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人工言語学

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序文

論文

高度な作り方

参考文献

人工言語学研究会

完全に他者から独立した自分だけの思考・哲学・芸術を人間が行う唯一の方法

 あるとき筆者が日本人にスポーツ用のボストンバッグを持ってくるよう頼んだ。ところがそのときボストンバッグという名前が思い出せなかった。
 仕方がないので「バッグなんだけど、四角くて、箱型で、前後に長くて、背が低くて、肩から紐をかけて下げるやつで、アディダスとかがよく出してて、スポーツ用品とかよく入れるやつ」と口で説明した。
 ところがそれを聞いた相手が持ってきたのは全然異なるもので、弁当箱を大きくして縦にぶら下げたような形のものだった。
 その後ボストンバッグという名前を思い出し伝えたところ、相手はすぐ理解してボストンバッグを持ってきた。

 このような経験は一度や二度でない。今までの人生の中で何度もあった。だが特にこういった現象に注目しないで今まで生きてきた。
 ただこのとき筆者はふと思った。人間は世界から言語で切り出された概念を優先的に認知するのではないかと。
 情報量的には「ボストンバッグ」という語よりも「バッグなんだけど、四角くて、箱型で、前後に長くて、背が低くて、肩から紐をかけて下げるやつで、アディダスとかがよく出してて、スポーツ用品とかよく入れるやつ」という文のほうが長く多い。にもかかわらず、なぜ前者のほうが通じたのだろうか。このボストンバッグ現象とでもいうべきものの仕組みはどうなっているのだろうか。

 問題のバッグは「ボストンバッグ」という言葉で世界から切り出されている。その名前はある種のタグとなっていて、聞き手は脳内でそのタグを頼りに「あぁ、あのカバンのことか」と理解する。
 「ボストンバッグ」という言葉がなかったらタグがないので、記憶の取っ掛かりがなく、いくら説明しても伝わりにくい。これがボストンバッグ現象の原因だろう。単語にはタグ、すなわちリマインダーとしての機能があるのだ。
 「ボストンバッグ」という言葉がある世界とない世界では世界の見え方が微小だが異なる。「ボストンバッグ」という言葉があれば、優先的に人間はそのカバンを他のカバンから区別して認知し、相手の言っていることを理解し、相手の要求に即座に答えられる。
 言い換えれば、ある概念を表す言葉があるかないかでその言語の話者は世界の認知の仕方が変わる。人間の思考は認知の仕方を反映しているので、結局のところ言語は思考に影響を与えていることになる。

 ところで、よくこういう議論がある。「『もったいない』という単語は日本語独特で、他の多くの言語にはこれにぴったり当てはまる単語がない」と。これをもって言語が思考に影響を与えると述べると、すぐこういう反論が出る。すなわち、「『もったいない』に当たる単語がなくても類似の単語や句で表現するか、あるいは文で説明すればいい。言い換え表現で同じ内容が伝わるなら、その言語独特の世界の切り分け方が思考に影響を与えているわけではない」と。しかしこの反論は誤っている。

 確かに言い換え表現を使えば「もったいない」だろうと何だろうと外国語に翻訳することはできる。しかしその翻訳文は聞き手の中でひとつの概念として確立していない。そして人間というのは概念として確立していないものより概念として確立しているものを優先的に認知するようにできている。
 例えば英語に「もったいない」に当たる単語がないとしよう。このとき「もったいない」という概念は日本人の脳内では概念化され、世界から切り出されているが、アメリカ人の脳内では切り出されていない。無形で未分化な世界は掴みどころがなく、取っ掛かりがない。一方概念化され切り出されたものはそれ自体が際立っていて形がある分掴みやすい。我々は「もったいない」というタグを頼りに無形で未分化な世界から「もったいない」という概念を引っ張りだす。一方そのタグがないアメリカ人にとって「もったいない」という概念を引っ張りだすのは難しい。人間なので同じような気持ちを感じることはできるが、アメリカ人のほうは「もったいない」という言葉がないので一言で言い表せないしっくり来る言葉のないもやもやした気持ちを抱えることになる。

 逆に英語にあって日本語にない単語もある。commitmentなどがそうである。これにはピッタリ当てはまる日本語がなく、「長期にわたって実行するという意思」などという説明的な訳になってしまう。
 日本人が「長期にわたって実行するという意思」という気持ちを持ったとき、それをどういう言葉で表現していいのかしっくり来る言葉が見つからずにもやもやした気持ちを抱えることになる。名前の付けられない意識しづらい形のない掴みどころのない概念として捉え、認知しづらい。
 アメリカ人であれば「あ、それはcommitmentのことだよ」とパシッと一語でしっくり来る単語に当てはめられるが、日本人にはそれができない。
 なので同じ気持ちを抱えたとき、日本人は説明調でしか長々と説明できずしっくり来る言葉のないもやもやした気持ちを抱えることになるが、アメリカ人はパシっと一言で言い表わせてしまうのである。

 何と呼べばよいか分からないもやもやした気持ちは形が掴めないので認知しづらい。逆に一語で表せれば認知しやすい。それが人間の認知というものである。
 ひとつの概念を世界から切り出す際、語>句>節>文の順番でタグ化しやすく認知しやすい。語になっている概念のほうがそうでない概念より認知しやすい。日本人にとっての「もったいない」、アメリカ人にとってのcommitmentがそうである。
 つまり日本語には「もったいない」という概念があるため、日本人は「もったいない」という現象を認知しやすい。一方それに当たる言葉を持たない言語では、その現象を何と呼べばいいのか分からないので、その現象を認知しづらくもやもやした気持ちを抱えてしまう。
 結果的に日本人は「もったいない」という言葉のおかげで、あらゆる現象の中から「もったいない」現象に目を向けやすく意識しやすくなる。一方のアメリカ人は日本人ほどではない。
 「もったいない」のほかに「甘え」も英語化しにくい日本語で、アメリカ人には中々理解できないし、「甘え」の現象を認知しづらい。

 ほかに、人間の体には「丹田」という部位がある。武道をやっている人にはお馴染みの言葉だが、臍下丹田は文字通りへその下にある。その言葉を持つ日本語、かつその言葉を知っている日本人は丹田という部位を意識することができる。
 しかしその言葉を知らない人、またその言葉を持たない英語を使う一般のアメリカ人にとって、その部位は意識に登らない。彼らにも丹田はあるのに、言葉がないという理由でその部位を意識できないのである。
 つまり言語化されてないことが認知されないという事態を招いているわけである。

 要するに人間は世界から言語で切り出された概念を優先的に認知するということである。中でも認知されやすいのは語>句>節>文の順である。
 同じ「もったいない」現象を見ても「もったいない」がある日本人はきちんと「もったいない」と表現できるのに対し、アメリカ人は説明的に述べるか少し意味の違うwasteなどの言葉で代替するかしかない。
 もし「もったいない」をwasteと捉えてしまったら、そのアメリカ人は同じ現象を日本人が見ているようには見ていないことになる。というのも、「もったいない」とwasteは意味の範囲が異なるからである。

 このように、言語には言語ごとに独特の世界の切り分け方があり、人間はその切り分け方を土台に世界を認知し、その認知を土台に思考をする。
 人間は世界から言語で切り出された概念を優先的に認知するが、言語ごとに概念の切り出し方は異なるため、言語によって認知の仕方が変わる。認知は思考の土台なので、結果的に言語は思考に影響を与えるということになる。
 以上から、言語は思考に影響を与えているといえる。


 ということは人工言語を使う際も、その人工言語独特の世界の切り分け方があり、その人工言語独特の認知の仕方があり、その認知の仕方を土台にした思考があることになる。
 言語が思考に影響を与えるのなら、人工言語もまた思考に影響を与える。人工言語によって今現存するどの自然言語を使う民族も持たない固有の思考が可能になるということである。
 
 われわれ人間は母語を持ち、思考は母語の影響から逃れられない。つまり母語の支配から逃れられない。人は押し付けられた母語による思考を義務化される。
 どんなに世の中に抗った思考を持とうと、その思考自体が母語を使う限りその母語を土台とした思考なので、完全に世の中に抗う思考は持てない。
 ところが自作のアプリオリの人工言語を使えば世の中や民族や社会から完全に独立した自分だけの思考・哲学・芸術を展開することができる。
 つまり、人間は自作のアプリオリ人工言語を使うことで初めて純粋な自分自身の思考を持つことができるのである。

 どのような思想家もしょせん自分が作ったわけでない言葉で思考をしている。完全に他者の支配下から逃げた状態で思考することはできず、他者や社会が培った言語に依拠して哲学せざるをえない。
 そういう意味ではあらゆる思想家・哲学者、そして芸術家までもが純粋に自分オリジナルの思考や作品を作ることができないのである。
 これはほとんどの思想家や哲学者や芸術家が気付いていない盲点であろう。彼らはどんなに頑張ろうと自作のアプリオリな人工言語を使って思考しない限りは自分自身の真に自由な精神を持てないのである。そう、言葉の呪いに束縛されているのである。しかも恐ろしいことにほとんどの人間が自分が束縛されていることに気付かないのである。

 筆者は高校時代に全てを疑うデカルトの懐疑論になぞらえ、全てに抗うという思考をしてみた。若い思春期の少年らしく、この世の全てに抗ってみようと考えてみたのである。
 ところがあらゆるものに反抗したところで、その反抗の思考に使っている言語には依存しなければならず、抗うことができないことに気付いた。
 そう、反抗という思考を形成するために必要な言語が出来合いのもので与えられたものである限り、全てに抗うことはできないという事実に気付いたのである。
 デカルトが「今考えている自分の存在だけは疑えない」と考えたように、筆者もまた「抗うという思考をするのに用いている言語にだけは抗えない」と考えたのである。
 そこで、「では自分で作ったアプリオリの人工言語があれば、思考さえも自分で作った言語で行え、すべてに抗うことができる」という考えに至った。人工言語の経験が既にあったことが、その発想にたやすく行き着いた理由であろう。

 人間が純粋に自分自身の思想や作品を作ろうとするなら、自分自身で作り上げたアプリオリな人工言語を作ってそれを思考の基盤とするしかない。
 それができて初めて人類は自分自身の思想や作品を作れるのであって、それができていない者はどこまで行っても自立・独立できていない隷属した精神を持った被支配者である。

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