『アルカの書』〈序文〉

『アルカの書』

2016年5月21日(土)
seren arbazard

序文

 これは作中で登場人物が人工言語を作る小説です。
 私は作中で登場人物が人工言語を学ぶ小説を書いたことがあります。それは『紫苑の書』と言い、10年前、2006年に書いてネットに公開したものです。異世界ファンタジー小説を読んで、「異世界なのに日本語が通じるのはおかしい」と考えた1994年(中2)の私は、翻訳魔法やアイテムで言語の問題をうやむやにしてしまうご都合主義に疑問を持って、「もし異世界に行って言語が通じなかったらどうなるんだろう」と考えました。「そうなったら主人公はまずその世界の言語を覚えるところから始めないといけないんだろうな」と思いつつ、「まぁ誰かしらそういう小説を書いているだろう」と無根拠に推量したまま大人になりました。
 しかしその後ネットの普及に伴ない調べたところ、2005年になってもまだ誰もそういう面倒臭く売れそうにない小説を書いたことがないということを知りました。そこで、「ではそういう小説――つまり作中で登場人物が異世界の言葉を覚えたり、異世界の文化や風土に適応していく小説を書いてみよう」と思い立ち、2006年に『紫苑の書』を書きました。
 ファンタジー小説の中で人工言語が出てくることはトールキンの『指輪物語』以前からありましたが、主人公が人工言語を学習することで物語が進む小説はこれが初めてでした。登場人物は全員人工言語で話して彼らのコトバは翻訳されません。なので読者は主人公と一緒に人工言語を学ばないと読了できません。『紫苑の書』を可能にした本格的な人工言語や人工世界を作るには何年何十年もの時間がかかり、小説の素材としては費用対効果が悪すぎるからそれまで誰もそういう小説を書いたことがなかったのでしょう。
 その後『紫苑の書』は2011年に書籍になり、2013年にマンガになりました。どちらも売り切れましたが、「人工言語学研究会」というHPにて無料でpdf版をお読み頂けます。

 さて現在2016年5月21日(土)です。『紫苑の書』から10年が経ちました。「10年の節目に『紫苑の書2』的なものを書きたいな」と2015年頃から考えてあれこれとアイディアを出し、作っては没にして書いては消してを繰り返し、「今度は作中で登場人物が人工言語を学ぶのではなく作るってのはどうだ?」というところに行きつきました。
 『紫苑の書』で主人公が覚えたのは私が友人たちと1991年から作り続けていた人工言語アルカだったのですが、この人工言語アルカを学ぶ視点から作る視点にシフトしていきつつ、人工言語アルカそのものからは離れないというところで『紫苑の書2』としてふさわしいだろうと考え、この『アルカの書』という小説を書くに至りました。

 『アルカの書』は最初、ノンフィクションで書く予定でした。アルカは1991年から2016年現在まで四半世紀に渡って作られている人工言語ですが、それを作ってきたのは30ヶ国以上の少年少女と大人たちです。
 母語や文化の異なる人々を集めるとふつうはピジンという言語ができます。商取引などで言語の異なる複数の人々が接触した場合、文法や音が簡略化され、語彙も限られたものしか使わないような言葉で人々は緊急避難的に意思疎通しようとしますが、そういう言語をピジンといいます。
 アルカも1991年の時点では日本語や英語などのピジンでしたが、意図的に徐々に人工言語化していきました。90年代は内々でやっていたのですが、2005年に私がネットで公開したことで知名度が上がっていき、2013年に最盛期を迎えました。
 しかしアルカの完全な崩壊はもはや人工言語屋たちが許しませんでした。人工言語屋たちは自分たちでアルカを復活させ、2016年現在までアルカは生存し、おかげさまでどうにか四半世紀という節目を迎えることができました。

 『アルカの書』の構想を立てた際に、アルカの四半世紀をそのまま書けばノンフィクションとしてドラマティックだと思いました。しかし最大の壁が立ちはだかりました。私が2013年に持っていたアルカの史料はHDDと自宅の押入れのアナログ物品のみなのですが、2013年に処分されました。アルカの歴史を書こうにも、2005年から2013年にネットにアップした少しの資料しかありません。ノンフィクションの方向でプロットを立てていた私は、これは難しいと断念しました。
 そこで私は「覚えていない部分や史料のないところはフィクションとして書いてしまい、半フィクションにしてしまおう」と考えたのですが、アルカの面白さはリアリティにあるので、フィクションという体のよい「嘘」を入れることに抵抗があり、これも頓挫しました。フィクションでやるならノンフィクションの分からない部分を穴埋めするような中途半端なやり方ではなく、いっそアルカをゼロから作り直したほうがよいです。
 「ではアルカから離して全く関係ない人工言語を作中で作ったらどうか」とも考えました。例えば女子高生4人が「架空言語創作部」とかいって部活で人工言語を作るとか、そういうラノベ的な感じのものです。しかし人工言語の面白味というのはその言語の体系を作っていくことももちろんですが、できあがっていく過程、大げさにいえば歴史にもあります。もしかしたらアルカのことを何も知らない人には女子高生4人が日常の中で人工言語を作るほうが面白いかもしれませんし、仮にこれを商用ベースで出版社が出すと言ったら、私は売り上げを考えてアルカよりも女子高生の人工言語を取ります。その方がまだ市井の人々や人工言語ビギナーには無難でマシだからです。でも人工言語を長くやってきた者が身にまとうあの感覚、「言語とはすなわち積み重ねであり、その製作過程にこそ深い味わいや人の思いが込められている」という感覚を知っている人間としては、どうしても歴史を持った現実の人工言語の方に興味をそそられるのです。

 さて、ノンフィクションでもなくフィクションとノンフィクションの混ぜこぜでもなくアルカから離れもしないとすると、どんな人工言語小説になるのでしょうか。それがこの物語です。アルカを知らない人にとっては人が人工言語を作る小説という点が純粋に魅力的でしょう。「作中で登場人物が人工言語を作る」というテーマ自体が『紫苑の書』のテーマと同じくシンプルで分かりやすくキャッチーだからです。もっとも、いずれも人口に膾炙するほどではないと思いますが。
 一方、アルカを知っている人にとっては読めばなおさらなるほどとなることでしょう。「あー、現実のアルカ史がここでこう活きるのね」といった感じで。もしこれがノンフィクションなら2013年に何が起こって2016年に何が起こるかといったストーリーラインやオチが最初からバレてしまうのですが、『アルカの書』はアルカを知れば知るほど面白く、必ずしも現実のアルカの歴史通りに話が進まないミステリーを楽しめます。
 あぁ、言いそびれたが、僕はセレン――セレン=アルバザードといいます。

 ときに、私は1999年か2000年に幼馴染に4冊の本を書くことを約束しました。そのうち3冊は書きましたが、残るひとつが『俺論』という自伝でした。自分がいつまでアルカをやるか、あるいはいつまで生きるか、そのタイミングが分からないので、書こう書こうと思っては断念してきました。それに、年をとるにつれ、「誰も俺なんかの自伝に興味を持たないだろ」という現実の方が見えてきて書かなかったのもあります。ところが私はアルカを作ったという点においては特殊な人間で、人工言語屋にとっては私とアルカの歴史を知るのはひょっとしたら何かの為になるかもしれないと思い、今回この『アルカの書』では主人公が自分ということもあって、自伝的要素を盛り込みまして、これを以って『俺論』の代わりとさせて頂きたいと思います。

2016/6/10 seren arbazard 一部修正

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