『アルカの書』〈夜8時〉

夜8時

 ふと背後から声がした。後ろで誰かが会話でもしているかのように聞こえた。
 (seren sou, soonoyun)
 また背後から声がした。どうも俺に話しかけているようだ。大人の声ではない、子供の声だ。気になって振り向くと、夜闇の中、街頭に照らされた女の子が立っていた。一瞬ハッとした。その子の髪が亜麻色で、目は深い緑だったからだ。
 ――外人
 そう、明らかにその子は外人だ。小手指は外人や有名人が何気に多いので外人は見慣れているのだが、金髪碧眼か黒髪が多く、亜麻色の髪で緑の目は初めて見た。
 女の子は俺と同じくらいの歳だろうか。背が同じくらいだからだ。しかしそれにしては顔が幼く見える。俺は背が小さいほうだが、実際の彼女はサンダルの分を引くとその俺より小さいので、いくつか年下だろう。髪は肩までかあるいは肩下まで伸びている。ビー玉みたいな綺麗な2つの玉のついた髪ゴムを頭につけている。髪型を整える為というより、単にアクセサリーとしてつけているようだ。クラスの女子もよくやっている。外人も同じことを考えるようだ。
 俺は無言を返す。
 何も言えないのは、丁寧に制作された人形のように、およそ日本人では再現不可能ではないかと思われるほどその子が可愛いからだ。白い肌、緑の瞳、亜麻色の髪、高くも低くもなく、細くも広がってもいない鼻、猫を思わせる口、色素の薄い桃色の唇。少しだけピンクに染まった頬。柔和な目つきと二重のまぶた。しっかりとした眉。夏なのに長袖で、ピンクのスカートを履いている。
 女の子は何も言えず固まっている俺を見て、なぜかとても嬉しそうな顔をした。
 (seren sou, soonoyun)
 「えっ、外国語!?」と思った俺は慌てる。いや外人なのだから外国語を喋るのは当たり前なのだけれども。あいにく俺は外国語ができない。この世に日本以外の言語があると知ったのも4,5歳になってからだ。その頃は世界中で日本語が使われているのだというか、そもそもこの世には自分たちの話しているコトバしかないものだと思っていた。最初にこの世に外国語があると知ったのは父が原因だ。フランス人クォーターの父はフランス語を話すことができ、俺が小さいころ上新井の家の風呂でフランス語で話しかけてきていた。結局父の努力は虚しく俺はフランス語を少ししか話せるようにならなかったのだけれども。しかもカタカナ発音で。
 またファミコンはソフトの容量の問題でカナを全部搭載することができない場合があって、「ドラゴンスクロール」というゲームのOPや「スーパーマリオブラザーズ」のEDなどに英語を使うことがあった。
 ファミコンの画面の文字が分からないと母に言ったところ、これは英語だと言われて訳してくれた。このとき英語というコトバがあることを知った。この話は小1のときのものだ。しかし存在を知っていても俺は日本語以外喋れない。なんなら東京生まれでそのベッドタウンの所沢に住んでいる時点で日本語の方言すらしゃべれない。俺が喋れるのは日本語の標準語だけだ。

 彼女の言ったコトバは聞き取れなかった。なんというか、日本語にないような音というか、言い方というか発音というか、日本語の音にしか対応していない俺の耳はつまるところカナ文字の音しか聞き取れないのだ。
 この子は日本語ができないのだろうか。だからこそ外国語で話しかけてきたのだろう。しかしその予想を裏切るように彼女は囁いた。
 (……やっと見つけた……あなたを)
 それは普通の日本語、うちの家族もクラスメートも使っている標準語の日本語だった。しかし俺の中では「なんだ日本語できるじゃん」という安堵より、「やっと見つけたって何だよ。俺のこと探してたってことか?」という謎のほうが強い。女の子は自分の胸に手のひらを寄せる。
 (私、リディア)
 「リディア?」
 初めて声が出た。女の子はリディアというらしい。変わった名前だ。何人なのだろう。
 (来て)
 リディアは左手で左前にある長野公園を示した。俺は背後の公園に目をやる。こんな時間に公園に行ったことなどない。安全だろうか。公園に不良がいないかという心配もあるが、夜に一人で外を歩いている謎の小さな女の子に対しても警戒すべきだろう。しかし結局は状況に飲まれ、公園に行ってしまった。幸運なことにそこは無人だった。リディアは背の低い積まれた赤レンガと時計の間に立つと、時計を見て(8時だね)と言った。
 時計は公園の明かりで照らされていてよく見える。リディアはレンガに座る。俺はその前に立ってファンタオレンジの缶をあける。
 (1991年7月19日午後8時。7歳になっちゃった)
 今日で7歳ということは小1か。小5からみると幼い。でも小1にしてはやけに大人びてみえる。
 「あの……さっき俺のことセレン君とか呼んでたし、俺を探してたみたいなこと言ってたけど、悪いがそれ人違いだよ。だって俺の名前は――」
 スッと右手の人さし指を自分の唇に近付ける。「しーっ」と言いたいようだ。
 (知ってる。でもそれはあなたの本当の名前じゃない。確かにそれはあなたの戸籍名だけど、あなたの本名はセレン。セレン=アルバザードよ)
 12016月5月22日(日)記セレン……セレン……そんなコトバ聞いたことない。一体何語なんだろう。でもなぜかその名前、しっくりくるのだ。まるで魂が最初からそれを知っていたかのように。
 (今日私がすることは、この場所であの時計を見て8時を一緒に迎えること。最初の7月19日をね)
 時計をふり返る。最初の7月19日?どういう意味だ?午後8時?それに何の意味がある?ただこの子が生まれた時間ってだけのことだろ?
 「なぁリディア」首を回すと、そこには誰もいなかった。
 「あれ!?え!?」
 一瞬パニクった。俺が時計を見てる間にリディアは公園を去っていた。どういうことだ?俺に用があるからここへ呼んだんだろ?なぜいきなりいなくなる?
 「あ……」
 そうか。ここで俺と8時を迎えるのがあの子の目的だったと言ってたな。それが終わったから去った、と。しかしこちらとしてはせめて説明くらいしてほしいものだ。そもそもなんだよセレンって……。
 それにしてもリディアはあの数秒の内によくもまぁ俺の視界から外れたものだ。走りにくそうなサンダルだったのに。
 家に帰った俺はファンタを空にしつつゲームを始め、やがて夜になったので歯をみがいて寝ることにした。眠りに落ちる前にリディアのことが頭に浮かんだ。
 「それにしてもあの子……かわいかったな」

   [ + ]

1. 2016月5月22日(日)記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です