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人工言語学

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序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

人工言語にとっての成功の基準とは

 人工言語にとっての成功の基準とは何か。
 大まかに分けて2つある。主観的なものと客観的なものである。

 1つは目的の達成。これは主観的なものである。
 人工言語を作る目的は人によって異なる。コンテンツ内で使えれば十分という人もいれば、国際補助語になってほしいと思う人もいる。
 作者の設定した目標を達成すれば、それはその作者の主観的な価値観における成功といえよう。

 もう1つは「人工言語が作者の設計を崩さず純粋性を保ちつつユーザーを獲得すること」であり、これはユーザー数などによって数値化できる客観的な指標である。

 フランス語はラテン語が経年変化して別言語になったものである。伝承されるごとに変化していって、しまいには別言語になった。
 人工言語も広まっていく過程で作者の設計がきちんと守られず、ユーザーによって勝手に改変されることがある。すると元の言語とは異なるわけだから、元の言語が広まったとは純粋には言いがたくなる。
 ゆえに、「人工言語が作者の設計を崩さず純粋性を保つ」のは人工言語屋にとって必須の条件である。もしユーザーが変えて広めてしまったら、それは元の言語が広まったとは言いがたい。

 また、人工言語は上記の純粋性を保った上で、ユーザーを獲得する必要がある。
 全く誰にも使われないと、せっかく作ったのに意味がないということになるからだ。

 まとめると、作者が自分の設計を崩されず、それでいて他者に自分の設計通りの言語を使ってもらったら、それが人工言語の成功基準のひとつと言える。
 設計が崩れて別言語になってしまったらいくらユーザーがいてもカウントできないし、設計が守られてもユーザーがゼロではやはりカウントできない。


 『ファイナルファンタジーX』のアルベド語は換字式の非常にシンプルな人工言語であるが、ゲーム内の雰囲気を出すのが目標だろうから、主観的に成功しているといえよう。
 エスペラントは人工言語としては最も知名度が高いが、なにぶん国際補助語になるという目標が高すぎることもあって、目標を満たしているかと言われるとそれは難しい。
 主観的な成功は目標が高いか低いかで達成難易度が変化する。目標が高ければ良いとか低いと悪いとか、そういうことではなく、自分が人工言語で何をしたいかという思いに見合った目標を設定するのが良いと思われる。

 トールキンの『指輪物語』は有名で、映画にもなった。トールキンは小説家としては成功したと言って問題ないと思う。
 ただ小説家としての成功と人工言語屋としての成功は別物なわけだから、人工言語屋として成功したかどうかは分からない。
 『指輪物語』の知名度に比べてエルフ語の学習者は非常に希少で、実際エルフ語の学習者は少ない。
 小説が売れたほどには人工言語が普及していないので、トールキンに関しては人工言語屋としてはそんなに成功したほうではなかろう。
 恐らく世間の印象も彼は小説家であって人工言語屋ではないと思うから、その一般感覚と上記の分析に大きな乖離はないと思う。

 イェフダーはトールキンやザメンホフほど有名でないが、現代ヘブライ語が多くの人に使われているのを見るに、人工言語界では実は隠れ成功者といえるのかもしれない。

 エスペラントは知名度が高くユーザーも多いから客観的な成功をおさめているように見えるが、ザメンホフが意図したとおりの純粋性を保った使われ方をしているかは分からない。
 ザメンホフの時代は現代言語学がまだ十分になかったので、エスペラント固有の語法を確立することの重要性などは認識されていなかったように思う。
 ザメンホフはエスペラント固有の語法を設定しなかったため、ユーザーが主に自分の母語の語感をエスペラントに適応してしまうリスクが非常に高い。
 そうなるとザメンホフの意図したエスペラントではなくなってしまうので、純粋性の維持に問題が生じる。
 ユーザー数は人工言語としては申し分ないが、たくさんいるユーザーのうち一体どれだけがザメンホフの意図したとおりのいわゆる「正規の」エスペラントを使っているだろうか。
 そう考えると純粋性の面でエスペラントも客観的な成功をおさめていると存分には言いがたい。

 純粋性を保ったまま言語を広めるというのはとても難しい。
 基本的に、「にわかユーザー」が増えれば言語は勝手に改変され、作者の意図しない方向へ転じ、結果的に元の言語とは異なる言語になってしまう。
 つまり広まったのは元の言語とは別の言語であって元の言語ではないから、いくらその状態で広まってもその言語そのものが広まったとはいえない。

 この問題を考えると、客観的な成功、つまり純粋性を維持しつつユーザーを獲得するのがいかに難しいかが分かる。
 現実的なことを考えると、恐らくユーザーの数を絞る必要性が出てくる。
 作者やその言語を熟知した少数のコアユーザーが他のユーザーを校正し支えるというシステムを考えると、あまりに多くのユーザーがいると面倒を見きれなくなってしまうことになる。
 そこで純粋性を保つためには、ユーザーの数はそこそこで保っておくのが良いということになる。ユーザーはむやみやたらと増えれば良いというものではないということだ。

 純粋性を軽視する人がいるかもしれないが、純粋性がないということは元の言語から変化してしまった別の言語なわけであって、その状態でいくらAという言語を広めても、実際に広まっているのはA'語であるから、A語が広まったことにはならないので、純粋性を軽視するのはいかがなものかと思う。

 なお、アルカに関して言えば、セレンは物書きとしてはトールキンの足元にも及ばないが、人工言語屋としては恵まれているほうだと思う。
 深く理解してくれるユーザーや、作者が校正の余地を見いだせないくらい正確な文章を書くユーザー、フォントやCGや動画や漫画やイラストやゲームや音楽といった多彩な創作物をアルカで創ってくれるユーザー。
 こういった人たちにアルカは恵まれてきた。人工言語屋としては、セレンは非常に幸運だったと思う。理解を示してくれる人たちのおかげで、アルカは人工言語としては充分認めてもらうことができたように思う。

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