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人工言語学

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序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

言語と文化が乖離することによる違和感と齟齬

 日本人は何かしら言葉を思い出せそうで思い出せないとき、喉に手を当てて「ここまで出かかってるんだけどなぁ」と言う。
 一方、英語ではon the tip of one's tongue(舌の上にある)と表現する。

 言語と非言語(ジェスチャーなど)は別物なので、日本人が英語を話すとき、非言語もアメリカ人に合わせるとは限らない。
 英語を喋りながら非言語などの文化面は日本のままということはよく見られ、I'm sorryやThank youと言いながらつい頭を下げてしまうのは珍しいことではない。

 従って、on the tip of my tongueと言いながら普段の癖で喉に手を当ててしまうことも十分ありうる。
 日本人が喉に手を当てるという非言語の文化は「ここまで出かかっている」という言語から来ている。
 on the tip of my tongueと言いながら喉に手を当てる場合、言語と非言語の文化が乖離している。

 これをアメリカ人が見たときにどう思うだろうか。
 ほとんどのアメリカ人はそのような瑣末なことを単に見過ごすだろうが、一部の注意深い者は「なぜ『舌の上にある』と言いながら喉を押さえているんだろう、この日本人は……?」と訝る。
 つまり言語と非言語の文化が一致していないことに対して違和感を感じるということである。非言語の文化は文化の一種なので、言語と文化が乖離することで違和感が生じるということである。

 また、言語と文化が不一致な場合、意思疎通に齟齬をきたすこともある。
 コナン=ドイルの"The Sign of Four"に次のような場面がある。She put her hand to her throat, and a choking sob cut short the sentence(彼女は喉に手を当てた。こみ上げてくるすすり泣きで言葉が途切れた)
 イギリスでは喉に手を当てるのは、このように感極まったときに行われる仕草で、主に女性によるものである。
 従って、日本人がこのことを知らずに英語で"It's on the tip of my tongue"と言いながら喉を押さえたら、イギリス人から見て「この人は思い出せないことがそんなに辛いのだろうか」と誤解される可能性が十分にある。
 こちらはただ「ここまで出かかっている」という日本語の習慣に則って喉を押さえているだけで、単に思い出せなくてもやもやした気持ちを抱えているだけなのに、それがとても辛いとか、感情が昂ぶっているかのように思われてしまいうるため、意思疎通に齟齬が生じてしまう。

 こういった齟齬はとても小さいことで、齟齬があるからといって会話が成立しなくなるほどのものではない。
 だが気付かないほど小さいことだからこそ、見逃され齟齬を生んでしまうのが怖いところである。
 言語と文化が乖離していることでお互い誤解をしあい、きちんと自分の言いたいことが相手に伝わらないことは確かである。
 もっとも、言語と文化の乖離によって意思疎通に齟齬が生じても、通常は会話が成立しなくなるほどのものではないから、普段外国人と会話している分にはほとんど齟齬に気付かないで終わる。
 たまになんとなく違和感を感じたとしても、まぁいいかで済ましてしまうことが多い。しかし言語と文化の乖離による齟齬は確実に生じているのである。

 人工言語にも固有の人工文化がある。それがアポステリオリなのか未定義なのかアプリオリなのかは別として、人工文化が存在する。100%日本文化のコピーだとしてもアポステリオリの人工文化である。
 その人工言語の話者が同じ人工文化を共有していない限り、話者間で言語と文化の乖離が生じ、それにより違和感や齟齬が生じることになる。
 この違和感や齟齬を生じさせず日本人が日本人と会話するようにスムーズにその人工言語を使わせるには、話者間で同じ人工文化を共有する必要がある。

 同じ人工文化を共有する必要があるということは、逆に言えば人工文化をしっかり定義しなければならないということである。
 エスペラントのように作者が人工文化を定義しなかった人工言語では上記のような違和感や齟齬が絶えない。
 エスペラントはアポステリオリでもアプリオリでもいいからとにかく未定義の人工文化から脱却し、定義済みの揺るぎない人工文化を持ち、それを話者間で共有する必要がある。そうでなければ違和感や齟齬はいつまでも消えない。
 多くのエスペランティストは意思疎通に齟齬をきたしていないと思っているが、それは単に齟齬に気付いていないか、譲歩しあって互いの文化に合わせたりしているだけである。

 自然言語の場合、それを使う民族が構築済みの自然文化を必ず持っているから、話者はその民族の文化に合わせれば齟齬は生じない。
 だが人工言語は作られたものなので自然文化がないため、人工言語を用意する必要がある。それが未定義の場合、現状のエスペラントのように違和感や齟齬が生じたままになってしまうため、アポステリオリでもアプリオリでもいいので定義された人工文化が必要になる。それがない限りいつまで経っても違和感や齟齬は消えない。
 ほとんどのエスペランティストは人工文化の未定義問題について気付いていないかあえて無視している。違和感や齟齬があっても気付かないか、なかったことにしている。だがそれではただのごまかしだ。事実は事実と認めた上で対処しなければならない。

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