Copyright (C) 2011 人工言語学研究会 All Rights Reserved.

人工言語学

Contents Menu


序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

エスペラントの文化と欠点と課題

 何度も言ってきたように、文化と風土は言語に影響を与える。エスペラントは固有の文化と風土を持たないため、各話者の生まれ育った文化や風土の影響を受ける。
 各話者の生まれ育った文化や風土は話者ごとに異なるため、話者ごとに異なった影響がエスペラントという言語に与えられる。
 結果、背景の異なる文化や風土を持った話者間でエスペラントを使うと、意思疎通に齟齬をきたすことがある。
 たいていそれらは会話が成立しなくなるほどのものではないため、大きな問題にはならず、ほとんどの場合気付かずに流される。あるいは立場の弱いアジア人が立場の強い欧米人の文化や風土に合わせたり、マイノリティがマジョリティの文化や風土に合わせたりして齟齬をなくそうとする。
 齟齬に気付かないというのは満足にコミュニケーションが行われていないということなので論外として、後者の場合はどうか。エスペラントは国際補助語なので、欧米人やマジョリティに擦り寄るのは国際補助語として不平等で不適切である。
 つまりエスペラントを使う限り、意思疎通の齟齬を無視するか、強者に合わせて不平等にして国際補助語としての理念を失うかの二択である。
 この二択はエスペランティストにとってどちらも面白くないものなので、エスペランティストはふつう文化と風土の問題について考えないようにするし、指摘されてもごまかしたり抗弁したり逃げたりする傾向にある。

 抗弁の中に一理あるものがある。それは「エスペラントにも固有の文化がある」という内容である。これは一考に値する。
 エスペラントにはエスペラント独特の、英語などとは無関係な文化的表現があり、これはエスペラント固有の文化に他ならないという内容である。
 確かにエスペラントには固有の文化と言える表現が存在する。

 ヴォラピュクという人工言語を知っているだろうか。1879年から1880年にドイツのシュライヤーによって作られた人工言語である。エスペラントよりも早く生まれ、それなりに人気を博した。
 エスペラントは1887年生まれで、これらは同時代のライバル同士である。これらがライバル同士で、エスペラントがヴォラピュクのことを意識していたことは、エスペラントを見れば分かる。
 エスペラントでは「ちんぷんかんぷん」のことをヴォラピュク(Volapuko)という。英語のIt's all Greek to me.と同じ発想である。ローマ人にとってギリシャ語が意味不明だったように、エスペランティストにとってヴォラピュクは意味不明だったのである。
 他人が苦労して作ったものをろくに学びもせず「ちんぷんかんぷん」呼ばわりするのは確かに幼稚だし下衆の極みだが、ともあれエスペラントではヴォラピュクといえば「ちんぷんかんぷん」という意味になる。
 これは狭い人工言語界の中での鬩ぎ合いから生まれたエスペラント固有の表現で、英語などの自然言語にはない。よってエスペラント固有の文化と言える。

 そう、エスペラント固有の文化というのは確かに存在するのだ。では何が欠点か。それはエスペラント固有の文化が微少だということである。簡単にいえば、少なすぎるのだ。
 ザメンホフはエスペラントという人工言語用にアポステリオリでもアプリオリでもどちらでもいいからいずれにせよ固有の人工文化と人工風土、更に言えば人工語法を設定すべきだった。
 しかし彼は人工言語しか作らなかったので、言語に影響を与える文化・風土・語法については未設定だった。なので話者ごとに異なる文化・風土・語法を使ったり、弱者が強者に合わせるというような不平等に陥っているのである。

 だがそれもやむを得ないだろう。ザメンホフの時代はちょうど近代言語学の祖であるソシュールの時代とかぶっている。
 ザメンホフはエスペラントを作る際に現代の言語学に即して人工言語を制作することができなかった。
 その上彼の時代は言語と思考の関連性について述べたサピア=ウォーフの仮説が出るより前のことである。
 彼が言語に対する文化・風土・語法の重要性を知らず、言語が思考に与える影響について知らなかったのも無理はない。まして彼は言語学専攻でもない眼医者だ。できてなくて当然だったろう。

 ただ問題は現在生きているエスペランティストの怠惰である。
 彼らは現代言語学や文化人類学を用いてエスペラントに固有の人工文化・人工風土・人工語法を設定し、人工言語としてのエスペラントを完成すべきである。
 文化や風土や語法がいかに言語にとって不可分な成分であるかということを自覚し、これらの設定を行わない限り、エスペラントという人工言語は言葉として不完全な存在で、英語や日本語といった自然言語のように使うことはできない。いつまでも意思疎通できたつもりになったまま昇華できない。発生している齟齬を見ないふりしたり、齟齬が生じないように相手の視座に合わせているようでは、人工言語としてのエスペラントのクオリティは低い。

 エスペラントはもっとも有名な人工言語だが、文化・風土・語法といった言語と不可分な要素が欠けているため、人工言語としての質は低い。早急にエスペランティストは固有の文化・風土・語法を設定すべきである。これが課題である。
 ただ、文化と風土については設定することで逆にすべての民族にとって平等でなくなるため、国際補助語として成立しなくなる恐れがあり、諸刃の剣でもある。だからだろう、エスペランティストがこの事実に気付いても見なかったことにしてしまうのは。
 もっとも、文化と風土については別記した「漂白」という方法を使えばどうにかなるが、せめて語法はきちんと設定すべきだろう。

 恐ろしいのは、こうした欠陥があるにもかかわらず、数の暴力でエスペラントが人工言語界で最も有名な言語として幅を利かせていることである。売れている物が一番良いとは限らないとはよく言うが、まさにその好例である。
 このままエスペラントが何も改善せずに数の暴力を振るい続ければ、人工言語史がとっくに迎えている転換点が周知されないまま、時間だけが流れていってしまうことだろう。筆者には老害がのさばる未来が見えており、人類の進歩が阻止されている状態が非常に残念でならない。
 筆者自身エスペランティストなので、この状況を打破できるのは自分なのかなとも思っているが、なにぶん本分のアルカが忙しくて手が回らない。
 エスペラントが改善できないのであれば、世界で初めて人工文化・人工風土・人工語法をアプリオリで作り込んだ芸術言語のアルカを歴史の転換点として前面に出せばいいのだが、アルカは小集団の中で使われる芸術言語として設計されたものであって脚光を浴びるものではないし、陰日向に咲く花でありたいと思っているので難しいと思う。

Tweet