『アルカの書』〈はじまりとおわりに〉〈1991年7月19日〉

はじまりとおわりに

 リディアが最初にセレンにかけたコトバは”seren sou, soonoyun”。
 リディアが最後にセレンにかけたコトバは――。

1991年7月19日

 1991年7月19日金曜日。埼玉県所沢市上新井小学校は夏休みを迎えるにあたって半日で下校となった。
 うだるような暑さの下、児童らは大荷物を抱えて帰路へついている。長期休暇の間、学校のロッカーや机の中にあるものは全て自宅へ持って帰らなければならない。要領のいい子供は終業式を迎える前から予め少しずつ荷物を家へ運ぶのだが、面倒臭がり屋は往々にしてそういったコツコツとした努力を行わず、終業式かその前日あたりに大量の荷物を持ち帰る羽目になる。俺もまたそうしたギリギリまで現実と向き合わないタイプの人間だ1この頃は学校は休日でない時代なので、終業式はこの翌日かもしれない。
 夏の半ドンはありがた迷惑だ。一番暑い時間帯に陽光に晒されながらコンクリートで固められた地面を歩かなくてはならないからだ。
 俺は友達と2人で汗だくになって、落ちそうになる荷物のバランスを何度も取りながら歩いている。ただ、肉体的苦痛に対し、心の中は期待で一杯だ。まず夏休み自体がカレンダーをにらみつけながら指折り数えていた楽しみだし、数日後に控えた5年生の林間学校というお泊まりイベントも待ち遠しかった。そして何より今日は心待ちにしていたゲームの発売日だ。
 ”Final Fantasy 4″
 スクウェア社の看板といえるこのゲームはナンバリング4作目にして初のスーパーファミコンでのリリースとなった。
 スーパーファミコン。クラスの皆はこのゲームハード機をスーファミと呼んでいる。スーファミは1990年、つまり去年発売されたばかりのハードだが、生産が追いつかないほどの人気で、やっとの思いで親がプレゼントしてくれたのは去年のクリスマスのことだ。当日風邪で熱が出てしまっていたのに、無理をして「スーパーマリオワールド」をやっていた。
 俺は小学校低学年の頃からゲーム少年で、ファミコンが得手ということを除いては至って凡庸な子供だ。
 「なぁ」横を歩く友だちに声をかける。「今日ってFF4の発売日じゃん?」
 FF4と書いてファイファンフォーと読む。ファイナルファンタジーのことだ。このゲームの略し方は2種類あって、たいていの人間はファイファンかエフエフと呼ぶ。どうして俺がエフエフでなくファイファンと呼ぶようになったのかは覚えていない。
 「そうだね」と友だちは俺のコトバに返事した。
 「今度のFFって2人プレーができるんだって。だから昼飯食ったら俺ンチで遊ぼうぜ」
 FF4のことはかなり楽しみにしているし、それは俺だけじゃない。学校から帰った後でゲーム屋に行くのでは遅い。かといってウチの親はゲームを朝一で買う為に学校を休む許可は出さない。しかたがないので祖母に午前中買いに行ってくれないかと頼んだ。祖母は母方の祖母だ。
 友だちと別れた俺は気持ち足を速めた。炎天下での行軍を切り上げて早く家で扇風機に当たりたいというのもあるが、何よりFF4をやりたい。
 ウチの最寄り駅は西武池袋線の小手指だ。西武線の終点の一つでもある。なので近くに操車場があり、待機中の電車を眺めることができる。
 家の近くに長野公園という少し大きめの公園がある。この公園を斜めに歩くと道路を使うより少しだけ近道できる。俺はいつもこの公園を利用してショートカットするが、なにぶん今日は荷物が一杯で、公園の端の柵をくぐったり飛び越えたりといったことは不可能に思えた。だから長野公園を左にして歩き、交差点を越えた。その交差点から20mほどのところ、右側にホワイトハイムという文字どおり白いマンションがある。そこがウチの仮住まいだ。なぜ仮住まいかというと、話は簡単だ。ウチは元々駅の反対側、西友がある側の上新井という所に青い屋根瓦の一軒家を持っていたのだが、5学年下の弟が大きくなるにつれ、もう少し広い家が必要だということになり、その家を売って隣駅の狭山ヶ丘に新しい家を建てる予定で、新しい家が建つまでの間、一時的にこのマンションに住んでいるからだ。
 ウチの大人たちにとって誤算だったのは、新しい家の竣工が予想以上に遅れていることだ。祖母はこの狭苦しい3DKのマンションを心よく思っておらず、最近はひたすら不動産屋にクレームをつけて職人たちの尻を叩かせている。大工の機嫌を損ねて突貫工事のあげく欠陥住宅を作られたら元も子もないというハト派の母の主張も、祖母の耳には届いていないようだ。
 家に帰ると玄関に荷物を乱暴に放り捨てつつ祖母のところにいった。ところが祖母は申し訳なさそうに「買えなかった」と言った。朝一で行けば絶対買えると思っていた俺は風船が萎むように気が抜けてしまった。
 祖母の言うところをまとめるとこうだ。まず小手指にはメルヘンランドというおもちゃ屋とその前の西友しかゲーム屋がない2ドラゴンというゲーム屋もこの頃既に西友の横にあったかもしれない。私はここに入り浸っていた。大学生アルバイト2人がいつもいて、こっちは向こうを「オッサン」と呼び、向こうはこっちを「ひまわり」と呼んでいた。私が劇団ひまわりにいたからだ。私は1991年12月23日に狭山ヶ丘に引っ越してしまうので、引っ越し以降バーコードバトラーのスーファミソフトを買いにいったことしかない。『超魔界村』が出た少し後でこの店に行かなくなった。7月19日から12月23日の間、ドラゴンがあった確率は高い。ちなみにドラゴンは狭山ヶ丘にもあったが、桃太郎に改名された。。祖母は依頼通りメルヘンランドに行ってくれた。しかしFF4を欲しがっている少年は俺だけではなく、かつ子供のおもちゃを買う為にわざわざ開店前に並んでくれる優しい大人がいるのもウチの家庭だけではなかったようだ。今朝開店前から店先に並ぶ大人はたくさんいた。その需要の大きさに比べ、メルヘンランドが供給できたFF4はたったの5本だった。買えなかった祖母は西友にも行ってくれたが、ここの供給もやはり5本。上新井小学校の生徒は約千人。男女半々だとしても500人の男子がいる。更に中高生のゲーマーも加えれば、小手指という小さな町ですら数百本の需要があるハズだ。それに対しこの町が供給できたのはわずか10本だった。
祖母に「わざわざ行ってくれてありがとね」と言った俺はその足で友だちに電話し、「手に入らなかったので今日は遊ぶのやめよう。ごめん」と断った。
昼飯を終えた俺は幼稚園の年長だった弟の世話をする為、弟と一緒にゲームを始めるものの、心の奥には「やっぱFF4やりたかったなぁ。メルヘンに5本しかないなんて……。店員は次回また仕入れると言ってたそうだけど、手に入るのはずっと先だろうな」という思いがぐるぐるしている。
 夕飯を終え、8時少し前になった。あいにく夏休みの宿題を早めに終わらせておくというような真面目な子供ではない為、またゲームでもするかと、弟と共同の部屋に行こうとする。そこでふとファンタオレンジが飲みたくなった。うちの親はお菓子は人並みに買ってくるが(そもそも彼らも食べるので)、ジュースにはかなり厳しい。祖母に至ってはコーラを飲むと骨が溶けると本気で信じていて、母も父も基本ジュースを買ってくれない。買ってくれるとしたら主に外出先でだ。ところが小5になってから少し規制がゆるくなった。きっかけは少し前に親戚のおじとおばが遊びに来たことだ。小うるさい俺と弟を体よく追い払う為、母は小銭を渡してこれでジュースを買って飲んでなさいと言った。そのとき俺はファンタオレンジを買ったのだが、小さい頃からコーラ>ファンタグレープ>ファンタオレンジというカーストを自分の中で確立していた俺にとってその選択は全くの気まぐれと言ってよかった。ところが数年ぶりに飲んだファンタオレンジがことのほかうまかった。それで最近の俺はファンタオレンジにハマっていて、しばしば母にせがんでジュース代をもらうようになっている。小さい頃はあんなにジュースを買ってくれなかった親がどうして柔和な路線に切り替えたかは分からないが、おそらく親はジュースは発育に悪いと真剣に考えていたのだろう。しかし俺はもう小5になった。もうそんなに小さくないという自覚がある。だから親もたまにならという形で小遣いをくれるようになったのだろう。
 俺は小さい頃からやたら場所にこだわる。あんなことがあったとかこんなことがあったとか、記憶は基本場所記憶と紐付けられている。つまり、何らかの出来事が起こった場合、季節や服はめったに覚えていないのに、その出来事がどこで起こったのかという場所だけは事細かく覚える。例えばある会話をしたのを覚えている場合、その会話をどこでしたかということも覚えているということだ。そしてお気に入りの場所ができると何の用もないのにしばしば思い出を確認するかのようにそこを訪れる。俺にはそういう猫のような癖がある。ジュースを買うのもそうで、お気に入りの自販機ができるとたとえ その自販機のある場所が遠回りであろうと、わざわざそこまで行く。
 夜8時前、小遣いを握りしめ、マンションの階段を降りる。左に折れて最初の交差点で左折。次の交差点までまっすぐ歩くと信号がある。横断歩道を渡った先は24時間制ではないファミリーマート。その横断歩道は渡らず、この交差点をまた左折。そこから15mほど歩いた左手に自販機がある。コカコーラ社のものだ。ここでファンタオレンジを食後に買うのが最近の俺のトレンドだ。
 コインを入れてボタンを押すとゴトンと欲しいものが落ちてくる。なんて便利で単純な機械なのだろう。帰ろうとしてファミリーマートの交差点を右折してマンションへ向かった。

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1. この頃は学校は休日でない時代なので、終業式はこの翌日かもしれない。
2. ドラゴンというゲーム屋もこの頃既に西友の横にあったかもしれない。私はここに入り浸っていた。大学生アルバイト2人がいつもいて、こっちは向こうを「オッサン」と呼び、向こうはこっちを「ひまわり」と呼んでいた。私が劇団ひまわりにいたからだ。私は1991年12月23日に狭山ヶ丘に引っ越してしまうので、引っ越し以降バーコードバトラーのスーファミソフトを買いにいったことしかない。『超魔界村』が出た少し後でこの店に行かなくなった。7月19日から12月23日の間、ドラゴンがあった確率は高い。ちなみにドラゴンは狭山ヶ丘にもあったが、桃太郎に改名された。

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