telx
[名詞]教育、教養
[類音]tels
[レベル]
14:制:tolxの対だが、意味的にあまり対だと意識されないので残した。
[文化]
・家庭教育と学校教育

アルバザードで教育というと家庭と学校の2場面に大別される。アルバザード人は3歳になる年(2歳)から学校に行くので、学校教育が子供に影響を与えるウェイトは大きい。
アルバザードは多文化社会なため、各家庭ごとに教育方針が異なる。総じて言えることと言えば、親が学校教育を経ているので、学校でやるような教育を家庭でもしがちということが挙げられる。

では学校教育はどのようなものかというと、それは生徒の家庭ごとに合わせたものではなく、各学校の教育方針に基づいたものであり、親は教育方針を見てどこの学校に通わせるか決める。
ただ実際にはいちいち学校の教育方針を見て学校を選ぶという家庭は少ない。ごく一部の上流階級だけがそういったことをする。たいていは公立の学校に行き、manakaまではよほどの学力がない限りは最寄りの学校に通う。この辺りは日本と同じである。

学校教育は学校ごとに方針が異なるが、おおまかなところでは国レベルないし州レベルで一致している。
アルバザードの学校において総じて言えることは、徳育>知育>体育の順で注力するということである。特に、学力が上の学校ほど徳育にも熱心である。

アルバザードの学校は日本と異なり、学科の勉強をするところというイメージよりも、人間としての勉強をするところというイメージである。
つまり、学力だけでなく、人間性を鍛えることが重要となる。

・日本と異なる授業体系

日本はいわゆる詰め込み式の教育をしており、ゆとり教育においてもその原理は変わらない。
日本の教育の原理は教師から生徒への一方通行な知識の伝授である。
対して個人主義で言葉の力を重視するアルバザードでは、自分の考えを自分の言葉できちんと説明し、等身大でありのまま主張することが求められる。
このため、アルバザードの授業は双方向性があり、基本的に対話式である。教師は生徒に一方的に物事を教えるのではなく、生徒に意見や考えを述べさせ、対話の中で授業を形成していく。
数学のような科目ですら、インタラクティブに授業が進んでいく。例えばある公式を教える際、日本では公式の証明を教師が実演し、暗記を要求する。アルバザードでは、卑近な例を取ってそこから公式を生徒に帰納させ自解させるようなやり方を取る。最初からいきなり公式を見せない。卑近な例を取ってそこから式を一般化させ、公式を帰納させる。つまり、自分たちで考えさせる。この間、生徒たちは黙って聞いているのではなく、周りの生徒と相談しあい、教師に質問をしつつ、公式を練りあげていく。
公式を提示して覚えろというのではなく、どうしてこういう公式があるのか、どうしてこういう公式になるのかなど、「なぜ」かを考えさせる。こうして自分たちで導出した公式というのは忘れにくい。
日本のように詰め込み式でとにかく覚えろというスタンスだと一見時間はかからないが、本当にその公式のなんたるかを理解しているわけではないので、すぐに忘れてしまい、復習で二度手間三度手間になってしまう。アルバザードの場合、よくよく理解させるので、忘れてしまうということが少ない。
日本では途中式を重視しないが、アルバザードではどうしてその答えになったのかを異様に気にする。ひとつの式を展開したことについてすら、どうしてそこで展開したのか、そこで展開する意味は何か、何のためにそこで展開したのか、そこで展開するメリットは何かなど、細かく途中式を分析する。余分で冗長な途中式はないか、もう少し合理化できないか、逆に過合理で他人が見たときに分かりにくい説明不足な途中式になっていないかなど、細かく見ていく。
そう、日本だと数学は詰将棋のように最短手が美しいとされるが、アルバザードだと、数学は言葉と考えられており、最短手は舌足らずと考えられている。美しい数学とは説明が過不足なく、より多くの人にとって分かりやすく無駄がないものを指す。最短手は機械人間の言葉としては優秀だが、人間の言葉としては劣っていると考えられている。
アルバザード人は自分の言葉で自分の考えを他人に伝えるということを重視している。説明不足だと相手は分かってくれないし、相手に腹芸を強いて多解釈や誤解を生じかねない。かといって冗長でも相手は時間を無駄に思って聞いてくれないし、相手の時間を過度に奪うことは失礼だと考えられているので、過不足ない説明が求められる。
その考え方が国語だけでなく数学にも及んでおり、最短手よりも過不足のない親切な教材のような相手の理解を促進させるような相手のことを考えたコミュニケーション力の高いやり方のほうが好まれるというわけである。

アルバザードの教師はとにかく「なぜだ?」を連呼する。生徒はそれを必死に考える。逆に生徒も疑問を持ったら「なぜだ?」を教師に浴びせる。教師は説明責任があり、過不足ない分かりやすい表現で生徒に説明する必要がある。このため、教師という職は日本よりも難易度が高く、必然的に教師の質は高く、社会的地位も高い。

アルバザードでは対話式の授業が大半で、教師が主に喋ることは日本と同様だが、教師は一方通行で知識を与えるものというよりは、ディベートの司会者的な存在である。
生徒同士も活発に議論を行い、考察をし、お題である「なぜか」について考える。こういう教育は非常に回りくどく、詰め込み式教育に比べて問題数を捌けない。しかしこういう教育は忘れにくく、また、問題の本質を生徒は理解しているので、新しい問題を見たときに解き方を自解することがしばしばある。

・アルバザード式教育が生まれた現実の背景

実は日本でも頭の良い生徒というのは個人的にこういう学習法をしていることが多い。
例えばセレン自身中学時代に英語や数学などで学年一位を取っており、偏差値も70を越えていたが、集中して勉強した記憶は中3の数ヶ月、しかも進研ゼミを使って自力でやったことしかない。
セレンは公式などをそのまま覚えることはなく、なぜこういう公式になるのだろうとか、どうやったら公式を過去の偉人と同じく発見できるのだろうと考え、公式の本質を理解するようにしていた。英語でも同じで、「なぜこの構文を取るのだろう。この構文を取ることにどのような合理性やメリットがあるのか。英語らしい構文とはなんなのか」といったことを考えながら勉強していた。単語を覚える際ですら、「なぜこの単語はこういうのだろう。語源は何なのだろう」と考え、常に「なぜか」を考えていた。
その結果、上辺だけの勉強でなく、物事の本質を理解する学習法になった。この方法だと一度理解したことは忘れにくいため、二度手間がなかったし、一つひとつの知識が組み合わさって新しい知識になり、未修事項についても自分で「もしかしてこういう公式があるのではないか」とか「もしかしてこのような英語表現が適切なのではないか」などといった予想が立てられるようになった。
周りの子供は日本式の詰め込み教育をしており、塾通いと学校で忙しそうにしていたが、セレンは塾も殆ど行かず、中3になったら教師とケンカして辞めてしまったので、殆ど勉強していない。進研ゼミも春の数ヶ月頑張っただけで、それ以降は本屋で自分で教材を買って気が向いたときにやる程度であった。受験シーズンになると殆ど勉強せず幼馴染と夜中まで自転車で遊びに出たり、リディアたちとつるんでいたりした。受験日の前日には新作のゲームを買って一切勉強しないという怠惰ぶりだった。
従って時間的には人の何分の一も勉強していないのだが、普段から自転車に乗りながら「三平方の定理はなぜ成立するのか」など、一々学問的な疑問を興味本位で自問自答しており、物事について「なぜか」だけは考え続けた。
その結果、偏差値70以上のクラスに進学したので、恐らくこの「なぜか」を考える学習法というのは、一見遠回りでも、最終的には詰め込み式教育より短い時間で深く学習できるのではないかという考えに至った。それで理想的な学習方法としてアルバザードの教育方法に採用した。

・アルバザード式は底辺には適用できない

その後セレンは塾等で教師をすることになるが、1000人近くの生徒を見てきて感じたことは、頭の良い子はアルバザード式で勝手にやってしまうということだった。
たまに詰め込み式を要領よくやる子もいたが、そういう生徒はたいてい地頭力がいいというよりはよくできた機械という印象だった。
共通してそういう生徒に言えるのは、学問自体に興味がなく、課題として勉強をこなしているので、テストに関係ないトリビア的な知識を与えてもつまらなそうにしているということだった。
セレンはトリビアをたくさん仕入れて、そういった知識を組み合わせて応用することで未修事項の予測をしていたが、この手の生徒は学問に興味がないため、テストに直接関係のある知識以外はどうでもいいと思っていて、興味を示さない。機械的に要領よく詰め込み式教育に適応した子供は、そういう手合いが多い。応用力がないので、この手の生徒は教えられたお勉強以外は苦手である。
また、しばしばこの手合いの人間にはコミュ障な機械人間か、人を見下したような態度の者が多い。これはなぜか分からないが、1000人近くの生徒を教育してきて経験的に知っていることである。
セレンは「無駄な知識などない。知識は必ずいつかどこかで繋がる」がモットーだった。テストに出る内容にしか教師の言葉に耳を貸さないタイプは目先のことにしか目が行っていない愚か者である。
特に女にこのタイプが多い。女生徒を見ていてしばしば感じたが、女はテストという目先の現実しか見ず、学問という高尚なレベルにまでは目を向けない。男子生徒のほうがトリビアを面白がって聞こうとする傾向にある。学問に対する意欲があるのだ。女は目先の現実、半径3m以内の生活にしか目を向けない。高尚さや学問の追求をする女は男に比べてレアである。その結果、セレンは平均的に女は低俗でくだらない生き物だと考えるようになった。もちろん1000人近くの生徒を教えてきた経験からの平均的な話であり、個人レベルではリディアや紫亞のような本当に頭の良い女がいることも分かっている。
さて、本当に頭の良い人間は、トリビアでもなんでもたくさん吸収し、それを自分の力で組み合わせて応用し、新たな知識に結びつける。それが創造性のある賢い人間で、アルバザードで上層部に行くような人間はたいていこのタイプである。

教師をしていて、アルバザード式で自習する生徒が極稀にいるのだが、そういう人間はたいてい天才肌で、しばしば興味のないことは一切学習せず、興味のあることは異常に高得点を取ることが多い。たいていそういう学生は成績が偏っているのだが、オールラウンダーでできる生徒も極々稀にいる。

また、教師をしていてセレンはあることに気付いた。それは、アルバザード式の教育は誰にでも適応できるものではないということである。
頭の悪い人間というのはどうしても存在する。彼らに「なぜか」を考えさせようとしようものなら、いくら時間があっても足りない。どれだけ言っても理解せず、上辺しか理解しないのですぐ忘れる。底辺の学生というのはしばしばそうだ。
このような人間には詰め込み式というかパターンプラクティスが向く。アルバザード式は必ずしも万人にとって好都合ではない。地頭力が悪い人間には、むしろ考えさせると余計混乱させてしまうだけなので、「いいかお前ら、とにかくこういう問題が出たら何も考えなくていいからこう解け」とパターンプラクティスをさせるのが向いている。
要するに工場で単純作業をする底辺の人間と同じであり、こういう学生は「いいかこのベルトコンベアにこれが流れてきたらこれを乗せろ」というような単純作業のパターンプラクティスしかできないし、それにしか向いていない。

アルバザードもそこら辺の事情を把握しており、下の学校ではパターンプラクティスの詰め込み学習が多い。上に行くほどアルバザード式学習が多くなる。
日本のように詰め込み式で物事の本質を考えない人間は、いくらお勉強ができても、東大には行けるかもしれないが、アルナ大には入れない。逆にアルナ大の人間は東大にも入れる。

・徳育の重視

上で述べたように、アルバザードでは徳育を重視している。では具体的にどのように徳育を施すのか。
家庭や学校で何が正義かということを子供は教わる。子供の頃は親や教師の洗脳を受ける。子供の頃はそれでいい。ただ、成長するにつれて、自分なりの正義感を持つように自立させられる。
自分の目で社会を見て何が正義であるかを考え、それまでに教育された知識を駆使して自分なりの正義感を組み立てる。

アルバザードでは人徳がないと上の学校や会社に入れない。これは日本と決定的に異なる点である。アルバザード人はお勉強ができるだけの機械人間や欠陥人間に上層部に入ってきてほしくないと考えている。
コミュ障で勉強しかできない東大生でも日本ではしばしば良い会社に入って正社員として高い地位に甘んじられるが、アルバザードではそういうお勉強しかできない人間は職人と同レベルに見られる。アルバザードでは職人の地位は高いが、それでも社会の上層部には食い込まない。つまりアルバザードではお勉強しかできない人間は職人扱いされ、生きる機械のように扱われ、社会の上層部には行けない。
学力だけ高く自分の正義感や人徳を持ち合わせない人間は職人扱いされ、アルナ大のような名門校には入れない。代わりに、できる勉強の分野に合った専門学校に入り、そこから企業の研究開発職などに就く。名門大学卒でなく専門学校卒なので、日本よりも社会的地位は低く見られる。要するにアルバザードではお勉強しかできない人間は機械人間として歯車のように黙って働けとしか思われないわけである。

なぜそのような冷遇があるのかというと、それはアルバザードが徳育を重視しているためである。
勉強ができても人間性を兼ね揃えていない人間が社会の上層に行き国を動かすようなことがあっては遠からず国が滅ぶと考えられているからである。日本が好例であろう。

・人徳はどう評価するのか

学力テストと異なり、人徳は評価しづらい。どう点数を付けるのか。
これこそ教師の出番である。アルバザードは上で述べたように対話式の授業なので、教師が生徒一人ひとりとコミュニケーションを取る機会が多い。生徒と深く関わるため、生徒の人間性を把握できる。ひねくれてないか、相槌が打ててコミュニケーションが取れるか、他人の感情を無視して我利ばかり求めないか、協調的か、危険思想はないか、動物や同級生に対する蔑視や虐待の兆候はないかなど、その生徒個人の人間性を間近で見て取れる。
そうした対話式の授業を通じて教師は生徒の人間性を評価する。むろん教師も人間なので好き嫌いがあるから、公平な評価は約束されない。しかしアルバザードでも各科目ごとに専門の教師が教鞭をとるため、一人の生徒の人間性を各教科の教師それぞれが評価することになる。そのため贔屓があっても複数人が評価するので評価は平均化され、公平な評価が期待できる。
当然子供は教師に媚びを売るようになるが、教師は何千と生徒を見てきているので、そのような子供だましには乗らない。媚びを売るような態度は卑怯とみなされ、評価はむしろ下がる。

日本でも内申点という評価はあるが、人間性というよりは授業をいかにまじめに受けているかを評価されることが多い。
アルバザードの場合は対話を通して社会性に問題がないかなど、人間性を見られている。もちろん日本のように真面目で積極的で意欲的かといった項目も見られているが、アルバザードでは日本の内申点よりも広く人間性そのものが評価されている。

いくら学力が高くても人間性を伴っていない人間は上の学校には行けない。
たとえテストの点数が100点でも、例えば人を小馬鹿にしたような性格の悪い人間が上の学校に行ってゆくゆく国を動かしていくなどということがあってはならないと考えられている。そういう性格に問題のある人間が社会の上に立って国を動かしていくと、長期的に見て国も政治も経済も腐っていくためである。
アルバザードでしばしば上に行く人間というのは、学力はもちろんあり、それでいて人間性が伴っている者である。他人のことを考え、利他的に行動できるか。機械人間のような職人ではなく、きちんと自分の言葉で自分の考えを表現し、人に伝えることができるか。精神が安定していてメンタルに異常がないか。――などなど、そういった人間性の問題をクリアした人間だけが社会の上層部に行くことができる。

・徳育教育とアルバザード式「なぜ」学習の歴史

徳育教育とアルバザード式「なぜ」学習が流行ったのはsm初期の学校建設のころと、rdでアシェットがリーザの指導のもと教育改革を行ったときと、vlでミロクが旧革命を起こしたときと、ljでセレンが革命を起こしたときの4回である。
その間は時折気が抜けて徳育の重要性が失われたり詰め込み式教育が行われたりして、日本と同じような状況になったことがある。
ただ、どの時代においても多くの上層部や学者は「なぜか」を考える学習法を実践してきた。徳育は時代によっては日本と同じく失われたこともあった。特にalでモンスターペアレントが現れて教師の権限が抑圧された頃が最悪だった。

・年齢ごとの教育

アルバザード人は一般に子供の年齢に応じて次のような教育を施す。

5歳:才能を開花させるような訓練を始める。一流ピアニストだスケーターだというのは大体この時期から始めることが多い。5歳まではその子に何が合うのか見極める期間である。日本だと2歳くらいから習い事をさせる親もいる(アルバザードにもいるにはいるが)、2歳くらいだとその子の自我も確立しておらず、適性も分からない。5歳くらいになってくるとおおまかその子がどんな性格の子か分かる。そこで子供に合った一生ものの技能を習得させようとする。が、しばしば思春期になると子供が自分の意思で方向性を転向してしまうこともある。
10歳:使命を与える。これは歴史的にリーザ、セレン、ミロクなど、10歳で使命を与えられ全うしてきた偉人が多いため、アルバザード人は10歳というのは偉人にとって自分の一生の使命を与えられる時期だと考えている。凡庸な者は使命を与えてもこなせず、転向してしまう。使命を与えるということは幼少期の親から至れり尽くせりを受けていた時代が終わり、徐々に自立を促される時期でもある。
12歳:自立の時期。思春期の開始で、ここからmaltになる。maltになると自立を促され、親からの庇護及び束縛が一気に緩まる。12歳になるまでアルバザード人の親は子供を動物のように扱い、支配的に育てるが、12歳になると個性や子供自身の意思を尊重するようになる。子供のうちは動物と同じで適正な判断ができないと考えられているため、親が価値観から正義感から着るものに至るまでどうあるべきかいちいち手塩にかけて世話してやる。また、12歳になるまでは子供を猫のように可愛がり、スキンシップも非常に多い。子が親に逆らうことは許されず、親は必要に応じて言葉だけでなく折檻して教育しても良い。その代わり親は子供にあらゆることを手取り足取り教え、互いにベタベタとくっついて濃厚なスキンシップを取り、親は子を無償の愛で可愛がる。それが12歳になるとなくなり、スキンシップは減り、親から与えられる無償のサービスも減り、子供は自分の意思で考え動くことを要求されるようになる。親との接点は徐々に減っていき、アルバザード人本来の個人主義になっていく。基本的にこの時期になると日本人から見てとたんにアルバザード人の親は放任主義に転向したかのように見える。要は動物の子離れのようなもので、それがこの国でははっきりした形で現れるということである。
15歳:試練が与えられる。これは神話で偉人たちが15歳くらいに何らかの試練を与えられてきたことが背景にある。子供は更に大人に近付くための試練を与えられ、それを乗り越える必要がある。親からの自立圧力も更に高まり、親との接点も減る。親は何かあったときのアドバイザー的な役割でしかなくなる。子供が負う家事手伝いの領分も増え、自立を促される。
20歳:成人し、子供は親から完全に離れ、親の支配から完全に抜け、個人としての責任を負う。子供が20歳になれば子供が何をしても親には一切関係がなくなる。親とは個人対個人の付き合いをし、支配関係はなくなる。むしろ親が後に老いれば子が親を扶養し、子が親を支配する関係に逆転することもある。

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