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アルカの認知言語学的考察
●客観的把握と主観的把握 認知言語学において、認知主体は事態を把握するものと定義できる。認知の様式は2つに大別することができる。 1つは事態の外側から事態を把握する様式で、池上(2004, 2005)のいうところの客観的把握に相当するものである。 1つは事態の内側から事態を把握する様式で、同じくこちらは主観的把握に相当するものである。 事実上同一の概念を言語学者はそれぞれの術語で表す。例えば客観的把握のことをLangacker(1985)は最適視点配列(optimal viewing arrangement)とし、中村(2004)はDモードとする。同じく主観的把握のことをLangackerは自己中心的視点配列(egocentric viewing arrangement)とし、中村はIモードとする。本稿では最も字面から意味が取りやすいという理由で池上の術語に倣うこととする。 言語学的に矛盾しない人工言語の作り方における「する」型言語(スル言語)は客観的把握に相当し、「なる」型言語(ナル言語)は主観的把握に相当する。左記では取り扱う特徴の数がスル・ナル、モノ・コト、have・beなど少なく、主にスルとナルの対比で説明した。しかし本稿では扱う特徴の数が多いため、スル言語・ナル言語ではかえって分かりにくくなってしまう。ゆえに、ここからは術語を客観的把握と主観的把握に統一する。 もちろん各術語はそれぞれ意味合いが異なる。例えば中村(2004 p40)ではIモードを「西田の認識論」、Dモードを「デカルトの認識論」というように、哲学的に分析している。そういう意味でそれぞれ術語のニュアンスは異なるが、本稿では便宜上池上の術語で統一する。 ●アルカにおける事態の把握の仕方 先の記事でアルカは客観的把握と主観的把握の両方の特徴を持つことを明らかにした。一般にある言語の認知主体が客観的把握をするならば、主観的把握を交えることは少ない。森山(2009)は次のように述べている。 外界の事態を言語化するには「客観的把握」か「主観的把握」かという2通りの把握のしかたがあり、言語によってどちらを優先するかはそれぞれの言語が持つ類型論的特徴全体を左右する。 客観的把握と主観的把握は法則ではなく傾向なので、客観的把握をする言語であっても主観的把握をする言語の特徴を持つことはありえる。アルカもまたその一例である。 では具体的にアルカはどの程度客観的把握と主観的把握が混ざり合っているのだろうか。それにはまず最初に客観的把握をする言語が持つ諸特徴と主観的把握をする言語が持つ諸特徴のリストが必要である。 中村(2004 p41)を元にアルカの諸特徴を分析したものが下記の表である。中村(2004)、河原(2009)に比べ項目数が増減しており、最初の行もIモード・Dモードでなく本稿で統一した主観的把握・客観的把握にするなど、適宜編集を加えてある。 アルカの列に「客観」とあれば、その行の項目については客観的把握をするということを意味する。逆に「主観」なら主観的把握をするということである。客観>主観の場合、主観も許容されるが客観のほうが自然であることを示し、主観>客観はその逆である。列によっては特殊と示して検証欄で特記したものもある。
●アルカの認知様式 上のテーブルの結果を分析する。 総項目数:25 客観:12 客観>主観:8 主観>客観:2 特殊:2 主観:1 主観が客観に勝るものは3項で、出現率は12.0%である。このことから、アルカは圧倒的に客観的把握の性質が強いことが明らかとなった。すなわち分類上は英語などの仲間である。 ただ、もう少し深く掘り下げて考えてみたい。客観>主観のように主観が項目に食い込んでくるものも足せばその総数は11/25で、出現率は44.0%にも昇る。特殊の2を除いてカウントすると11/23であるから、約47.8%も主観性が食い込んでくることになる。 確かに客観的把握と主観的把握は傾向でしかない。だが客観的把握をする言語が主観的把握を交える割合は一般に低く、半々の割合で把握を行う言語というのは通常考えづらい。上で見た特徴群は傾向としては比較的強めで、例えば客観的把握に分類される英語や中国語は客観的把握の特徴をほぼ有する。 それに比べるとアルカの把握の仕方はだいぶ客観的把握と主観的把握が入り交じっているようにも見える。主観性が多少なりとも混じってくる項目を含めれば、およそ半分もの割合で主客が入り交じっているのである。 これはすなわちアルカには日本語とも英語とも中国語とも異なった独自の把握の仕方があるということを意味する。換言すれば、アルカ独自のアプリオリな認知様式があることを意味する。 本稿のテーマはアルカの認知様式を明らかにすることである。アルカ独自の認知様式を理解することで、上のテーブルでは一貫性がなく感じられたアルカの把握の仕方に法則性が見えてくる。そして、それとともに「アルカらしさ」とは何かを明らかにすることができる。これは幻文読解はもちろんのこと、幻文ライティングにも極めて有用である。 ●二重把握 ・第三の把握 池上のいう客観的把握と主観的把握に第三の把握を足すと、アルカの本質が見えてくる。 客観的把握は事態の外から事態を把握する様式である。 主観的把握は事態の中から事態を把握する様式である。 そしてアルカは認知主体を主観的認知主体と客観的認知主体の2つに分離し、事態の内外から事態を把握する様式を持つ。この様式を二重把握という。 観念的な話が続いているので、ひとつ例を挙げよう。サッカーの試合をしていて、今ちょうどゴールが決まった瞬間だとする。もし貴方が観客席からシュートの様子を見ていれば、それは客観的把握である。他方貴方がキーパーだとすると、それは主観的把握である。二重把握というのは両方の視点でゴールの様子を見ることに等しい。テレビの放送ではゴールのシーンは様々な角度で繰り返し放送される。客席からの映像もあれば、キーパー目線の映像もある。両方の映像を見ることが二重把握に等しい。 a(アルカ)の前身はar(アルバレン)である。その前身はls(レスティル語)である。その前身はly(リュディア語)である。 アルバザードにはaのほかにlt(ルティア語)とn(凪霧)がある。凪霧はalt(アルティア語)と同義である。 このうちly, ls, ltは客観的把握をする。どれもlで始まっているのでL型と呼ぶこともできる。 また、nは主観的把握をする。N型と呼ぶこともできる。 a, arは二重把握をする。どちらもaで始まっているのでA型と呼ぶこともできる。 sm(セルメル時代)にnが入ってきて、アルバザードは南部を征服され、幻凪国(カレンシア)ができた。これがきっかけとなり、arに主観的把握が入り込む。 それまでのarはlyを引き継いで客観的把握であったが、nとの融和により主観的把握もするようになった。その結果生まれたのが先の二重把握である。 ・論理と感情、客観と主観を分けて考える はじめてのアルカでアリアはこう述べている。 私たちアルバザード人にとって言葉は―― 1:論理を組み立て、 2:感情を分析する ――ための道具なのよ。内観したり主張したりするのに特化してるの。 アルカは論理と感情という一見相反する要素をどちらも巧く表現できると彼女は述べている。実はこの言葉にアルカの二重把握という特徴が現れている。アルバザード人は客観的把握により論理を組み立て、同時に主観的把握により感情を分析する。 上のテーブルの諸特徴のうち、論理的に捉えたほうが良いと彼らが考えるものには客観的把握を用い、感覚的に捉えたほうが良いと考えるものには主観的把握を用いる。 例えばここにひとりの女性がいるとする。仮に名をリディアとしよう。彼女は娘の前では母親で、夫の前では妻で、上司の前では部下である。彼女は娘の前では自分をnoelと呼ぶかもしれない。一方で夫の前ではnonといい、上司の前ではmeidというかもしれない。客観的に見れば彼女はリディアという人間でしかありえないが、彼女の目線で見れば相手によって自分はnonにもなったりmeidにもなったりする。 このとき彼女は主観的認知主体と客観的認知主体の2つに自己を分けて、事態の内外から事態を見ている。自己の呼称を定めるのは主観的認知主体の役割で、自分から見た相手との関係において一人称代名詞を定めている。アルバザード人は元々乏しい一人称代名詞しか持たなかったが、二重把握を得てからは他者と自己の関係を主観的に見て自己の呼称を選択する視点を獲得した。その結果がaの豊富な位相である。 なお、対人的モダリティ等を文末純詞に付与するのも主観的認知主体の役割である。アルカの対人的モダリティは文末に現れ、文全体を外側から包み込む構造をしている。日本語の終助詞「ね」「さ」「よ」などと似ているが、「~てしまう」のように述語に連なることはない点で、出来事を外側から対人的モダリティで包むという特徴がある。 すなわちアルカの対人的モダリティは出来事と分離されている(ただし敬語や呼称などは除く)。なお、日本語のモダリティについては庵(2001)などが易しい。 ・出来事については客観的把握をする アルカでは「今度結婚することになりました」というようなナル言語的な表現はしない。男が女と結婚するという出来事を客観的に見るためである。イベントは一人称代名詞と違って単なる起こった出来事でしかなく、客観的な事柄である。そのため客観的把握を用いる。 従ってans sil mals im tuo(私たちは今度結婚になる)は非文であり、ans mals sil xok im tuo(私たちは今度互いを娶る)が正しい。このように、出来事に対しては原則として客観的に捉える。 ・「今行くよ」か"I'm coming"か 自室にいる自分が夕飯の時間に居間に呼ばれるシーンがあるとする。一般に、客観的把握をする言語ではこのとき英語の"I'm coming"のように「来る」を使う。ただし客観的把握をする言語であっても、「来る」の使い方が日本語と同じになるケースがあるので注意が必要である。 例えばスペイン語で呼ばれて「今行くよ」と応えるときは"Voy"という。これは"Yo voy"のことで、英語にすれば"I go"である。「来る」は使っていない。アルカに関しても同様で、客観的把握が根底にあるものの、往来に関してはスペイン語や日本語と同じ言い方をする。 ところでなぜ英語では"I'm coming"のように「来る」を使うのだろうか。客観的把握をする言語において認知主体は事態の外側にいるので、自室にいる自分はもはや認知主体ではない。幽体離脱をしているかのような状態で、自室にいる自分が居間という目的地へ「来る」のを見ている。だからこそ、goingでなくcomingになるのである。逆に日本語のような主観的把握をする言語では、認知主体は自室にいる自分なので、「いま来るよ」とはいわない。 アルカの場合、往来には主観的把握を使うことが多い。「来る」という言葉をより実感できるのが主観的把握だからである。例えばサッカーでゴールを決めた瞬間、観客の視点で見るのとキーパーの視点で見るのと、どちらがよりボールが「来ている」実感を得られるだろうか。言うまでもなく後者であり、ダイナミズムがある。アルバザード人は往来についてはこのダイナミズムを得るために主観的把握を用いる。従って、居間に呼ばれた場合はan luna vanではなくan ke vanとなる。 さて、ではダイナミズムを必要としないシーンではどうだろうか。つまりニュースのように客観的に往来を捉える場合である。面白いことに、この場合は客観的把握を用いる。従ってan lunat lestezが自然となる。直訳すると「私は居間へ来た」であり、日本語の「私は居間へ行った」とは逆になっている。このように、アルカにおいて往来は日常的には主観的把握を用いるものの、状況次第では客観的把握を用いることもある。場合に応じてどちらも使い分けることができるため、表現が細やかである。 ・鏡に映っているのは「私」?それとも「貴方」? 鏡の中の自分に向かって呼びかけるときや独り言を呟く場合、自分を「私」と呼ぶ言語と「貴方」と呼ぶ言語がある。客観的把握をする言語の場合、自己を二人称で呼びかける傾向がある。 例えば英語の場合、自分自身に語りかけるときは通常youを使う。むろん"What am I doing here?"のようなIを使った言い方もあるが、一般に客観的把握をする言語では自己を客観視して二人称で呼びかける傾向がある。 一方日本語では通常自分自身に語りかけるときは「私」や「俺」などの一人称を使う。これは主観的把握の現れである。 ではアルカの場合はどうか。『夢織』で少女アリスは次のような自問自答をしている。 "hai, non rens ax to a nain eyo? "ter, nainan! non inat adel yunen haadis vandor xe mana"? wein alis, ti lo ne xar tuube??" 「でも、警察になんて言えばいいのかな。『聞いて、おまわりさん。骸骨みたいな化け物が女の子を襲ってるのを見ちゃったの!』――って? ちょっとアリス、あなたそんな話、誰が信じると思う?」 彼女は自問自答の際、自分を「アリス」や「あなた」と客観視して捉えている。このことから、アルカは自己を客観視するタイプの言語であることが伺える。 ・主観的把握と客観的把握の使い分け 以上から、アルバザード人の感覚が見えてくる。彼らは感情を絡めたほうが良いと考えるものには主観的把握を用い、そうでない場合は本来のL型を継承して客観的把握を用いるということである。 このようにして見ると、一見ちぐはぐで一貫性のない上のテーブルに一本の線が通る。上のテーブルの「アルカ」の列は原則としてすべて二重把握と書き込むことができる。つまるところ客観>主観などはその中の内訳である。 なお、結局のところ主観優位か客観優位かと問われれば、アルカは客観優位である。というのも、本来L型であったところにN型の影響を強く受けたからである。元がL型なので、いくら影響を受けようと原則L型優位という状況は変わらない。 ●人間にとって自然な二重把握 実は二重把握というのは人間にとって自然な事態の認知様式である。この世の一体誰が主観的判断ないし客観的判断のみで生きているだろうか。「自分としては気に食わないのだが、客観的には認めざるをえない」というような判断を常に人間はしている。 人間が事態を把握する際は常に二重把握をし、主客同時に判断している。にもかかわらず言語だけ主観的把握や客観的把握に偏らせるのは元来おかしな話である。二重把握が人間本来の認知様式であるなら、それをそのまま言語の構造に反映したアルカの認知様式は、人間にとって生理的に自然なシステムでありうる。 ただ、地球の先進国で数百年に渡って典型的な客観的把握をする言語と典型的な主観的把握をする言語とが一国の中で混ざり合って変化していったという好例がないので、二重把握がどれほど自然なのかは実際のところデータが不十分である。 1066年のノルマンコンクエストでも混じったのは英語とフランス語でしかない。太平洋戦争で負けた日本にアメリカ人が大挙してやってきて、我々日本人がバイリンガルになったかというとそうでもない。アメリカ人もオーストラリア人も先住民族の言語を何百年もバイリンガルとして使用してはこなかった。韓国も中国を事実上宗主国とした時代があったが、それでもアルバザードとカレンシアのような状態ではなかった。 アルバザードとカレンシアのような大規模かつ長期間の言語的な主客の混ざり合いが地球の先進国で見られない以上、詳細な言語データを得るのは現実的に考えて難しい。それゆえアルカの二重把握に関しては、「人間の認知様式に沿うのではないか」、そして「現に問題なくその言語で意思疎通ができているので少なくとも不自然ではないのではないか」といった弱い推定しかできない。 ●アルカの認知言語学的なアプリオリ性 アルカはアプリオリ人工言語である。しかし人がゼロから言語を作れるかということに疑問を投げかける者もいる。作れたとしてもそれは作者の母語の模倣ではないのかと勘繰る者もいる。しかし今回の分析でアルカは日本語にも英語にもない独自の認知様式を持つことが明らかになった。二重把握というアルカ独特の認知様式により、アルカの認知言語学的なアプリオリ性が立証された。 二重把握は「来る」を主客両様式で把握できることからも分かるとおり、単なる主観的把握と客観的把握の混合ではなく、人間の認知様式のように主客同時に把握するという点に留意したい。 さて、それではこの二重把握という認知様式を踏まえた上で、上記のテーブルの諸特徴を検証してみよう。
●検証 >は左の文が右の文より自然であることを示す。 ◆動詞のとらえ方:客観>主観 ・スルかナルか la fian pixat gek > gek at pix:動作主が明確な場合は他動詞が自然。 la vals kea sil ti > ti sil kea mil la vals ただし主語がle pitaのような無生物の場合はti sil kea mil le pitaのほうが優位。従って客観>主観と判定できる。 ・行為連鎖(action chain)について 英:原因→動作主→手段→対象 This medicine(原因) will make you(対象) better. Tom(動作主) broke the wall.(対象) The hammer(手段) broke the wall(対象). 幻:動作主→対象 ?? tu pita(原因) kea sil ti(対象). → ti sil kea mil tu pita. arxe(動作主) rigat bal(対象). ?? bolt(手段) rigat bal(対象). → bal at rig mil(kon) bolt. = xe rigat bal kon bolt. アルカの主語solがもともと「~する者」という意味であることから分かるとおり、原則主語に来るのはagentである。ただし受動文のときはsolと目的語yulが入れ替わるのでこの限りではない。また、動詞がet, em, sil, ses, at, orなど定義動詞の場合は経験者が主語に来る。 それ以外の原因や手段などは斜格で示される。 ◆認知主体のあり方:客観>主観 ・出来事は客観的把握で捉える 上述の通り、二重把握をするアルカにおいて、感情とは関係ない単なる客観的な出来事に関しては客観的把握を用いる。 lana twal rsit dajna emil e(目的次第では道は譲れない)。これを直訳すると「アンタの目的はアタシの親切心を采配するよ」であり、完全に客観的把握になっている。このように、動詞の各項のアニマシーが低い場合は無生物主語が自然である。従ってアルカは本来客観的把握の性質が強い。日本語では対照的に、アニマシーの高い主語をわざわざ見立てて「(私は)(あなたの)目的次第では道を譲れない」と主観的に考える。日本語と比べると違いがよく分かる。 ・主語とアニマシーと焦点化 確かに出来事は客観的把握で捉えるが、主語solにはagentが来るという原則がある。そのため行為連鎖で述べたように、原因や手段は通常来ない。 agentは通常有生であるから、アニマシーの高いものほど主語になりやすい。次の例を見てみよう。to(何)はti(貴方)よりアニマシーが低いため、ak ti lunat tuube sern? > to piot ti a tuube sern?となる。 日:どうしてこんな案になったの? 英:How did you get this idea? / What led you to this idea? 幻:ak ti lunat tuube sern? / ??to piot ti a tuube sern? このように原則としてsolにはアニマシーの高い動作主や経験者が来るが、lana twal rsit dajna emil eではsolに無生物が来ている。これは他の格にアニマシーの高いものがないためである。対格や斜格にアニマシーの高いものがあれば、それは優先的に主語の位置に来る。ema rest lana twal > lana twal rsit emaのように。 ただし、あえて認知主体が特定の無生物を焦点化しているような場合は、無生物であっても主語の位置に来ることができる。もし「アンタの目的」に焦点が当たっている場合、ema rest lana twal < lana twal rsit emaとなる。 ◆状況のとらえ方:客観 下記に見るように、アルカはコト言語である。 *ti siina vis ant?(私のこと好き?) ti siina an?(私を好き?) ただしアルカは英語にはないコトとモノの区別を持っている点でかすかに主観的把握の性質を帯びている。 英語のthingにコトとモノの区別はない。アルカにはfam, vis, tulの3語が備わっている。ちなみにこれらの区別ができたのはアルカであって、f_arまでは全てalひとつで表していた。明らかにaltの影響である。 ◆存在か所有か:客観 下記に見るように、アルカはhave言語である。 *amel xa an(妹は私がいるところにいる) 文意が変わってしまうので不可。 an til amel(私は妹を持っている→私には妹がいる) ◆動詞の焦点/終わり志向性:客観>主観 言語学的に矛盾しない人工言語の作り方で述べたとおり、アルカの動詞は行為の完遂を含意しない。その点で主観的把握をする。 しかしこれには「但し書きがなければ完遂とみなす」という条件が付く。つまりan sosot laと言えば、その後talで但し書きが付かない限り、原則として行為の完遂を含意するのである。この点でアルカはやはり客観的把握をするといえる。 実はアルカは動詞の焦点については非常に特殊かつ論理的な構造をしている。客観的把握の性質を持ちながら、同時に日本語より主観的把握らしい性質を持っている。以下に例を挙げる。 主観的把握の日本語では「説得したが聞かなかった」は自然だが、さすがに「殺したが死ななかった」は違和感がある。ところがアルカだとan setat la tal la en vortは自然である。 an setat laで終わって但し書きがなければ客観的把握らしく彼は暗黙の了解で死んだことになる。ところがtalが付けばどのような内容でも自然と覆すことができるため、「殺したが死ななかった」という主観的把握の日本語ですら違和感を感じる文が自然になる。 この点でアルカの動詞の焦点は「原則客観的把握だが、但し書きが付けば主観的把握の性質を極めて強く持つ」という特殊な性質を持っている。ゆえに結論としては客観>主観である。従って、終わり指向性についても無標では「あり」で、但し書きが付けば「なし」に変わる。 なお、過去形の場合は無標で完遂を含意するが、現在形と未来形では無標で不定となる点に注意したい。an soso laでは彼が説得されたかよく分からないし、そもそもこれが近未来の表現であって今現在まだ説得行為すら行っていない可能性がある。 ◆名詞のとらえ方/名詞のスキーマー:客観>主観 ・アルカの名詞は無標の状態で「個物か概念のいずれか」を示す 簡単にいえば、名詞に単複や可算不可算があれば有界性があったり個体スキーマがあると見てよい。以下では煩雑さを避けるため、術語を「有界性」と「無界性」に取りまとめて論ずる。 客観的把握の場合は一般に有界性があり、ly, ls, ltなどがこれに当たる。英語はいうまでもなく有界性があり、中国語でもコーパスベースの調査では我想要苹果より我想要一个苹果のほうが自然である。従って表意文字であるか表音文字であるかは有界性の有無に関係ない。 arにはlsを引き継いで有界性があったが、altの影響で徐々に条件付きで無界性を帯びるようになった。それは「名詞が単数であれば原則として個数を省略する」というものである。しかしこれでは名詞の概念だけを抽出することができない。「りんご」という概念なのか「具体的なひとつのりんご」という個物なのかを区別できない。そこでarではまだ単数の名詞にも「ひとつの」という言葉を付ける割合のほうが多かった。 aでは更に無界性が進み、「名詞が単数であれば原則として個数を省略する」ことが普通になった。概念と個物の区別はなく、必要であればko miikやvei miikのように数を付けて個物を示すようになった。 なお、ly, ls, ar, aでは一貫して名詞の形態に単複の違いはない。つまりappleとapplesのような対立はない。これは表意文字である幼字を使っていたf, fvの名残りであり、中国語などと同様である。 以上から、アルカの名詞は無標の状態で「個物か概念のいずれか」を示す。有界性とも無界性ともつかないが、原則単数という目安があることから有界性寄りであるといえる。 ・猫か猫の肉か 有界性がアルカよりも明瞭な英語ではI like cats, but I don't like cat(猫は好きだが猫の肉は好きでない)ということができる。対してan siina ket tal an en siina ketは意味不明な文である。an siina ket tal an en siina yek e ketとせねばならない。この点に関しては無界性寄りである。 ・無界性の乏しさはいかほどか ではアルカには主観的把握の日本語ほどの無界性があるだろうか。つまり主観>客観と判定するほどの無界性があるだろうか。結論からいうと無い。従って客観>主観と判定できる。 日本語で「虫がいる」という場合、虫は一匹とは限らない。ここに名詞の無界性が見られる。一方アルカでveliz xa atuといえば虫は一匹なので、この点で日本語と異なっている。 また、日本語ではりんごを3つ買った場合でも、「りんごを3つほど買った」ということがある。論理的に考えれば不自然だが、日本語の文としては自然である。 この手合いの無界性はアルカにはない。an taut vi miikとなる。an taut vi via miikの場合は文字通り本人がいくつ買ったか記憶になく、3かどうか確かでないときにしか使えない。この点においてアルカの原則である客観的把握の性質が活きている。 加えて、日本語では多用される「など」や「とか」や「でも」はアルカにすると省略されることが多い。wenを付ける場合は文字通りそこで述べた名詞以外の存在に言及したい場合にしか使わない。このこともアルカの名詞の有界性を示している。 なお、日本語の「など」や「とか」はハッキリと言いにくいときにぼかす効果がある。例えばバナナは安いので「バナナが食べたい」とは言いやすいが、モモは高いので「できればモモとかが欲しいんだけどなぁ」というように「とか」を使うことがある。このとき、「モモとか」だからといってブドウでも良いかというとそうではない。あくまで本人としてはモモでなければダメである。 このような奥ゆかしい表現がある日本語は便利であるが、アルカにおいても同様の表現は可能である。単に名詞に曖昧化の接尾辞teを付ければ良い。non xen lan diaikte aanのように。 ・ゼロ匹の猫 一般に有界性のある言語ほどnothingやno applesのようなゼロの表現を持つ傾向にある。 アルカはもともと有界性が強いため、an inat yuu ket > an en inat ketとなる。 ・指示代詞 アルカの小説を読んでいると、最初はlu fianとなっていたものがだんだんとfianに変わっていくのを目にすると思う。 これは指示代詞の省略ではなく、むしろその少女の固有名詞化、簡単にいえば「キャラ化」を意味する。fianとなった瞬間、それは「まだ名前が分からないからとりあえず暫定的にこのキャラのことを『少女』と呼んでおくよ」ということを意味する。固有名詞には指示代詞が不要なので、luは落ちるわけである。 このように見ると、一見アルカの名詞の無標は「個物か概念か固有名詞のいずれか」と直さねばならないように感じられる。しかし固有名詞は個物に含まれるため、規則の変更は必要ない。 ◆一人称代名詞:主観>客観 ・豊富な位相 altの影響を受け、位相が発達した。その中で一人称代名詞も多様化した。現在ではaltも凌ぐ発達を見せ、12種もの一人称代名詞を持つに至る。 ・自分を名前で呼ぶケースと目上を呼び捨てしてもよいケース 典型的な一人称代名詞がある一方で、本来持っていた客観的把握も持ち続ける。例えばセレンが目上であるリーザに呼ばれ、彼女のところに行くとする。このとき主観的把握で表現するとmen ket liiza xanxa(僕は先生のところに行った)になる。一方、客観的把握で表現するとseren lunat liiza(セレンはリーザのところへ来た)となる。 往来や一人称代名詞など、いくつかの特徴に関してアルカは主観的把握を優先させるが、客観的に事態を把握しなければならない際は客観的把握を優先させる。例えば公的な場面であるとか、あるいは戦闘中のような逼迫した場面では客観的把握が優先される。 日本語では自分を名前で呼ぶのは主観的で幼稚なイメージがあるが、アルカで自分を名前で呼ぶのは客観的把握をする場合であり、むしろ格式張った表現である。 実は現実の古アルカは名前については主観的把握をしていたきらいがある。というのもメルは自分をnonではなくメルと呼び続けており、それは幼さを示していたからである。どうもセレンの好みに合わせて彼女は自分を自分の名で呼ぶようになったのではないかと思われる。 と同時に古アルカは上記のような「客観的把握をする場合は自分も名前で呼び、目上でも呼び捨て」という習慣があったので、セレンもリーザを呼び捨てにするようなことがあった。つまり古アルカでは自分を名前で呼ぶ場合、メルのように幼さを出す主観的把握と「セレンがリーザのところへ来た」のような客観的把握とが未分化であった。従って自分を名前で呼ぶのが幼いのか客観的なのか文脈で判断するしかなかった。 2011年現在では紫亞が幼いにも関わらず、彼女は自分をnonやyunaというので、どうも自分を呼ぶときに幼さを演出するという意味での主観的把握は滅んでいるようである。なお、彼女は兄ユルトに遊びの指示をするときに"xianyan luna soa kont yuutxan..."(紫亞にゃんがこうするから、ゆーちゃんは~)などと言っていたことがある。これは文法的には客観的把握になるが、xianyanなどの単語レベルでいえば主観的把握にも見える。判断のつかないところである。 ちなみにメルに関しては00年代後半でいつの間にか自分を名前で呼ばなくなっていた(日本語では未だに自分をメルということがしばしばある)。新生になった辺りで主観的把握の用法が滅んでいるように思える。メルが自分を名前で呼ぶようになった原因がセレンの好みであるとすると、それは日本語の影響である。だが新生アルカはその影響を自然と消してしまっていた。つまりアプリオリ性を保つための自浄作用が働いていたことが伺える。 再度まとめると、アルカで自分を名前で呼ぶのは幼さの現れではなく、客観的把握の現れであると言える。 アルバザード人は会議などをするときにこれを多様する。例えば「12:00時にアリスは大学へ来る。13:00時にシヴァはドラムを部室へ運ぶ」のように、作業工程について話し合うときなどには一人称代名詞を避けて固有名詞を使った客観的把握を好む。 このように状況に応じて主観と客観を使い分けるが、比率で言えば主観のほうが多い。従って、主観>客観と判定できる。 ◆敬語:主観>客観 一般に主観的把握をする言語では自分の目線で相手を見るため、客観的把握をして鳥瞰図的に人間関係を見るのに比べて上下関係が気になりやすい。その結果、敬語は発達しやすい。主観的把握をする言語の中には敬語が文法範疇として確立している言語もある。日本語、韓国語、ジャワ語、タイ語、クメール語などがそうである。 では客観的把握をする言語に敬語に当たるものがないかというとそんなことはない。日本語でいう敬語に相当するものはちゃんとある。ただそれは主観的把握をする言語に比べると文法的に体系化されたものでないことが多く、どちらかというと敬意表現と呼ぶべきものであることが多い。 アルカは人間関係など、論理より感情を優先すべきと考えられるものには主観的把握を用いる傾向があるため、一人称代名詞と同じく、敬語に関しては主観的把握が優勢である。丁寧語は形態論レベルで体系化されており、尊敬語と謙譲語は統語論レベルで体系化されている。 尊敬語:kul(話す) → mist kul(お話になる) 丁寧語:tisee(~だよ) → antisee(~ですよ) 謙譲語:kul(話す) → mir yuus men kul(お話しする、私から話をさせていただく) 単語の中に尊敬語や丁寧語が含まれたものもある。 ku(言う) → rens(仰る) skin(座る) → fians(お座りになる) mok(寝る) → xidia(お休みになる) ただし右側の単語は本来は女性語や雅語であり、本当の意味で尊敬語にするにはmist rensのようにmistを付ける必要がある。 このように敬語が発達している一方、客観的把握をする状況では決して敬語を使わない。 日本語の場合、山田という社長がいたとして、会議中に平社員が社長本人に向かって「山田は15:00時へ鈴木工務店に来る」などと発言することはありえない。ところがアルカでは客観的把握をしたほうが良いシーンでは、むしろ客観的に述べないほうが失礼となる。失礼というのはつまり、真面目にやっていないラフな感じを与えるということである。この点でアルカには客観的把握が残っている。ゆえに判定は主観>客観となる。 ◆代名詞の省略:客観>主観 代名詞の省略はある。ただし条件がある。英語よりは多いが日本語よりは少ない。 (1) 重文の主語が一致:an ket felka, felat.(私は学校に行って勉強した) / leevat felka, an kuit mar ka sea.(学校を出て、モールでドーナツを食べた) (2) 主節と従属節の主語が一致:an kut soa im in la.(私は彼を見たときにそう言った) (3) 直前の文の主語と同じ (4) 文脈から明らかに判断できる ただし(4)については日本語より厳しい。日本語ほどハイコンテクストではない。 物語や会話などで登場人物が少ないシーンでは特定の代名詞が繰り返される。これが煩雑かつ不恰好に見えるため、(3)(4)を適応することがある。 (1)に関してはあらゆる場面で行われ、"I went to the store and bought some brown sugar"のように、英語でも頻繁に見られる。 (3)(4)に関しては同じ代名詞が出るのが煩雑ないし不恰好というときに限定的に起こることなので、日本語的な性質は見られるものの、あくまでその頻度は限定的である。 以上から、客観>主観と判定する。 ◆非人称主語:客観 注)客観的把握には非人称主語(非人称構文ではなく)がある。ただし動詞の活用から主語の代名詞が分かるスペイン語などの場合は動詞の活用で非人称主語となる代名詞は現れない。 ・形式主語(虚辞) tu et rat xel ti ke felka(貴方が学校に行くのはいいことだ)が成立するため、非人称主語は存在する。ゆえに客観と判定される。 ・自然現象 It snows a lot during winterやWe have a lot of snow this winterはどちらも自然である。一方アルカではどうか。 ? sae ati di fol xier:saeが動詞に見えづらいので?が付く。saetのような過去形なら?は外れる。 sae luna ati{du} di fol xier. ? ans til sae di fol xier We have a lot of snow this winterのweは具体的なその場にいる私たちではなく、その国あるいは地域に住んでいる漠然とした人々を指す。総称のtheyに近い用法で、やや形式的な主語である。 アルカの場合、総称にはelを使うので、el til sae di fol xierなら自然となるが、ansでは意図が変わってしまう。ansの場合、具体的な「私たち」を意味するので、お国自慢などをしていて相手の地域と比べて「ウチはよく雪が降るよ」と述べる際にしか使わない。 ゆえに、アルカは非人称主語について客観的把握をするが、総称の使い方に注意が必要で、ansやlaasではなくelを適宜使う点に留意したい。 ・天気の神 実はアルカの場合、saeやeskなどの自然現象文は非人称主語を取るのではない。 カルディアではkleevelという天気の神がいるため、動詞eskの本当の意味は「クレーヴェル神が目的語の場所に雨を降らせる」である。そのクレーヴェルが省略されてeskat im fisのようになっているだけである。従って厳密には自然現象文は非人称主語ではない。 ◆題目か主語か:客観 この特徴については、いわゆる「僕はウナギだ」文が言えるか言えないかの問題に帰結できる。 アルカは一見solに主題を取れる。実際、文法論で便宜上主題を取れると説明することさえある。an et beskaやan et harで「僕が注文したのはウナギだ」とか「僕は赤いのを着ているやつだよ」といった意味を表せる。ゆえに主観的把握に見えるが、実はそうではない。 というのも、元々これはan et les retat beskaやan et les sabes lein harなどの略だからである。よって判定は客観である。 そもそもアルカで主語を意味するsolは「する者」という意味であり、原則として主語にはagentが来る。題目ではない。 ◆連体修飾構造:客観 森山(2007)によると「連体修飾節を用いた連体修飾にしても、of/ノを用いた連体修飾にしても、英語の場合には、空間的、論理的、文法的な意味での本質的関係(intrinsic relationship)が求められるのに対し、日本語の場合にはそのような用法のほかに、その場のコンテクストに支えられた語用論的推論に依存した用法も発達していることが明らかになった」とある。 他方、Langacker(2008)によると"Note that we say the color of the lawn but the brown spot in (*of) my lawn, the difference being that the spot is not supposed to be there"とある。この例をアルカで対照すると以下のようになる。 nim e kist(芝生の色) boppo lette kaen{?e} kist(芝生の茶色くなっている部分) 日本語の「の」は「AのB」という形で連体修飾を作るが、AとBの関係は語用論的に、言い換えればコンテクストや常識に依存して理解される。 一方、英語ではあくまで空間的・文法的に捉えられ、森山のいう本質的関係で捉えられ、ofではなくinが使われる。「文法的に捉えられる」という意味において、英語の連体修飾構造は語用論的に対して文法的と呼ぶことができる。 アルカの例を見てみると、文法的な表現のほうが適切である。よって判定は客観となる。 ◆「ここ」の捉え方:特殊 日:ここはどこですか / ?私はどこにいますか / ??これはどこですか 英:*Where is here? / Where am I? / *Where is this?(ただし地図を指して聞く場合は可) 幻:?atu et am? / ?an xa am? / tu et am? ?の付かない自然な文を見比べると、アルカは日英いずれのグループにも属さないことが分かる。 an xa amという英語式の客観的把握もできるし、atu et amという日本語式主観的把握もできる。とはいえどちらもアルカとしては不自然である。ゆえに特殊と判定する。 ただ、どちらかというとtu et am?自体は日本語に近い表現だろう。その場合は客観<主観と見てよいかもしれない。 ◆主客合体性:客観 この手の話題でよく使われる例文で対照してみよう。 日:国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 英:The train came out of the long tunnel into the snow country. 幻:tu lop lukok fia e sae xi lof fil kaen kaddirei. アルカは英語と同じ客観で、主客合体性はない。 ◆モダリティ表現:客観 モダリティにはepistemic, deontic, evidential, dynamicなどといった種類がある。 epistemicはいわゆる推論を表すモダリティで、「かもしれない」や「にちがいない」などがこれに当たる。英語ではmay, must, willなどがこれに当たる。 deonticはいわゆる当為を表すモダリティで、「すべきだ」や「しなければならない」などがこれに当たる。英語ではやはりmayやmustが使われる。 気付いたろうが、mayやmustはepistemicにもdeonticにも使うことができる。語義が広いのだ。ではどちらが本来的かというと、deonticのほうである。 「かもしれない」などの推論はあくまで自分が主観的に見て判断していることにすぎない。一方、「しなければならない」は客観的な義務である。英語は客観的把握をするため、まずdeonticなモダリティとしてのmustがある。その上で「にちがいない」というepistemicな語義が派生される。 さてアルカではどうかというと、これが特殊である。というのも、epistemicとdeonticの法副詞がそれぞれ異なる単語を使うからである。 アルカの法副詞は数が多い代わりに多義性がない。ゆえにこれだけでは客観とも主観とも判定できない。 唯一senだけが「できる」という意味から「でありえる(klia)」および「してもよい(flen)」という意味に派生している。 「できる(可能)」はepistemicではなくdynamicに分類される。そして「できる」は客観的な能力を示すので、「できる」→「でありえる」は客観から主観への渡りを意味する。また、flenはdeonticの一種なので、これは客観から客観への渡りを意味する。 客観から主観ないし客観へ法副詞の意味が広がっているので、アルカのモダリティは客観が根源にあると分かる。 さらに言えばアルカにおいてそもそもepistemicがfal(deontic)などの法副詞と違ってkliaなどの遊離副詞で表される点にも注目したい。法副詞は英語でいう助動詞に相当し、遊離副詞は単なる副詞の一種で、本質的にはveryやhardlyなどと変わらない。このことからもアルカではdeonticについては法副詞という文法範疇で特別視するが、epistemicは単に副詞の中に放り込まれるということが分かる。すなわちアルカにおいてdeonticのほうがepismeticより重視されるモダリティであり、それゆえ判定は客観となる。 ところで英語のcanはepistemic(でありうる)、deontic(してもよい)、dynamic(できる)の3用法があり、非常に用法が広い。canの原義はこのうちdynamicに当たるので、英語が客観的把握をする言語である以上、モダリティの客観性はdynamic > deontic > epistemicと順序付けられるだろう。従ってアルカのsen(dynamic)がklia(epistemic)やflen(deontic)に広がっていることは、モダリティの客観から主観への広がりを表している。ゆえにアルカのモダリティの根源には客観的把握があるといってよい。 ◆与格か間接目的語か/間接受身:客観 アルカには英語と同じく利害の与格は存在しない。 英語と同じ印欧語でもラテン語やスペイン語には利害の与格があり、例えばスペイン語では"Me llovió"で「私に雨が降った」すなわち「私は雨に降られた」を意味する。 もしこれと同じことをアルカでいうならeskat (an) sinとなる。迷惑感のモダリティは文末純詞で出来事を外側から包み込むように示される。 同じくアルカには間接受身は存在しない。間接受身は主に迷惑の受身(私は雨に降られた)や持主受身(私は財布を盗まれた)のふたつに分けることができる。 「私は雨に降られた」に関しては上述の通り、文末純詞を使う。受動態は使わない。an eskat yuは非文ではないものの、迷惑感は出せない。 「私は財布を盗まれた」に関してはan eftat yu on gils sinのように受動態を使うものの、迷惑感は結局sinが担っている。ただもちろん、sinがなくても常識的に迷惑な内容だということは分かる。なお、xe eftat an on gilsやxe eftat gils antやxe eftat gils it anも可能である。それぞれニュアンスが異なる。最後の文の場合、盗まれた財布は自分のものでなく、預かり物の可能性がある。 gils eftat yu it anという受動態の言い方も可能であるが、迷惑感は出ていない。ただ常識的に考えてsinを付けなくても迷惑だということは伝わる。むろんここの文末にsinを付けてもよい。 持主受身に関しては幻日eftも参考にするとよいだろう。 以上から、判定は客観である。日本語的な受動態の使い方は一切見られない。アルカの受動態は能動文の目的語を焦点に当てたいときにしか使わない。 ◆(英語の)中間構文:客観 そもそもアルカには動詞の自他がなく、すべて他動詞である。主語solはほとんどの場合agentで、目的語yulはほとんどの場合objectである。極めて明瞭なスル言語である。 従ってThis book sells well(この本はよく売れる)のような中間構文というもの自体がそもそも存在しない。あえて訳すならtu lei em atm ati diであるが、不自然である。ではel tau tu lei ati diであろうか。否、総称のelより「大勢の購入者」のほうが具体性があるため、主語に上がってくる。結果、lan di tau tu leiが最も自然という予想が立てられる。そして実際のアルカの語感で検証すると、確かにその言い方が最も自然に感じられる。本に焦点を当てるならtu lei tau yu ati diなどとする。 This book sells wellと比べると使う単語も構文もがらりと変わっているのが分かる。中間構文を訳すときは注意がいる。 アルカには中間構文がないが、それに相当する訳文がlan di tau tu leiというスル言語的表現であることから、判定は客観となる。 ◆動詞vs.衛星枠付け:主観 移動を表す動詞表現に関しては、手段や様式による区別を動詞自体で表現することが多いVerb-framed language(動詞枠付け言語)と、動詞に付属する不変化詞(副詞・前置詞)や接辞で区別することが多いSatellite-framed language(衛星枠付け言語)とが存在する。前者には日本語やロマンス語(フランス語やスペイン語)が挙げられる。例えば日本語では「入る」「下る」「通る」などが別の動詞として存在し普通に使われる。後者には英語、ドイツ語、ロシア語など多くの印欧語や、中国語などがある。例えば英語では、"go in"、"go down"、"go through"など共通の動詞を用いる言い方が使われる。ドイツ語でもこれに似て接辞をつけた分離動詞が使われる。(wikipedia動詞枠付け言語と衛星枠付け言語より) これに関してはアルカは伝統的に動詞枠付け言語である。幼字には漢字以上に一語一意の原則があったためである。客観的把握の代表格であるly, lsですらこの性質を保持している。 実際に地球の言語で見ても本来客観的把握に分類されるはずのフランス語やスペイン語も日本語やアルカと同じ分類に入っているため、この特徴に関してはそもそも傾向が持つ拘束力の弱さを感じる。 ◆主観述語:客観>主観 日本語では「私は嬉しい」とは言えても「彼は嬉しい」とは言えない。「彼は嬉しそうだ」と言わねば不自然である。これは日本語が主観的把握をするためである。あくまで話者の目から相手を見るので、本当に相手が嬉しいかどうかは分からないということである。これが主観述語である。英語のような客観的把握の場合は神の視点で見るため、主観述語はない。 アルカの場合、an na nau / lu na nauはいずれも自然である。ゆえに客観と判定できる。しかしlu na nau inもまた自然である。根底には客観的把握があるものの、特に感情や人間関係が絡む場合は主観的把握をして文末純詞のin, ter, yunなどを用いる。その点で主観的把握が混ざっているため、判定は客観>主観となる。 ◆擬声語・擬態語:客観 フランス語同様、ほぼゼロである。完全に客観と判定。 歴史的に見ても擬態語はtantaなど、数例を除いて存在しなかった。 現実には異民族が集まってアルカができていたので曖昧なオノマトペでは感覚が共有できず、オノマトペ――特に擬態語――は発達しなかった。カルディアにおいても異民族が多かったので発達しなかった。 更に言えば現実ではメルの参加以降、「この音はこの意味を象徴することにしよう」という、いわゆる音象徴が生まれた。音は具体的な音象徴に特化したため、曖昧なオノマトペに使用する機会は更に減ることとなった。 音象徴の例を挙げよう。eは水に関するものを示す。現在でもer, eria, eri, lueなど枚挙に暇がない。このように現実のアルカでは音象徴が優位だったため、なおさらオノマトペが冷遇された。 ちなみにカルディアのほうでは音象徴はf, fvの頃に発達しており、これにはエーステ理論という神話学的な理由が背景にある。言語学とは異なる分野なのでここでは割愛する。各自幻日を参照されたい。 なお、擬音語については擬態語と違って豊富である。特に演繹音の存在により、日本語や韓国語以上に体系だった擬音語を獲得している。 なぜ擬音語をここまで体系付けたかというと、システマティックでなければ多民族の間で共感しにくいためである。それは現実でもカルディアのアルバザードでも同様の事情である。 ◆過去時物語中の現在時制:特殊 現在を2011年とし、1991年に起こった1年間の物語を仮定しよう。 英語の場合、認知主体である読者は2011年から客観的に1991年の物語を見る。このため、本文中では過去形が用いられる。 日本語でも原則同じだが、認知主体を物語の中に埋没させて現在形を使うことがある。これは主観的な見方で、臨場感が増す。物語中で「る」を使うのは臨場感以外にも用法があるが、ここで重要なことは日本語が視点を移動させることで主観的に現在形を使うという事実である。 アルカの場合、このどちらにも属さない。歴史の中からこの物語が存在する1991年だけを切り取る。その前後の時間は切り捨てられ、独立した時間を形成する。従って2011年に存在する認知主体は切り捨てられることになる。つまりアルカの特徴は認知主体の切り捨てにある。 時制は物語の進行に合わせて常に現在形で語られる。パソコンで見る動画を想像してみよう。シークバーは動画の現在位置を示す。アルカにおける物語の捉え方は動画と同じであり、シークバーの位置が現在形で語られるわけである。貴方が何年にその動画を見ているかは一切関係ないし、貴方が画面を見ていようがいまいがシークバーは進む。つまり認知主体は切り捨てられて物語は進んでいく。従って、客観的把握にも主観的把握にも属さない特殊な型をしているといえる。 まるでアルカは誰もいない映画館のようである。観客がいようといまいと上映され続ける。 換言すれば、アルカにおいて地の文のデフォルトの時制は現在形ということである。無時制ではない。まるで目の前で今現在物語が進んでいるかのような表現をする。日本語だとデフォルトが過去形になるため、違和感を感じることであろう。 確かにアルカの地の文は現在形がデフォルトだが、その文脈の時点から見て過去の出来事であれば過去形を使うことができる。つまりシークバーの現在地点より前の時点の出来事について言及する場合は、地の文でも過去形を使うことができるということである。 ◆直接・間接話法:客観 アルカは間接話法が非常に発達している。この点で英語と同じで、判定は客観である。 ただし、主節と従属節の主語が同じになる場合は従属節の主語を省略するか、あるいはnosに置き換える。nosに置き換える点は若干主節の主語に視点を合わせているように感じられるため、英語ほど客観的把握はしていないといえよう。 なお、時制の一致に関してはアルカは主節との比較で行う。主節と従属節の時点が同じなら主節が過去形であっても従属節は現在形になる。 He said, “I am busy.”= lu kut "an tur vokka". He said that he was busy. = lu kut nos tur vokka. アルカでは直接話法に比べて圧倒的に間接話法の頻度が高い。
●アルカは現代的な認知様式? 二重把握というのは客観的把握や主観的把握のどちらか一方に偏らせる様式に比べ、人間本来の認知様式に近い。 人間は常に主客両面から事態を把握しており、適宜状況に応じて適切なほうを選ぶ。 これはテレビの映し方に近い。テレビの収録では複数のカメラで同時に撮影をし、視聴者に最も伝わりやすいカメラの映像を適宜流していく。サッカーの試合でゴールが決まればゴール目線で流す。バラエティでオチを言う人がいれば、ゲスト全体を見渡すカメラから彼をクローズアップするカメラに切り替えて映像を流す。テレビの映像は人間の二重把握に近い。そのため視聴者は違和感なくテレビの映像を受け入れることができる。 ともなれば言語だけ客観的把握や主観的把握の一方に偏っているというのは、人間の認知様式からすればむしろ違和感さえ覚える。 また、物語を時間軸から切り取り、ひとつの物語の中では常に現在形を使うという件に関しては、まるで物語を一枚のDVDの中に収め、現在位置をシークバーで示しているかのようである。アルカにおける物語中の現在時制は現実の時間軸とは切り離されたDVDのシークバーに相当する。 テレビといいDVDの動画といい、どうもアルカの二重把握や物語中の現在時制などの例を見ていると、アルカという言語が現代人の認知様式を写し取っているかのように感じられる。 ●遅れた認知言語学的考察 アルカの言語らしさを初めて意識したのは筆者が中学生の頃であった。次いで強く意識したのは高校時代であった。そして本稿を書こうと思ったのは制アルカを作っていた大学時代前半である。ところが2011年になるまで認知言語学的考察をまとまった記事にはせず、断片的な考察しか行ってこなかった。 アルカの場合、作者らが言語学に触れる前に言語制作があったので、紆余曲折を経てしまった。それで後発の制作者には二度手間をさせないよう、先に言語学を学ぶことを勧めている。 ところで、昔から不思議なことがある。子どもが自然と言語を覚えるように、特に示し合わせたわけでもないのにアルカユーザーの間で「これはアルカらしいしっくりくる文だ」という語感を共有してきたという事実である。 最初は当然この原因が分からなかった。しかし現実として語感を共有している以上、何らかの規則があるに違いないと考えた。言語学的な考察をすればきっとその規則が見えてくるだろうと考えていた。 その規則が何かは分からなかったが、皆規則を体得していたので、いずれまとまった考察をしようしようと思いながら2011年まで後回しにしてしまった。 今回二重把握という認知様式が見えたことで、「だからか!」と思ったことがいくつかあった。それが例えば下記である。 ●言語相対論の再評価および雑感 ・認知主義と生成主義 筆者は人工言語を作るという目的で言語学を始めた。言語学をやる人間としては異例の入り方である。アルカに役立つか否かという視点で常に言語学の理論を評価してきた。 また思春期に多くの民族と触れ合ったことで、いかに異民族の物の捉え方が違うかを痛切してきた。 そんな筆者にとって最も共感できた言語理論がいわゆる「サピア・ウォーフの仮説」である。ウォーフの言説はWhorf(1964)などに見ることができる。 サピア・ウォーフの仮説は一般に言語決定論と言語相対論に分かれる。流石に筆者も決定論には賛成しないが、それでもかなり決定論寄りの相対論を支持している。 また、言語学の派閥でいえば筆者は明らかなる認知主義者である。とりわけピンカーとチョムスキーについては懐疑的である。 中でもピンカー(1995)のサピア・ウォーフの仮説に対する論拠のない非難には同意しかねる。もし彼が様々な民族と議論しながらゼロからひとつの言語と世界を構築していれば――あるいは少なくとも彼にもっと異言語と異文化への造詣があれば――言語が人間に与える影響の大きさを実感できただろう。この件についてのピンカーへの批判はヴィエルジュビツカ(2009)が的を射ている。なお、同書は言語と文化の関連性を知る上でも読んでおきたい一冊である。 ときに、筆者もはじめから生成主義に反対していたわけではない。もともと理系だった筆者にはむしろ最初はサピア・ウォーフの仮説より生成主義のほうが肌に合うように感じられた――少なくとも字面からは。だが実際に読んでみるとその理論が実体験とあまりにかけ離れていることに気付き、現実に即していない理論と評価するに至った。 ・その「わからん」は「理解できない」なのか「共感できない」なのか 今回の二重把握を知って「なるほど、だからか」と思ったことがある。 日本でテレビを見ていると、人々が議論をしている様子をよく見る。政治関連の談義であったりと内容は様々であるが、「理解できない」とか「分からない」といった台詞がよく聞こえてくる。「理解はするが共感はしない」という言い方をする人はあまり見かけない。これはなぜだろうか。 日本語は主観的把握をする。客観的把握の傾向にはない。論理は客観的把握に向いており、感情は主観的把握に向いている。ということは日本語は論理を表現するときも主観的把握で表現する傾向がある。その証拠が「分かりました」である。この言葉は「理解しました」と「了承しました」のどちらも意味する。論理と感情が分化できていない。 客観的把握をするフランス語では"Est-ce que vous comprenez?"(理解しましたか?)と"d'accord?"(わかったかい?)は別々の単語を使うのが自然である。もっとも、客観的把握をするフランス語でもentendre(理解する)からEntendu(了解です)という表現を作るので一丸にはいえないが、アルカのloki(理解する)にxiyu(了解する)やyuta(受け入れる)やokna(共感する)の意味はない。コーパスを確認しても「わかったよ」というときは"loki"ではなく"xiyu"と答えている。ただしアルカでも相手に従うことが前提である環境では、理解したというだけで「了承した」を事実上含意することはある。 英仏がきちんとできているというわけではないが、どうも日本語は特に論理的な理解と感情的な理解を分離できていない印象を受ける。日本人は「わかった」と言ってしまったら相手の要求を呑んだことになってしまうと思って、そう易々と「わかった」とは言わないのかもしれない。その結果、議論が膠着してくると「わからん」とか「まったく理解できん」といった台詞が飛び交うようになるのだと思われる。 恐らく一度「わかった」と言ってしまったら言質を取られると思っているのではないか。あくまで「理解した」という意味の「わかった」でしかなかったとしても、「アンタあのとき分かったって言ったじゃないか!」と詰め寄られる危険性がある。 アルカだとan lokik ti(貴方を理解した)と言っても共感したことは含意しないので、言質を取ったような言い方を後からされることはない。 ・アルバザード人曰く、「理解はするが共感はしない」 この件に関してアルバザード人はどうか。現実の古アルカもそうであったが、アルバザード人の典型的な言い方は「あぁなるほど、君の言いたいことは分かった。でも俺はそう思わない」である。これは論理と感情を完全に切り分けた表現である。 日本人はあまりこういう言い方をしない。実際にこういう言い方をしたら殺伐とした雰囲気になる恐れすらある。 ところがアルバザード人はこの言い方を非常によくする。これは二重把握の賜物であろう。日中韓英仏などはいずれも主客いずれかに偏っており、主客を並行して考える習慣に慣れていない。「理解はするが共感はしない」という言い方を日常的にするという習慣が二重把握によるものだとしたら、言語が思考に与える影響は軽視できないのではないか。 アルバザードという国は元々ルティアの魔法兵団やメティオの魔獣兵団やアルティアの武士といった脅威に晒されてきた。そんなアルバザードが世界最強の国家になれたのは、常に合理的に考え、出る杭は打たずに伸ばし、偉人は貶さず褒め、勧善懲悪をし、伝統にこだわらず良いものは素直に取り入れてきたからである。そういう国民性を獲得しなければ、地続きで平坦な土地の多いこの国はここまで強さを保てず、最悪生き残れなかっただろう。 アルバザード人の交渉の仕方は非常にサクサクしている。「僕はここまで妥協する。君はどこまで妥協する?その妥協点に賛同できないなら戦争ですね。ところで僕の戦力はこれこれです。君の戦力はこれこれです。死者の推定数はこれこれです。さぁどうしますか」という態度で、完全に合理性しか考えていない。 その一方、「以上の議論から戦争という結論が出ました。さてここに温情をかけます。戦力から言って僕らの勝利は確実です。しかしお互い死者は出したくないでしょう、可哀想ですからね。そこで多少譲歩をするので、その上でもう一度戦争をするか考えてください」というような言い方をする。 彼らにとってはまず最初に論理がありきで、それに付加するように感情面を出す。完全に論理と感情を切り分けており、日本ではあまり一般的ではない物の見方である。この習慣がない人からすれば「機械的で冷たいな」と感じるかもしれない。逆に「合理的で論理的で賢い人達で、そりゃ発展するわけだ」と思うかもしれない。 ・言語が影響を与えるのはせいぜい思考の習慣に限られる 主観と客観で同時に事態を把握するというアルバザード人の習慣が独特であることは常々感じていた。日本人にはもちろん、アメリカ人にもフランス人にもあまり見られないためである。 だが今回の考察でこれが二重把握によるものだと知って、今まで強く評価していた言語相対論を再評価するに至った。 ただ、だからといって言語決定論を支持するほどではない。言語が思考の習慣に影響を与えることに疑いの余地はないが、思考を決定付けるほどの力はなかろう。 例えば筆者はアルカをやる前から主客を分離して考えていたので、もともと二重把握をする習慣が個人的にあったのだろう。日本人としては珍しいほうだと思うが、もし言語決定論が正しければ筆者が主客を分離して考えるようになるのはアルカを学んだ後になるはずである。 ・役割語と言語相対論 また、言語相対論は金水(2003, 2007)が唱える役割語についても関連性があると思われる。 いわゆるキャラ語尾を豊富に持つ日韓とそうでない英仏を比べてみよう。後者の話者は前者の話者が感じているキャラ性を同じように感じることができるだろうか。否。少なくともキャラ語尾が伝えるキャラ性に関しては確実に抜け落ちてしまっている。この問題は豊富な一人称代名詞を持つ言語からそうでない言語に翻訳をした場合にも起こることである。 例を挙げよう。「わたくし、磯鷲早矢と申しますの」と「拙者、緋村剣心でござる」を英語に訳せばどちらも"I am Haya"や"I am Kenshin"のような言い方にしかならない。 日本語には「わたくし~ですわ」というお嬢様キャラを想起させる言葉がある。一人称や終助詞の使い方によって話し手の個性を察するという思考の習慣が日本人にはある。 もちろん終助詞がなかったり一人称がひとつしかない言語であっても、別の品詞や言い回しで相手の個性を判断することはできるだろう。しかし依然として一人称や終助詞で相手の個性を察するという思考の習慣は生じない。その意味で言語が思考に影響を与えていることは確実であり、かようにして言語相対論と役割語は関連性があるように感じられる。 アルカは日本語と同じく人称代名詞などが豊富で、キャラ性を出すのが得意である。従って、アルバザード人はそういった要素で相手の人間性を推し量る思考の習慣を培っているといえる。 ●参考文献 Langacker, R. W.(1985) "Observations and Speculations on Subjectivity" Haiman (ed) "Iconicity in Syntax" pp109-150, John Benjamins Publishing Comapany ――(2008) "The relevance of Cognitive Grammar for language pedagogy" Sabine De Knop (ed) "Cognitive Approaches to Pedagogical Grammar: A Volume in Honour of Rene Dirven (Applications of Cognitive Linguistics)" p18 Mouton De Gruyter Benjamin Lee Whorf(1964)"Language, Thought, and Reality: Selected Writings of Benjamin Lee Whorf" John B. Carroll (ed) The MIT Press アンナ ヴィエルジュビツカ(2009)『キーワードによる異文化理解』 p22 而立書房 スティーブン ピンカー(1995)『言語を生みだす本能〈上〉』日本放送出版協会 庵功雄(2001)『新しい日本語学入門―ことばのしくみを考える』スリーエーネットワーク 池上嘉彦(2004)「言語における〈主観性〉と〈主観性〉の言語的指標 (1)」『認知言語学論考』No.3 pp1-49 ひつじ書房 ――(2005)「言語における〈主観性〉と〈主観性〉の言語的指標 (2)」『認知言語学論考』No.4 pp1-60 ひつじ書房 金水敏(2003)『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店 ――(2007)『役割語研究の地平』くろしお出版 河原清志(2009)「英日語双方向の訳出行為におけるシフトの分析―認知言語類型論からの試論―」日本通訳翻訳学会・翻訳研究分科会(編)『翻訳研究への招待』第3号 pp29-49 中村芳久(2004) 「主観性の言語学:主観性と文法構造・構文」 中村芳久(編)『認知文法論Ⅱ』 pp3-51 大修館書店 森山新(2007)「認知言語学的観点による日本語の連体修飾研究-連体修飾節・ノを用いた連体修飾を中心に-」日本学報 72. pp41-58 ――(2009)「日本語の言語類型論的特徴がモダリティに及ぼす影響 :グローバル時代に求められる総合的日本語教育のために」比較日本学教育研究センター研究年報, 5, pp147-153