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人工言語学

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序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

言語教育は価値観の押し付け

 言語を人に教えるということは、価値観を押し付けることである。
 このことを実感している人間は少ない。

 言語というのは必ずその言語独特の「世界の切り分け方」を持つ。
 例えば日本語は姉と妹を語レベルで区別するが、英語ではどちらも語レベルではsisterである。長幼文化を日本ほど意識しない英語においては文化が言語に影響を与え、姉と妹の区別を語レベルでしない。英語圏の文化が英語という言語による「世界の切り分け方」に影響を与えている。
 つまり文化が言語に影響を与え、言語はそれに応じて独特の世界の切り分けをし、その民族独特な言語的価値観や物の見方が形成されるというわけである。まず文化を形成するための風土があり、そこから文化が生じ、言語に影響を与え、人間の物の見方や価値観といった思考に影響を与える。影響を与える順番としては風土→文化→言語→思考である。

 言語を教えるということは結局その言語固有の世界の切り分け方を教えるということであり、それは価値観の押し付けと同義である。
 例えば英語圏の幼児がsisterという語を覚えたとする。その子にとっては姉も妹もsisterでしかなく、いちいち年上か年下かなどとは考えないのがふつうである。この時点で姉妹を見たときにいちいち年上か年下か考えないのがふつうという物の見方を幼児は押し付けられる。価値観の植え付けである。
 このように、言語を教えることは人にその言語固有の物の見方を押し付けるということである。

 ということは、自分の人工言語を作ってそれを人に使わせるという行為は自分なりの世界の切り分け方という価値観を相手に押し付けることであり、一種の精神支配に当たるものである。
 これはとても怖いことである。自然言語ならその精神支配の責任は民族全体が負うから責任は分散される。しかし人工言語の場合、他人の価値観を形成し支配したことに対する責任は原則作者個人が負うことになる。
 第二言語として人工言語を教えた場合はあまり問題ない。というのもふつう人間は母語の価値観で世界を切り分けているため、第二言語の影響は顕著に価値観に影響を与えないためである。
 問題は母語として子供などに自作言語を教える場合である。この場合は作者個人の世界の切り分け方の影響をもろに学習者個人の世界の切り分け方に与えてしまう。影響というよりほぼ作者の価値観のコピーや植え付けと言っても良い。

 人間は言語を使って思考する。正義や価値観なども条件反射的なものを除いては基本的に言語を土台に形成される。
 母語として人工言語を教えるということは、思考の土台となる言語に多大な影響を与えるということである。つまり言語を介して間接的にその相手の思考や価値観すらも部分的に支配してしまうということである。
 自然言語ならその責任は民族が分散して負うから問題にならないが、人工言語では作者個人がその責任を負う。通常人間はそのような重責に耐えられないし、また、民族レベルでなく作者個人の価値観や世界の切り分け方を別の個人に植えつけることには倫理的な問題も生ずる。実際、筆者の子供は筆者の自作言語の母語話者であるが、筆者はこのような倫理的問題により、子供に母語として自作言語を教えることには反対していた。
 こういった事情から、言語教育は価値観の押し付けであるという事実を、我々人工言語制作者は常に意識しておく必要があると考える。

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