理想的な国際語について

2015/4/10 seren arbazard

理想的な国際語については国際語論で述べた。
理想的な国際語は誰からも平等な言語である必要があるのでアプリオリでなければならないが、そのゼロから作られた言語がどの言語を母語とする人々の間でも誤解なく意思疎通できる必要がある。そのためにはすべての語の語法を定義する必要がある。

そこで、理想的な国際語を作るとき文化的または認知的な表現を漂白するかどうかということが問題になってくる。
たとえば幻hanは広いという意味だが、2次元の面積が大きいことのみを表し、心が広いのような比喩的な使い方はない。
面積が大きいことは空間に関する物理的な論理なので万人にとって理解されやすいため理想的な国際語に採用すべきだが、心が広いと人を心が「広い」と表現するのは日本人ならわかるが、他の母語話者にはそうでないことがある。
心が広いの広いは比喩的な表現で、つまり認知的な表現である。人間は同じ認知器官を持つが、どの概念にどの比喩を当てるかは言語ごとに異なるので理想的な国際語に認知的な表現はふさわしくないといえる。
文化的表現に関しては況やで、狼が孤高なのか残酷なのかは文化によってまちまちなので、国際補助語のエスペラントがlupaで残忍や獰猛を表すとか、「ヴォラピュクのようだ」でちんぷんかんぷんを表すということはあってはならない。
つまりエスペラントはこの時点で理想的な国際語ではない。

そこで理想的な国際語としては、文化漂白や認知漂白という手法を用いて、文化的、認知的な表現をしない言語の設計をすることになる。
認知的な表現を一切せず、物理法則や神経科学によってのみ表現する言語なら理想的な国際語としてふさわしいと思われる。
ところがそのような言語は学習効率、運用効率、表現力のうち運用効率と表現力が低く、かつ学習効率の高さも保証されないので、学習効率、運用効率、表現力全体の値が低く、優れた言語とは言いがたい。

もし認知表現がすべて使えなかったら、新しい概念は常に新しい語を用意しなくてはならず、必要な単語が無尽蔵に増えて学習が容易でない。
たとえばドロドロの愛憎劇のドロドロは比喩、すなわち認知的な表現であって、日本語はそういう劇を擬態語のドロドロで表現したが、一方英語はsordid(下劣な)という形容詞で表現している。逆に英語がdirtyを「汚い」とは別に卑猥なという意味で比喩的に使っているのに対し、日本語は「卑猥な」という形容動詞を当てている。
自然言語は新しい概念ができたとき新語を作るか既存の語を拡張するかで表現するのである程度認知的な表現が生まれる。だが認知的な表現はその喩えが掴めない初習者には理解されず誤解のタネとなる。

そこで理想的な国際語としては一切の誤解を生まないためにあらゆる文化、認知漂白を行ったとして、その結果残るのはコロケーションをほとんど生まないか造語力の弱い新語だらけになるか、あるいは既存の語をトキポナやベーシック英語のように組み合わせて迂言的に表現するかであり、前者は学習効率が悪く、後者は運用効率が悪い。
つまり、理想的な国際語は作れるには作れるが、学習効率か運用効率のどちらかが悪くなるという宿命がある。そしてその時点ですでに理想的でない。

アルカではこの問題が1990年代から議論されていた。アルカは理想的な国際語を目指していなかったが、ユーザーが28ヶ国以上から成っていたため、互いに意思疎通をするには否応なく理想的な国際語のような言語について考察せざるを得なかったためである。
つまり理想的な国際語を目指していないのに成員の問題で理想的な国際語のような言語を目指さねばならなかったというわけだ。

それでアルカはどうしたのかというと、28ヶ国どの言語文化認知様式にも属さない新たな世界の切り分け方を作ろうということに落ち着いた。
理想的な国際語が学習効率か運用効率が悪いというのは1990年代に身を以て経験していたので、自分たち専用のアプリオリな世界の切り分け方をしようという結論になったのである。

アルカのユーザーたちも初めから理想的な国際語が無理だとかオリジナルの切り分け方をしようとしていたわけではない。最初に起こった問題は文化摩擦だった。
28ヶ国の人間が集えばテーブルマナーや挨拶の仕方から合わずに困る。そこで1990年代前半の私たちは彼我の文化の差を尊重するという手法に出たが、尊重しすぎてなにひとつまとまって行動できないという結論に至った。
そこで1990年代半ばに今度は互いの文化差を無視して寛容になろうという動きができたが、そうなると皆自然と28人の最大公約数的な行動、つまり安牌な行動しかできなくなって、これも廃案となった。この案が上で述べた理想的な国際語に近いと思う。文化も認知も漂白してできた無色透明な理想的な国際語は学習も運用も効率が悪かったのである。
そして1990年代後半から21世紀初頭にかけて、「どうせなら0から新しく自分たち専用の文化を作って皆それに合わせればよくないか」という考えに至り、かくしてその架空の共有文化たるカルディアが生まれ、文化に引きずられて言語も同じような進化を遂げた。

理想的な国際語を作っても学習・運用効率が低い、かといって特定の自然言語に寄せると28人のうち誰かが不満を言う。
そこででた結論が、0から新しく世界も文化も風土も宗教も言語も作ろうというプロジェクトで、アルカはこの精神を受け継いでいる。
アルカは数十人のメンバーの個人語だが実はこれほど試行錯誤してきた国際語はないというほど国際語然としている。
これを世界が使えば誰にとっても平等でそこそこわかりやすく使いやすい言語を人類は手に入れることになる。
実際は人々のほとんどは英語帝国主義だろうがなんだろうが長いものに巻かれとくか的な発想だし、言語の平等さや純粋性にはこだわらないので、アルカが国際語として使われることはないのだが。

我々は長年の試行錯誤の結果、理想的な国際語は学習運用効率が悪いので使うに堪えないということ、現実には理想的な国際語としてはアプリオリなものをそれなりの学習効率、運用効率、表現力のバランスで作ったものが理想的な国際語に当たるということを知った。

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