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人工言語学

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序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

キャラとストーリーと世界観

 小説や漫画やアニメなどといったコンテンツの三本柱となるのは「キャラとストーリーと世界観」である。世界観というのは物語の舞台や背景となる設定はもちろん、物語全体の雰囲気なども包括する。雰囲気というのは「ほのぼのした」とか「日常系」とか「鬱展開な」などといった言葉で表されるような類のものである。

 筆者は漫画を発行している様々な大手出版社の編集者と面接をしたことがある。彼らとの漫画についての対談を通じて、ある共通点に気付いた。なお、これはあくまで2013年現在の話である。
 筆者は読者というものはストーリーを第一に考えていると思っていたのだが、約半数の編集者が「読者はキャラを見たいんですよ。だからキャラが立っていれば、極端な話、ストーリーはどうにでもなるんですよ」というような「キャラ押し」をしていた。
 これは非常に意外なことだった。もちろんそうとは言わない編集者もいたが、キャラの重要性を説かない編集者はなんと一人もいなかった。数名に至ってはハッキリと「僕はね、読者はキャラが好きでキャラを見たくて漫画を読んでると思ってるんですよ」と断言していて、これには驚かされた。

 むろんこれは時代の潮流のひとつであろう。
 90年代は今よりもっとストーリー重視だったし、ファンタジー物も世界設定の細かいものが多かった。
 ファンタジー系を多く出しているとある出版社の編集者と話していたとき、彼は「90年代に比べて言い方は悪いですけど、読者の頭は確実に悪くなってますね。ウチは異世界物が多いんですが、最近は異世界には独自の文化があって云々といった世界設定を読者は全然気にしなくて、異世界に行ったら突然ハーレムというようなご都合主義で単純な展開がウケます。言うまでもなく異世界には独自の言語があるはずで――などという考えには至りませんし、そのような作品を受け入れようともしません」と述べていた。

 このように、時代によってキャラ・ストーリー・世界観のどれが受けるかは異なる。
 ただ、筆者の知る限り、世界観が最も一般人に重視された時代はなかったと思う。
 通常、作り手はキャラを立たせるかストーリーを練るかで、読者のほうもどちらかに偏る。そして今現在はキャラがストーリーより優位に立っているようだ。

 思うにキャラ>ストーリー>世界観というのは、ミクロ>マクロの図式であるといえよう。
 キャラは個人のことで、物語を構成する最小単位だ。逆に世界観はその物語を構成する背景で、あらゆるキャラはその世界の中に存在するわけだから、世界観は物語を構成する最大単位である。
 ミクロがマクロより優先されるこのような傾向は、90年代後半のセカイ系の隆盛とともに徐々に現在にかけて強まっていったものと思われる。
 セカイ系、とりわけ「きみとぼく系」においては主人公とヒロインの関係性が即座に世界の存亡に繋がるわけで、ミクロがマクロのあり方を決定するという、ミクロ中心主義である。
 小さい単位が重要視され、世界という大きい単位が軽視されるという図式がここしばらくは流行っているようである。
 この傾向はPCの普及や社会の変化に伴い、日本――とりわけ都市部――が本来の日本の村社会から個人主義に移行していっていることと比例しているように感じられる。

 さて人工世界の話に移るが、人工世界を作る上で、あなたの価値観は現行の世間に逆らって、世界観>ストーリー>キャラでなくてはならない。
 というのも、人工世界を作る順序はマクロ→ミクロであって、決してその逆はないからである。
 もちろん「世界の一部しか作らない」とか、「リアルに作り込まれた架空の世界は必要ない」という考えなら、ミクロから作り上げていってもいい。だが、「リアルに作り込まれた架空の世界」を作るのであれば、マクロ→ミクロの順に作る必要がある。
 これは絵を描いている人ならすぐに分かる。人工世界の制作は絵の制作によく似ている。絵を描くとき、小中学生など子供は目から描き始めて目だけ完成させて次に鼻や口という風に進むことがある。が、こうすると全体のバランスが取れず、デッサンが狂う。
 実際に美大などで絵を専門にしている人はふつう全体像を最初に描いて、それを何度も上塗りするかのように徐々に徐々に完成に近付けていく。通常、パーツごとに完成させていきはしない。全体像を作ってそれを徐々に細かくしていく。つまりマクロからミクロという順序を守っている。
 人工世界もこれと同じで、最初にマクロとなる世界全体を作るところから始めなければならず、ミクロの都市や学園から作っていくと、最終的に世界を作り上げたときに全体のデッサンが狂うことになる。そうなると結局作り直しになるので、手間がかかって合理的でない。だから人工世界に詳しい人間は必ずマクロから作る。

 人工世界の制作はマクロからミクロの順序なので、コンテンツを作るときも自然と世界観>ストーリー>キャラの順で設定を決めていくことになる。リアルな異世界物の場合、世界観が決まらなければストーリーも決まらないし、ストーリーが決まらなければそこに配置するキャラも決められないからだ。
 ただそうなるとどうしても時間と労力の都合で後半に余力を残せないため、世界観がしっかりしていてストーリーは二の次、キャラは三の次という事態が起こりやすい。それでこういうコンテンツは「設定厨」などと揶揄されることがある。要するに「設定は細かいが肝心の話が面白くない」という批判である。エンターテイメントとして見ればこの批判はもっともだろう。

 ところで、そもそも人工世界を作ろうと思う人間は筆者がわざわざ言わずとも世界観>ストーリー>キャラという価値観を持っている人間が多いのではないだろうか。そうでなくばわざわざ人工世界を作ろうなどとは思うまい。
 我々のような人種は世界を想像し創造することが楽しいのであって、ストーリーやキャラにはそこまでの興味がない。そうでない制作者もいるだろうが、筆者は今述べた典型である。
 考えてみれば筆者の好きな作品というのはたいていキャラやストーリーではなく作品全体の雰囲気が気に入ったというものである。例えば『Serial Experiments Lain』というアニメがあるが、これは筆者が高校時代に最も好きだったアニメである。だが当時見ながら「内容は全く面白くない。むしろつまらない。ただこの作品全体に流れる仄暗い雰囲気や空気感が好きだ」と思っていた。またCLAMPの『X』はキャラの立った作品だが、これも筆者はキャラに大した興味はなく、むしろ作品の設定や雰囲気が好きだった。

 筆者は子供のころからアイドルに興味がなく、芸能人にも興味がなかった。サブカルのコンテンツのキャラについても気に入ったものが時折ある程度で、「キャラを見る」という視点で作品を見たことはなかった。要するに「個人」や「キャラ」というものに対してそもそも興味があまりないのだ。
 正直言うと筆者は「この作品はキャラが立ってない」というような書き込みを見ると不快に感じるとともに、相手が幼稚だと感じる。なぜか分からないがキャラにこだわるのは幼稚というイメージがある。ミクロで物事を見る視野の狭さを幼稚と感じているのかもしれない。というのも、巨視的にマクロで俯瞰して物事全体を見るというのは子供にはできないからだ。

 基本的に筆者は「キャラが立ってないんだよね」という発言を嫌うので、編集者と話していても「俗物が」という思いを胸に抱くことが多かった。
 これはどういうことか。
 異世界カルディアはリアルな架空世界を目指している。ということはそこに登場する人物もまるで実在するかのようである必要がある。
 となるとキャラが立っているとかえって不都合なのだ。――だってリアルな世界には漫画に出てくるような性格の人たちはいないでしょう?

 筆者は「キャラが立っている」と言われるような作品のキャラに対して、白々しいとか違和感があると感じてしまう。
 なぜならあんな変人は現実にはいないし、そういう非現実的なキャラを出すことで、せっかく作り上げた架空の世界のリアリティが飛んでしまうからだ。
 人工世界制作者も色々なのでキャラ萌えな人もいるだろうが、筆者のようにとことんリアリティを追及するタイプの制作者はこの考えに共感できるだろう。
 あまりに現実離れしたストーリーやキャラはリアリティを壊すので、この種の世界を持つ作者にとっては受け入れがたい。
 実際筆者の著作である『紫苑の書』などに登場するキャラも「キャラ萌え」を優先しておらず、あの世界に溶け込めるような設定にしてある。そのため、案の定「キャラが弱い」と言われることがある。
 これが癖になっているので、人工世界とは関係ない『言語学少女とバベルの塔』などでも、どうしてもキャラを立たせきることができなかった。
 あれは人工世界と関係ないので一応『紫苑の書』などよりはキャラを立たせて現実にいなそうなキャラを出したが、それでもキャラ立ちが弱い癖が抜け切れていない。
 どうもキャラを立たせると「こんな奴おらんやろ」と冷めた目で見る自分がいて、その自分の白目に耐えられないからキャラを立たせきれないのではないか。

 なお、クリエイターとしては筆者に共感できないほうが幸せだと思う。というのも、有り体に言って、そっちのほうが売れるし人気が出るからだ。一般受けがいい。
 まぁ、恐らくこの一般受けがいいというのも筆者がキャラ萌えを嫌う理由でもあるのだろう。筆者は俗物で大衆的なものが芸術としては嫌いで、「一般受けが良い=俗悪」という図式が脳内にあるからだ。
 「芸術としては」と但し書きを付けたのは、「娯楽」としてはキャラ萌え大いに結構と考えているからだ。実際、筆者も娯楽としては大衆的な人気作品を好んで読んでいるし、ストーリーの面白いもののほうが良い。ただ、芸術としては、あれは無い。
 筆者はサブカルも文化と考えているので、娯楽としての評価と芸術としての評価を分けている。そして芸術としての評価を通常優先させているため、『Serial Experiments Lain』のような雰囲気優先の作品を高評価するというわけである。

 リアリティを追求したアプリオリな人工世界は最も手間暇労力がかかる分野で、もはや娯楽というよりは芸術作品に近い。逆に言えばそれほどまでに娯楽要素がない。
 むろん売れないし人気も出ないし世にも出ないし認知もされないし人に認められない。
 個人的に筆者は娯楽より芸術が上だと評価しているため、「一般受けを狙って一般人におもねるよりは、たとえ誰にも評価されなくとも自分自身が自分自身に嘘をつかず、自分自身を納得させられる芸術作品を作りたい」と考えている。
 筆者はそういう人から理解されづらいタイプの人間だが、もしあなたが労作の中で至高の存在である「リアリティを追求したアプリオリな人工世界」を作りたいのだとしたら、自然と筆者のような考えになることだろう。

 ちなみに贅沢を言えばそれはもちろん世界観もストーリーもキャラも良い作品が良いのである。ただ実際にかけられる労力や時間のことを考えると、個人はおろか企業ですら三本柱をすべて立たせるのは難しいのが現実である。

 誤解のないように述べておくが、筆者はキャラ萌えを否定していない。キャラへの愛、特に自分の作品のキャラへの愛は素敵な気持ちだと思う。
 ただ人工世界、とりわけカルディアのようにリアリティを追及した世界では、現実離れした個性のキャラクターは浮いてしまうという話をしていて、人工世界制作の観点で見ると世界観>ストーリー>キャラの順に重要になってくるということを言っているにすぎない。

 また、本稿をネット公開したところ、アルカユーザーから興味深い考察を聞くことができた。
 個性の立ったキャラをリアルな人工世界に違和感なくなじませる方法として、そのキャラを客観視でなく主人公という認知主体から見て、主人公がキャラの性格を脚色して解釈するという手法で実際には凡人であるキャラの個性を立たせるという方法である。
 これは無理のない優れた方法であると感じた。ただしこの手法だと必然的に一人称視点になってしまい、三人称視点になれないという制約は残る。

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