れば、-3<x<1が十分な長さである。

もし言語Lが燃焼準備しか動詞を作らない場合、燃焼については-2<x<1までしかカバーできないが、一部は表現できることになる。
逆にもし言語Lが燃焼という語と燃焼準備という両方の単語がほしいと思えば、作ればいい。
その場合、これらは-2<=x<=1の区間を共有することになる。
共有しているということは、燃焼準備で燃焼の一部を表現できることになる。
これを無駄とか余剰と考える人間もいるだろう。
だが、それは無駄というよりは、単に燃焼準備という現象を表現する語がほしかったに過ぎない。

例えば7相を使えば、「生存」という現象を表す単語だけで「誕生」や「死亡」を表すことができる。
だが、誕生や死亡という現象は人間にとって一般に燃焼準備より興味深い。
そこで、これらを「実行段階」として7相の中心に据え、動詞を増やす。
当然「誕生」の7相と「生存」の7相は重複部分があるが、これを以って無駄とするのはいかがなものか。
むしろ、その言語は誕生という現象を特別に取り上げたかっただけであり、好んで無駄をしたのではない。

重要なのは何を「実行段階」に持ってくるかだ。
生存という現象に焦点を当てれば、そこを中心に事前段階と事後段階が想定される。
結果、別の動詞と重複する部分が出ても、それは副作用に過ぎない。
人間が焦点化したい「実行段階」の数だけ、動詞は存在する。
そして繰り返すが、言語によっては「実行段階」だけを表せば満足で「事後段階」などに興味のないこともある。

セレンはアルカの動詞faiの7相が定められずに困ったことがある。
セレンは「燃える」を「実行段階」に持ってきた。
axtan氏は「燃やす」を「実行段階」に持ってきた。

「燃える」で7相作ると、0より右側の部分があまり日常生活でなじみないものになる。
ところが「燃やす」で7相作ると、7相すべて日常生活でなじみあるものになる。

言語Lでは「燃える」を中心にしても「燃やす」を中心にしても、どこに焦点を置いて動詞を作るかの趣味の問題だからいい。
しかし、だ。人間の言語である以上、7相のそれぞれの意味が日常生活として馴染み深いものを選んだほうが、使いやすい。
従って「燃焼準備」や「燃える」を中心にして7相を考えることもできるが、「燃やす」を中心に7相を組むと、日常生活でまず使わないような相を避けることができる。

例えば「燃える」を中心に組むと、0の点は「火が消える」だから日常的だが、+1の点は「灰であり終わる」になり、1<x<2の区間は「灰でなくなって別のものになった状態」を意味する。
だが、こんなこと日常的に考えづらい。「燃える」を中心に組むと、日常言語的には右側の相を「無駄遣い」してしまう。
このように、どこを中心にするかについては、最もこういった「無駄遣い」が少ない7相を組むのが良いだろう。
この「無駄がない」というのは人間にしか判断できない主観的かつ認知的な行為であり、機械の作業できることではない。
言い換えれば、言語屋によっても若干差異があると思われる。

・「目をやる」と「見る」

見るの完了相が何か迷ったことがある。
仮に目に入った瞬間だとすると、見終わる時点はin tookになる。
同じく知覚動詞の聞くについても、聞き終わった時点がter tookになる。
「見た」「聞いた」は小説ではよく出てくる相だ。
従ってこれらが外相に来るのは好ましくない。

では、知覚が終わった時点を完了相にしたらどうか。
聞き終わった時点はterikになり、簡単になる。
ところが逆に「聞き始める」とか「目に入った時点」はter kitやin kitになる。
特に小説を書いていると目に入った瞬間を使うことが多く、困る。「彼女は意外な顔で彼を見た」などの例である。
これがいちいちin kitなのは耐えられない。

さて、困った。どちらを内相に入れても片方が外相になってしまう。
それはそうだ。内相に点アスペクトはひとつしかないのだから。

そこで、このようなときはどうすればいいか。
2つの点アスペクトがほしい場合は、その言語Lが新たな動詞をほしがっているときだ。
数直線で考えると、「生きる」の中で「生まれる」や「死ぬ」が表せるのと同じく、その気になれば少数の動詞で多くの動詞が表現できる。
だが「死ぬ」を「生き終る」と表現するのは面倒くさいし、人間の認知に合わない。「死ぬ」が注目されている場合、死ぬが数直線の0に来ないと不自然である。

実は「見る」問題についても同じことがいえる。
2点が注目されているということは、2つの異なった概念を欲しているということを意味する。
つまり、「見る」のほかに「目をやる」が必要だということだ。
むろん、両者は意味が近い。「見る」の相の数直線を左に1つずらせばそれが「目をやる」だ。

問題は、言語Lが「目をやる」に注目し、別の動詞として採用したいか、あるいは見るの相表現でカバーするかだ。
結果は言語によってまちまちであろう。

なお、私の見たところ、多くの言語は「見る」は専用の動詞で示し、「目をやる」はこのように専用の動詞を持たないことが多いようだ。
少なくとも「目をやる」が単語で「見る」が単語でない言語はなかろう。
アルカではlaiを「目をやる」にし、inを「見る」にした。同じく「耳を傾ける」はkortで、「聞く」はterである。

lu terik an(彼女は私の話を聞き終えた)
lu kortik an(彼女は私の話に耳を傾けた)
ter an(話を聞いていなさい)
kort an(これから言うことを聞きなさい)

このように、「Aを完了相にしたら開始相が面倒だし、Aを開始相にしたら完了相が面倒だし……」と思ったときは、あなたはAの数直線を左右にずらした新しい動詞を作ることを検討すべきである。

・謝辞

本論を組み立てるにあたり、多くの人に協力を得た。
ここで謝辞を述べる。

魚楠氏(アスペクトのフラクタル理論、状態動詞から見たアスペクト論、非単位動詞の副詞の選択、非単位動詞の相を統語操作で表現する案)
axtan氏(単位動詞の7相体系の発案、定動詞の相に使う副詞・接尾辞の選択、行為動詞の無相のマーカーの発案)
nias氏(行為動詞と状態動詞では前者のほうが主語が有意思になるという推論に基づく動詞faiの相設定、終と終’の意味の差しか問題にならないのではないかという意見)
リディア嬢(不定動詞のモデル作成、7相モデルの日本語相名の命名)
メル嬢(不定動詞のモデルが7相と同じ規模に膨らんだ際に、現行モデルが実用範囲であるとして制限した件)

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