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人工言語学

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序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

なぜ言語と世界を創ったのか

 人工言語や人工世界を創っても、ほとんどの人は途中で投げ出してしまう。
 なぜかというと、そこまで言語や世界を作ることに使命感や必要性を感じていないからだろう。これが生活の糧なら嫌々でも続けるだろう。

 途中で投げ出さなかった人というと、例えばイェフダー、セレン、トールキン、ザメンホフなどがいる。
 彼らに共通しているのは、何らかの使命感や意志ではなかろうか。
 人工言語の制作作業の大半は、地味で苦痛で、修行のようなものだ。
 お金にも名誉にもならず、世間からはむしろ嘲笑される。共感者はほとんどいないし、どれだけ精巧に作り込んでも、その価値を理解してくれる人はまずいない。
 徒労である。
 人は徒労と分かっているものに、どれだけの覚悟があれば、人生を捧げられるだろう。
 それでも人生を賭すことができた人だけが、何十年とこの作業を続けることができる。
 それにはやはり使命感などの強い意志が必要なのだと思う。

 ではなぜ彼らは言語や世界を創ったのか。
 その背景は人によって異なるようである。

 ザメンホフは民族紛争を間近で見て経験し、言葉の壁が相互不理解の原因のひとつだと考え、国際補助語の必要性を感じ、エスペラントを創った。
 彼は言葉の壁を崩し、民族の相互理解を促すという使命感のもと、言語を創って広めようとした。
 彼はユダヤ人という被差別民族であったから、なおのこと少年期にはつらい思いをして、その反骨精神であれだけの作品を創ったのだろう。
 彼の原動力は使命感にあると思う。

 トールキンはクリエーターとしての職人魂が強かったのだと思う。
 第一次世界大戦の間、彼は療養中に『失われた物語の書』を書き始めている。これは後に『シルマリルの物語』に統合されることになる。
 今みたいな平和な時代ではない。第一次世界大戦のまっただ中だ。そんな中で作業をし、後に『指輪物語』まで完成させている。
 彼はエルフ語などの人工言語を創っている。自分の創りだした世界にリアリティという息吹を与えたかったのかもしれない。
 彼の場合、クリエーターとしての職人魂が、人工言語という難業を成し遂げさせたのだろう。

 イェフダーはヘブライ語を現代ヘブライ語として復古させたいという強い信念と信仰心を以って言語を創った。
 40年以上も常人では想像を絶するような苦行に耐え、ついには現代ヘブライ語を蘇らせた。
 これを偉業と言わずしてなんと言おうか。
 イェフダーの原動力は信仰心だったに違いない。これもまた使命感の一種である。


 さて、こうして先人たちを見ていると、いずれも何らかの使命感がキーワードになっていたことが分かる。
 では自分たちの原動力はなんだったのだろう。

 自分たち、といっても、実際はアルカはセレンが担当し、カルディアはリディアが担当してきた。
 他の人は大なり小なり影響を与えたけれども、基本的にはアルカはセレンでカルディアはリディアの領分だ。
 では、この二人の原動力はなんだったのだろう。

 アルカは元々仲間内の間で符牒としての需要がそれなりにあった。
 単に意思疎通のツールがほしければ英語で良かったし、実際英語で話すことも多かった。
 もっとも、英語ができないメンバーも仲間内にはいたので、そこは色々言語を切り替えたりして、その場しのぎをしてきた。

 共通語という面で考えればわざわざアルカを作る必要はなく、英語のできない少数の人間に英語を勉強させれば十分だったと思う。
 だがそうしなかったのは、自分たちだけにしか通じない言語を持ち合うことで、仲間意識を強めたかったからだ。
 しかし、果たして言語と世界を担当した二人は、たったそれだけの理由で人生を賭して苦行を続けてきたのだろうか。そうは思えない。

 リディアがカルディアを創ったのは、自分の居場所がほしかったからだ。
 セレンもリディアもアジアとヨーロッパの混血児だ。人種の違う混血児というのは厄介だ。見た目の問題で、地球上のどの国に行っても外人扱いされる。
 子供のころ、しばしば外人扱いを受けて疎外感を覚えた。セレンは大人になってだいぶ見た目が日本人ぽくなるまでたびたび外人扱いをされたし、リディアは大人になってもされ続けている。
 思春期になると、自分の母国はどこなのだろう、自分はいったい何人なのだろうと悩むようになった。地球上のどこにも自分の居場所を見出だせなくなった。
 セレンはオリンピックやサッカーの試合を見ていて日本を当然応援するわけだが、周りが熱中しているときにふと冷めることがある。「俺、どうせ日本が勝っても純粋な日本人じゃないから、100%は喜べないんだよな。日本人の血の分しか喜ぶ資格がないんだよな」と思ってしまい、心の底から応援できなくなる。もちろん自分と血の繋がっているフランスを心の底から応援することもできない。
 こう思うようになったのは、子供の頃、日本チームがサッカーで勝って喜んでいたときに、周りに「お前外人なのに何喜んでんだよ。お前には関係ないだろ」と言われたからだと思う。「あぁ、自分は純粋な日本人じゃないから、日本の勝利を100%喜んではいけないんだ」と思った。「でも、それなら自分はどこのチームを応援すればいいんだろう?」と思った。
 こうして、どこの国のことも心の底から応援できない自分が出来上がった。どこの国に対してもアイデンティティを抱けなくなった。
 リディアも同じような境遇にいたし、アルカを創った人々は皆こういうタイプの人間の集まりだ。

 リディアは混血児の上に引っ込み思案で人付き合いが苦手なこともあって、どこに行っても外人扱いされ、疎まれ、弾かれ、セレンら以外に友達がほとんどおらず、どこの国にも自分の居場所を見つけられずにいた。
 その結果、彼女は空想をした。自分がいても許される世界を創った。
 それがカルディアだった。

 地球上のどこにも居場所がないから、彼女は自分で自分の居場所を創った。
 セレンも同じ人種だったから、その世界に言語を添えた。自分たちのアイデンティティとなる、自分たちだけの言語を。
 それがアルカだった。

 アルカもカルディアも仲間内の需要だけで創られたものではない。
 作り手の孤独が生み出した産物でもある。
 仲間内の需要だけだったら、ここまで作り込みはしなかった。

 なぜアルカとカルディアは異常なまでに作り込まれているのか。
 それは、現実の代替品として創り出されたものだったからだ。
 セレンとリディアは自分の居場所やアイデンティティがほしくて言語と世界を創った。
 それは現実で得られなかったものの代替品だから、現実と見紛うレベルに精巧でなければならなかった。
 そうでなければ自分を納得させることができなかったからだ。
 だからアルカとカルディアは作り込みを重視している。

 アルカとカルディアは埋立地のようなものだ。
 実際には存在しなかった土地を、何もない海の上に作る。そこにビルや道路や家を立てて街を作れば、その街は現実のものになる。
 元は海で何もなかった場所に虚構の土地を何層も重ねていけば、やがてその嘘の塔が積み上がって現実になる。
 積み上げた嘘は現実になる。元は海だった埋立地のように。
 アルカとカルディアは心の埋立地なのだ。
 その街が本物の街であるかのように見せるため、家や道路や店や公園などをリアルに整備していく。
 アルカもカルディアも森羅万象を創造していき、リアルにすることで本物であるかのように見せかける。
 そうして自分の心をその世界に住まわせる。そうして、自分が疎外されない居場所を作る。

 アルカとカルディアを生み出した原動力は孤独と疎外感。
 では、使命感はどこに?

 セレンは恋するリディアのために言語を創った。世界を作る彼女に言語を添えるために。これが彼の使命感。
 リディアは恋するセレンのために世界を創った。言語を作る彼に世界を添えるために。これが彼女の使命感。


 また、セレンは20代のころ、アルカがいつの間にかほかの人工言語よりも作り込まれ、特殊化していることに気付いた。
 アルカのような質と量を持った人工言語がこの世にまだないのなら、自分が人工言語史を動かそうと思った。
 人工言語史のひとつの歯車となることで、自分が生きた証を残したかった。これがもう一つの使命感。

 セレンとリディアは自分の作品が他者にどう見られたいかということに関しては、真逆の思いを抱いている。
 セレンはアルカを認めてほしかった。人に存在を認められることでアルカが架空から現実になる気がしたから。
 リディアは逆だった。カルディアを自分たちの中だけの閉じた世界にしたかった。
 その性格の違いが、ネットにおける活動の積極性と消極性の差になっている。

 僕は人工言語は強い使命感がなければ続かないものだと思っている。
 それほどまでに人工言語の作業の大半は難解で退屈で苦痛で、その上見返りがない。
 面白いのは最初のうちだけだ。地道でつらい作業のほうが圧倒的に多い。
 だから強い意志がないと続かないと思っている。

 世の中には人工言語を遊びでやっている人がいる。
 いや、イェフダーや自分らが特殊なのだろう。あそこまで人生を賭して人工言語をやるほうが変わっているのだ。
 むしろ遊びでやっているほうが人工言語界は多いと思う。
 遊びだから楽しくなくなれば止めてしまう。使命感も意志もないから、つらい作業に入って飽きると止めてしまう。
 だから人工言語の99%は途中で投げ出される。
 言葉を創り、最期まで続けられる人は、何らかの強い意志を持った人なのだと思う。

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