ネイティブ考
●母語とネイティブ
・母語とは年齢がごく小さいうちに獲得した言語を意味する
・最初に獲得した言語を第一言語という
・人間はひとつ以上の言語のネイティブである
●言語の獲得とその順序
・言語の獲得とは語彙や文法の獲得もさることながら、最も重要なのは語法――広い意味での「その言語における世界の切り分け方」を獲得することである
例えば日本語で水と湯は区別されるが、英語や韓国語では単語レベルで切り分けない。日本語は目と目の間を命名しないから日本人はこの部位をあまり意識しないが、アルカはkwarという名が付いているので意識が行きやすい。lipは唇だが、英語と日本語で指す範囲が異なる。日本語では雷が落ちるというから登山をしていて雲の上まで抜ければ安全だと誤解するが、アルカだと雷が来ると表現するので雲の上に抜けても安全だと誤解しない。世界の切り分け方はこのように言語ごとに異なり、また言語は思考に影響を与える。この言語固有の切り分け方を獲得することが、言語の獲得において最も重要であると私は考える。
アルカを獲得するとは、アルカならではの物の見方を獲得し、アルカの切り方で世界を認識できるようになることなのだ。それがネイティブ以外でも可能なことであるとすれば、ネイティブを生産することに必然性はない。
・切り分け方はどの順序で獲得しても結果は同じ
例えば子供に最初にアルカを教えてフランス語を教えるとする。フランス語だけで育った子供はfrèreをfrèreのまま受け入れるが、最初にアルカを教わった子供はalserとaruujを区別しない概念のことだと一歩踏まえてからfrèreを受け入れる。
逆に先にフランス語を教えた場合、frèreをそのまま受け入れる。その後アルカを教えるとalserとaruujはfrèreが分化したものなのだなと認識した上で受け入れる。
獲得する過程を逆にしても、結果的に獲得する世界の切り分け方は2種類になり、同じになる。
どちらを先にインプットしたかにより、切り分け方の獲得の過程に違いが出る。先にfrèreを入れればalserとaruujはfrèreが分化したものだと認識するし、先にalserとaruujを入れればfrèreはこれらが統合したものだと認識する。つまり世界の切り分け方を獲得する際に行われる認識の過程が異なる。
だがいずれの場合も結果的には2種類の世界の切り分け方を獲得するため、最終的な違いはない。
●ネイティブ不要論
・バイリンガルは結果的に世界の切り分け方を2つ獲得した人間のことである
・母語として2つの言語を獲得した人間は両方のネイティブかつバイリンガルである。大人になってから第二言語を習得した場合は片方のネイティブで両方のバイリンガルである。彼らを順にA,Bと命名する
・A,Bの間には第二言語の習熟度しか違いがない。ネイティブでなければ持っていない特性というのは存在しない。ネイティブのほうがリスニングもスピーキングもおしなべて上手いというだけで、習熟度以外に本質的な差はない
・ネイティブとノンネイティブの間には習熟度の差しか存在しない。ということはネイティブを育成する必要はなく、子供を作ってアルカを教えるのも大人にアルカを教えるのも本質的な差がないといえる
・最も習熟度の高いネイティブと最も習熟度の低いネットユーザーの間にあるのは習熟度の違いのみであり、前者のみが特有する要素は存在しない
・獲得する言語の順序や獲得した年齢に本質的な意味がないのなら、ネイティブは不要、すなわち第一言語をアルカにする必要はないといえる
・以上から、子供をゼロからアルカで閉鎖的に育てることに特段の意味がないことが証明された。それは単に習熟度の高いユーザーを生み出す行為にすぎず、本質的にはネットユーザーを育成することと変わらない。つまり、単に流暢な人間を育てるだけの行為にすぎない。というのも、ネイティブ固有の特性というのは存在しないのだから
・ネイティブに対する過度の期待が、今までの偏見と誤解の原因だったのだ。娘を観察していて、ネイティブは習熟度の高いバイリンガルでしかないことを知った。インプットする言語の順序に意味がないことも知った。ネイティブのおかげで逆説的にネイティブが特別な存在でないことを知った
●言語作者の任務
・言語作者の任務は、言語の制作、その言語特有の世界の切り分け方を任意の人間に獲得させること=言語の習得、自言語を人工言語史に刻むこと、巨大コーパスを作成することである
・言語の制作は死ぬまで作り込み続けるものであるが、文法は比較的早く完成する。作り込み続けるのは語彙と語法と文化記述である。しかしそれも日常生活を営めれば言語として十分機能するので、日常生活で使うせいぜい15000語程度を網羅できた時点で一旦の完成といえよう。その後の作り込みは完成後の補遺ということになるが、極める人間はこの完成後の永遠に終わらない補遺の作業のほうが長くなる。アルカは2012年現在この段階にある
・言語の習得は自分自身がアルカの世界の切り分け方を獲得した時点で全うできているが、言語をコミュニケーションツールとして考えると、最低自分以外に1人ユーザーが必要である。アルカの場合アシェットやネットユーザーたちにより、ネイティブから大人まで幅広くアルカならではの世界の切り分け方を獲得させている。よってこの件に関しては既に任務を全うしている
・自言語を人工言語史に刻むことは人工言語の学会が存在しない以上、個々人が行う必要がある。もっとも有効なのが出版することで国家に著作物の存在を公認させることである。アルカは既にこの任務を全うしてある
・言語は巨大なコーパスを必要とする。個々の用例の集積だけでなく、まとまった量の文書がコーパスとして必要になる。アルカの場合、アルディアという異世界カルディアの歴史を最初から最後まで記した歴史小説が存在する
・結論として、アルカは全ての任務を全うしており、2012年現在でいえば巨大コーパスであるアルディアの制作を順調に続けていけば良いという結論が得られる
●『女房学校』
子供を閉鎖的な空間で育て、異言語に触れさせずにアルカだけで育てる。どうしても子供のころに読んだ『女房学校』を思い出してしまう。様々な細かい設定が異なるのだが、主要なコンセプトは近しい。要するに子供を閉じ込めて自分の思うどおりに育てようという計画だ。妻にするだのなんだのという点は異なるが、主旨が似通っている。なのでどうしても思いだしてしまう。
ただ現実的に考えてそのような計画を実行に移すことは可能だろうか。筆者の場合、経済的にも社会的にも可能である。可能ではあるが、現実的でないというのが結論である。
日本にいながらアルカだけを教えるなどということは事実上不可能だと思う。例えば子供が病気になったとき、医者に連れていくこともできない。子供が容態を私に話し、私が医者にそれを訳せばいいかもしれない。原理的には可能だ。が、現実的には不可能だろう。下手すれば通報され、児童虐待で親権を奪われてしまう。
学校にも行かせず外でも遊ばせず常に24時間子供と一緒にいてアルカを教え続けるとしよう。その間私はパソコンを使ったネット経由の仕事しかできなくなるだろうが、経済的には貯金もあるので不可能でない。だが果たして子供以前にこちらの精神が持つか。24時間へばりついてアルカだけを喋り続ける精神力があるか。現実的に考えて無理だろう。
私はその場合テレビもアニメも漫画も小説も、日本語資料は一切見ないようにしなければならない。幻日辞典やアルディアの執筆も、子供に隠れて同じ部屋の隅っこでコソコソとやらなければならない。それは事実上不可能だ。
外に出れば看板や何やらで嫌でも日本語が目に入る。日本から脱出して中国に行ったとしても今度は中国語が目に入る。アルバザードが架空の国である以上、いずれかの自然言語が目に入ってしまう。
地価の安い国か県に行って広大な土地と屋敷を買い、食料は配達してもらえば、この問題は解決できる。子供と2人で孤独に広い庭屋敷で生活するのだ。つまり原理的には可能だ。――可能だが、その環境に耐えられそうかというと、とても耐えられる気がしない。
それに子供が一度でも幻日辞典やアルディアを見てしまったらその時点でアウトである。24時間監視していなければならない以上、同じ部屋で作業をする必要がある。後ろから見られない保証はない。子供が寝ている間だけ作業をするとしても、子供が途中で起きない保証はない。地球で生きる以上、完全にアルカ以外をシャットアウトする方法はない。
そもそも私が意識的に日本語を一切使わないとしよう。しかし怪我をしたときや火傷をしたときに思わず「いたっ」とか「あつっ」と言ってしまえばもうおしまいだし、そもそも寝言を喋ってしまえばおしまいだ。子供が一度でも私の日本語の寝言を聞いたらこの計画は純粋さを失ってしまう。
結局どう考えてもアルカだけで純粋培養することは不可能なのだ。どのみち自然言語の影響を受ける。自然言語は何らかの形で子供に入り込む。
どうせ自然言語から逃げられないのなら無理に隠遁生活をしたり幽閉生活をさせたりすることなく、普通に自然言語とアルカを並行しながら育てればよいという結論になる。
どうやっても純粋培養できないのであれば、さじを投げて合理的に生きたほうが良い。どうせ純粋に育てられないのであれば目一杯合理性を重視して、日本語メインで娯楽も与えて育て、ふつうに学校にも行かせ、自分は手をそんなにかけず、時折第二言語としてアルカを教えれば良い。
100%の純化が不可能ならば、純粋なネイティブの育成は無理なのだから、あとは純粋性が1%でも99%でも関係ない。不純物はどのみち不純物にすぎない。だったらわざわざ子供を幽閉してまで「純度の高い不純物」を作る必要はなかろう。そして倫理的に考えてもこの結論が最も順当である。
そして1%の純粋性でも99%の純粋性でもどちらも不純物には変わりないという事実を基に考えると、そもそも子供を育てる必要もないという結論になる。
というのも、1%程度の純粋性なら大人のしかも面識すらないネットユーザーでも余裕で到達できるからだ。
多額の費用と膨大な時間をかけて子供を育てても純粋培養できないのであれば、ネットユーザーに浅く広く伝播したほうが効率が良い。
とはいえ、もちろん現実的には1%の人間と99%の人間には大きな習熟度の差がある。少しでも99%に近い濃いユーザーを育てることには一定の意味があるし、それを獲得しようと思うならネット上では不可能で、恐らく自分の手元で育てる必要があろう。
不純物でも純度が高ければ一定の価値がある。それを獲得するために子供を育てるということには一定の意味がある。だが費用対効果を考えると実行に移すだけの価値があるかは分からない。
上で述べたとおり、ネイティブとノンネイティブには習熟度以外に本質的な差がない。世界の切り分け方を獲得してしまえば両者は習熟度しか違いを有さないのだ。だから費用対効果を考えると子供を育成することに必然性はないといえる。
そう、確かに必然性はない。だが、あったほうが宜しいということもまた言える。「あれば良いが、なくても構わない」。それが子供をアルカで育成することに関する現実的な意義である。巨大コーパスの作成などと違って必然性のある仕事ではないのだ。余力があればすればいいというだけのもので、漫画などのコンテンツを制作するといった企画と本質的に変わりないものである。
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●以下は2012/1/16にツイッター上で行った思考である。本項の素地となっている。下から順に読む。
serenarbazard seren arbazard
今は心がヒートアップしているから冷静になれなかろう。余熱を取ってから再考する必要がありそうだ。ゆえにもう寝ることにしよう。
16時間前 お気に入りに登録 返信 削除
serenarbazard seren arbazard
大きな悩みが氷解した。悪性腫瘍を除去したかのようだ。今後の人生を大きく左右するほど大きな考察となった。まさか今日こんな唐突に解決の糸口が見えるとは。あとはこれを理論化して文章化してミスがないかチェックし、理論を実生活に応用して実践すればよい。
16時間前
serenarbazard seren arbazard
しかし7年も悩んで、というか中1からカウントすると17年も悩んで、ある日こうやって唐突になんの脈絡もなく同じような思考の繰り返しをしているとき、ふといつもと違う線路に思考の車輪が嵌り、正解に辿り着くことがあるものなのだな。不思議だ。あれだけ悩んできたというのに。こんなにあっさりと
17時間前
serenarbazard seren arbazard
重苦しい肩の荷と激しい劣等感と黒い怨嗟が、三番目を除いてだいぶ和らいだ。悩むことは苦しいが、悩みぬいた先には救いがあるということを知った。悩みぬいて救われるということは、まだ自分には知らないことが多く、自分はまだまだ若いということだ。30にしてまだ未熟
17時間前
serenarbazard seren arbazard
然るに自分はネイティブを新たに手元に獲得する必要がないことが証明された。既にしあで結論は出ていたのだ。否。この結論さえ分かれば、タイムスリップしてしあがいない世界線に移動したとしても、ネットユーザーにアルカの切り分け方を伝導している時点で任務は達成されているのだ
17時間前
serenarbazard seren arbazard
ネイティブに対する過度の期待が、今までの偏見と誤解の原因だったのだ。しあを観察していてネイティブは習熟度の高いバイリンガルでしかないことを知った。埋め込む言語の順序に意味がないことも知った。ネイティブのおかげで逆説的にネイティブが特別な存在でないことを知った。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
いいぞ、やはり自分は書いて考えるタイプなのだ。キーボードを打つと思考がまとまる。あとはこれを読める文章にして記事にするだけだ。ネイティブ不要論等をまとめた記事を。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
ということは自分に残された最後の任務は巨大コーパスの制作か。これだけがまだ達成していないことなのだ。アルカの認知枠組みを伝導する任務は全う。歴史に刻む任務も全う。残るは巨大コーパスとなった。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
アルカという切り分け方を誰かに伝導するという件に関しては既にコンプリート。となると残りはアルカの存在を歴史に刻むことだが、これも出版などによって社会的に成立させてある。残るはアルディアのような巨大なコーパスの作成ということになる。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
あ……じゃあ自分の任務ってもう終わってるんじゃん……。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
ということは自分がすべきことはアルカの世界の切り分け方を任意の人間に伝導することになる。しかし自分自身に伝導しているのですでに任務完了となる。自分を除外したとしてもリディアらアシェットの人間、niasさんらネットユーザーに伝導している。むろんネイティブほどの習熟度ではないにせよ
17時間前
serenarbazard seren arbazard
手の届かないしあのおかげで、手の届く範囲にほしいと思っていた子供に対する必然性を失うとは、驚きだ。驚愕だ!物凄い話だ。手の届かない子供が手の届く子供の必然性を奪うというのだから。まるで天地がひっくり返ったようだ。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
リディアやメルや彼女ができたように、自分も自分の管理下に子供を置いて教育してみたかった。というかそれが作者としての義務だと思っていた。しかしネイティブと大人バイリンガルの間に決定的な差異がないのであれば、その実験が不必要であるということになる。これは……なんという……結論だ……
17時間前
serenarbazard seren arbazard
うわ、今日自分の世界がTLでひっくり返った。天地がひっくり返った。パラダイムシフトが起こったといってもいい。それくらい人生に影響を与える思考だった。そうか、俺には子供を得てアルカを教える義務はなかったのか。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
しかしもしあんなことにならなかったらしあは生まれていないわけで、しあが生まれていなければこの結論も導出できなかったのだから、どうあがいても過去は変えられなかったということになる。この世界線は避けられない必然だったのだ。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
あぁ!この結論を7年前の自分が知っていればあんなに焦ることはなく、彼女を追い詰めることもなく、あんなことにはならなかったのに。自分の人生が詰むこともなかったのに。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
アルカを獲得するとは、アルカならではの物の見方を獲得し、アルカの切り方で世界を認識できるようになることなのだ。それはネイティブ以外でも可能なことであるとすれば、ネイティブを生産することに必然性はない。ないのだ!!!!
17時間前
serenarbazard seren arbazard
言語の獲得の本質とは何か。僕は語彙や文法ではなく、語法――広く言えば世界の切り分け方を獲得することだと思う。そしてその点においてネイティブと大人バイリンガルの間には習熟度以外の決定的な差異がない。ここだ!ここが決定的に大事なんだ!
17時間前
serenarbazard seren arbazard
言語学者の町田健が言語学者の子供は言語の実験に付き合わされるものだと書いていた。ウチの家でも同じだな。人工言語屋の子供は人工言語の実験に巻き込まれる。で、僕はそれが本人の将来にとってよくないと思うので、わざわざ自分の作った言語を押し殺してフランス語を勧めているのだけど。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
しかしこの結論が出せたのは間違いなくしあという実験体がいたからだ。彼女の成長を見ていて「単にアルカがうまいというだけで、別段俺達大人のバイリンガルと変わらなくね?」と思ったからこそ、この結論が導出できた。そういう意味では娘を使った人体実験には大いなる意味があった。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
というわけで結論としては、赤ん坊をゲットしてゼロからアルカを吹き込む実験には、ネットユーザーにアルカを教えることと本質的な差がないということになった。おお、これはすごい結論だ。自分の人生をゆがめるほどの!これはまとめて記事にしなければならない。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
つまり子供を新たに作って閉鎖的にアルカだけで育てることと、ネットユーザーにアルカを教えて育てるのは、せいぜい習熟度に差が出る程度で、本質的な「アルカの世界の切り分けを獲得する」という点においては変わらないのだ。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
さて、ネイティブに価値がないとすると、別にある程度育った子供をバイリンガルにしたり、すでに大人なアシェットを教育してバイリンガルにしたり、ネットユーザーを教育してバイリンガルにしても本質的に変わらないということになる。習熟度に差があるというだけで、本質的に彼らは等価だ
17時間前
serenarbazard seren arbazard
となるとネイティブには別段価値がない。しあを最初からアルカで育てた意味は特になかった。先にフランス語を教えても問題なかった。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
ネイティブは赤ん坊のうちにインプットしたか否かの違いしかない。ノンネイティブのバイリンガルと決定的に異なる点はない。また、先にアルカを教えようが後からアルカを教えようが、切り分け方を獲得する過程が異なるだけで、2つの切り分け方を獲得するという結果は変わらない
17時間前
serenarbazard seren arbazard
そう、ネイティブだからこそ持っている要素などないのだ。もちろん使用年数が長い分流暢ではあろう。しかしその程度の違いしかない。本質的な違いではない。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
所詮ネイティブ・ノンネイティブはいつ言語をインプットしたかの違いでしかない。ネイティブであろうがなかろうが、バイリンガルは世界の切り分けを2つ獲得しているという結論において変わらない。となるとネイティブだからこそ持っている特徴は存在しないということになる。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
そう、ネイティブというのはしょせん赤ん坊のころにインプットされたものを指すだけなのだ。2個インプットすれば母語を2つ持ったネイティブができるというだけのことだ。順序でなく赤ん坊のうちにインプットしたことがネイティブの定義だ。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
――切り分け方を獲得しているという結果には変わりない。ブランクが何年あればネイティブでなくなるのだろう。というか、結局のところネイティブというのは最初に何語をインプットしたかでなく、赤ん坊のうちに何語をインプットしたかの問題でしかないということが分かる
17時間前
serenarbazard seren arbazard
赤ん坊にフランス語を教えて1秒後にアルカを教えた場合、誰もがネイティブかつバイリンガルと認めるだろう。しかしブランクが1秒でなく10年だったらバイリンガルだがネイティブでないと言うだろう。さて、いったいそこに何の差があろうか。10年ブランクがあるだけで、結局2種類の――
17時間前
serenarbazard seren arbazard
結論は同じ。つまり、フランス語を先に教えてアルカを後から教えても同じく2種類の切り分け方を獲得する。そう、結論は同じ。ではここで考えてみよう。フランス語を教えてからアルカを教えるまでどれだけのブランクがあればネイティブでなくなるのだ?
17時間前
serenarbazard seren arbazard
先にフランス語を教えた場合、frèreをそのまま受け入れる。その後アルカを教えるとalserとaruujはfrèreが分化したものなのだなと認識した上で受け入れる。過程が前後逆になっているが、獲得するのはいずれも2種類の切り分け方だ。順序は違うが結論は同じ。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
フランス語ネイティブはfrèreをfrèreのまま受け入れる。しあはalserとaruujのことだと認識してから受け入れる。こうして2種類の切り分け方を獲得する。ここで重要なのはその順序に意味があるかだ。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
後から植えつけたフランス語は最初に植えつけたアルカのせいで世界の切り分けがすんなりと行われない。例えばfrèreをフランス語ネイティブはfrèreのまま受け入れるが、しあはアルカの切り分け方のせいで兄か弟か気になり、frèreはalserとaruujの両方を意味するものと認識する
17時間前
serenarbazard seren arbazard
最初にアルカを植えつけると、彼女は世界をアルカの語法で切り分ける。しかしその後フランス語を教えてバイリンガルにすると、新たにフランス語の語法による世界の切り分けを行う。この過程で複数の切り分け方を習得し、時折両者の切り方が混ざって混乱することがある
17時間前
serenarbazard seren arbazard
が、実際彼女を観察しているとネイティブだから我々ノンネイティブと異なるかというと、さほど異なっているようには見えない。例えば先にフランス語を教えてその次にアルカを教えたとしても、現状と大差なかったように思われる。つまり最初に教えた言語がそこまで決定的な影響力を持つわけではない
17時間前
serenarbazard seren arbazard
最初に植えつけた言語がアルカである人間のことをネイティブというのか?だとしたらしあは特殊な存在になる。世界の最初の切り分けをアルカで行ったという点でネイティブであり、特別である。と考えると赤ん坊から育てることに一定の意味があるように思える。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
バイリンガルで十分というのなら、しあとそれ以外の違いは結局のところ生まれたときにアルカを植えつけたか否かでしかない。要はネイティブかどうかということ。ではネイティブとは何か。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
バイリンガルで十分というのなら、リディアのようなマルチリンガルの人間で十分ということになる。すなわち子供でなく大人でもよいということになる。ということはアシェット関連でなくネットで鍛えたユーザーでもよいということになる。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
つまり、純ネイティブは理論上は可能だが現実的社会的には事実上不可能ということだ。となると結局バイリンガルになる。で、バイリンガルでいいなら別にゼロ歳から自分の子供を育ててアルカを埋め込まなくともいいという結論になる。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
日本語の学問を教えるということは、日本語を教えるということに他ならない。この時点で純粋なネイティブを作ることは不可能だ。就職のことを考えなければ可能かもしれない。しかしその場合だと自分としか意思疎通できない人間を生むことになる。ふつうに考えて責任取れないだろう。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
それは明らかに無理だろう。まず自分の精神が持たない。それに計算や読み書きは何語で教えればいい?日本語の計算や読み書きを教えないと将来その子は就職できない。アルカには読み書きも計算もある。でもそれを教えても就職には繋がらない。結局日本語での学問を教える必要がある。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
僕が子供を幽閉して、アルカだけをしゃべり続ける。そんなことが可能か。まず僕がアルカだけを喋るということが起こりえない。母語が日本語で日本に住んでいるのだから。子供を幽閉しているということは24時間一緒にいるというわけで、閉じた部屋でひたすらアルカだけを喋り続けることなどできるか?
17時間前
serenarbazard seren arbazard
リディアの家は共通となる母語がない。だからアルカはある程度需要がある。少なくともあの家庭内では。でも僕が日本で子供を育てたら、家の内外で日本語が共通語だから、アルカの需要は一切ない。
17時間前
serenarbazard seren arbazard
アルカでネイティブを作ることはできる。でも、アルカオンリーで一生を送らせることはできない。閉鎖的に育てれば可能だが、それは虐待だ。そもそも親が10年も20年も付きっきりで閉鎖的に育てるのは無理だし、僕だったらそんなことはしたくない。ここからは例えばの話――
17時間前
serenarbazard seren arbazard
しあがアルカを話している。でも僕は将来のことを考えてフランス語を話してほしいと思っている。だけどそれだとネイティブの意味がないとリディアは言う。僕はバイリンガルで十分だと思う。するとリディアは「だったら自分の子でなくてもいいし、私達大人でもネットユーザーでもいいよね」と言う。
18時間前
serenarbazard seren arbazard
子供、老人、弱い者に強く出れない。ゆえに娘を叱るのも苦手だ。「だめだよ、しあ」くらいしか言えない。むっちゃ甘い言い方で。一方リディアはスパーンとひっぱたく。躊躇なく。でも教育的にはリディアのほうが正しい。結果的に娘は僕の前では調子に乗るが、おしなべて良い子になった。
18時間前
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