時詠みの少女
世界は私をいらないと言った。
私はそんな世界はいらないと言った。
授業が終わると私はひとり静かに学校を出た。
誰と話すわけでもない。私だけの帰り道を歩く。
それが日常で、当たり前のことだった。
世界が私を拒絶しているのではない。ただ私が世界を拒絶しているだけ。
鞄をぶら下げながらしばらく通りを歩くと、小さな脇道に入る。
そこは誰もが目にしているのに誰もが気付かない、忘れられた小道。
猫と私と風しか通らない、閑かな袋小路。
日向ぼっこをしている馴染みの白猫に挨拶をして、奥まで進む。
突き当たりには、古びた茶色い骨董品店。
窓ガラス越しにはいくつものアンティーク。
売れてるのを見たことがない。
お客はきっと私だけ。
扉を開けると、きぃっと音がした。
中に入る。ぱたん、と扉が閉まる。
「こんにちは」
店の奥に声を投げかける。少し声が掠れていた。
そういえば、言葉を喋ったのはこれが今日初めてだ。
いや違う。今日も、か。
「いらっしゃい」
奥のカウンターに座っている店主が顔を上げる。店主はこちらを見るや、席を立つ。
「今日は何の気分?」
いつもお茶を淹れてくれる。注文通りのフレーバーを。
「茉莉花で」
「茉莉花、だね」
茶葉をティーポットに入れる音がする。木々がざわめくような綺麗な音。
いつものようにカウンター手前の椅子に座り、鞄を床に置く。
店の中は棚ばかり。時計、食器、玩具、人形、ランプ、オルゴール、本など、色々な物が置いてある。
どれも根の生えた木のように、少しも定位置から動かない。
「どうぞ」
ジャスミンティーがカウンターに置かれる。
「ありがとうございます」
ふたつのカップ。いつものカップ。唯一この店で使われる食器。
「今日も詠むの?」
店主は店の左奥にひっそりと立っている小さな扉を見る。
「もちろんです」
お茶を一啜りすると、馥郁としたジャスミンの香りが口中に広がる。
「ところで、今日はいつもと違って見えるね」
「そうですか」
「何かあったの?」
私は斜め上に目をやる。
「あ、そういえば誕生日でした」
「それはおめでとう」と店主は微笑んだ。
「いくつになったの?」
「14才です。でも、どうしてめでたいんでしょう。年を取るだけなのに」
店主はお茶を一口飲んでから答えた。
「君くらいの年はまだおめでとうでいいんじゃない?」
「じゃあ、年を取ったら誕生日は嫌なことですか」
「そこまで無事生きることができておめでとう、ということじゃないかな」
「苦しみながら生き残ってしまって残念だった、という人もいるかもしれません」
「その場合、『耐え抜いた貴方の強さに祝福を』という意味で」
そう聞いた私は、にこっとして椅子から腰を上げる。
「店主さんは言葉の魔術師です」
「物は言いようで」
「お茶、ごちそうさまでした」
左奥の小さな扉に目をやる。
「毎日休みなく感心だね」
「それが時詠の少女ですから」
小さな扉に近寄り、丸いノブを握る。銅色が少し剥げて、鉄が覗いている。
「その扉を開けられるのは不思議と君しか居ないようだ、レイン=メルカント」
店主は私をそう呼ぶ。
いつだったか、誰だったか、最初に私をそのように呼んだのだ。
それ以来、私はここではその名で通っている。
扉を開けると、そこはまるで異世界だった。
中は青い水晶で満ちており、大小様々なクリスタルが所狭しと山積している。
ほんの小部屋に過ぎないが、散乱する光のせいか、やけに広く感じる。
部屋に灯りはないが、クリスタル自身が仄明かりを発してくれている。
水晶は一見乱雑に撒かれているように見えるが、私にはその配置が全く整然なものに感じられる。
どの水晶もきちんと時系列に沿って並んでいる。一貫性というのは見えるものではない、見出すものなのだ。
私は混沌の中に秩序を見つけることができる。しかしそれができるのは私だけだそうだ。
そしてこれらの水晶から「世界の記憶を詠み取る」ことができるのも私だけだそうだ。
そう、私は水晶に触れることで、過去に起こった出来事を識ることができる。
それで店主は私をこんな風にも呼ぶ。
――「時詠の少女」と。
「閉めようか」
店主が入り口の向こうから声をかけてくる。
「お願いします」
「では、静謐なる時詠みを」
音もなく扉が閉まる。
世界からこの小部屋だけが切り離されたような気がした。
「さて、今日はどれにしようかな。昨日の続きを詠むか、それとも別の物語を詠むか」
私に与えられた時間は限られている。
平日は学校があるし、休日は休日で何かと忙しい。
自由に使えるのは学校帰りなど、隙間の時間だけ。
そんな隙間の時間を使って、私は毎日時を詠む。
――世界の終わりまで。
いつだったか、誰かが言った。
世界はあと20年で終わりを告げると。
私は唯一、世界を観測することができる少女。
この小部屋に乱雑に撒かれた記憶のクリスタルを通して。
それにしても、いつからだろう、私が時を詠み始めたのは。
ずいぶん昔だというのは覚えている。
それから毎日私は世界の記憶を詠んできた。
それが時詠の少女たる私の役割だ。
この小部屋を出れば、私はただの子供に過ぎない。
でも、ここにいる間は使命を持った人間でいられる。
私の使命は世界の終焉を観測すること。厳密に言えば、どうして世界が終わってしまったのかを識ること。
最初の年から数えて20年目にきっちり終わる世界を、私は毎日観測している。世界の終焉の原因を探るために。
世界の歴史はとても長い。でも終焉の原因はordinの20年間とlanjの20年間に隠されている。
そう教えられた。いつだったか、誰だったか、そう教えられたのだ。
だから私は20年かけて毎日二つの時代の出来事を観測している。青く輝く記憶のクリスタルを使って、交錯する二つの時代を同時に詠んでいる。
そして特筆すべき出来事を見付けては、その都度記録しておくのだ。そう、世界の終焉の原因を識るために。
二つの時代は400年もの隔たりがある。当然言葉も変化している。私は観測した内容を要約した上で、現代の言葉に翻訳する。
現代の言葉といっても色々あるが、私が翻訳するのはアルバザード国の公用語であるアルカ、アルバレン、ルティア語、凪霧の四つだ。
古語は現代語に直して翻訳する。例えば上代シージア語や中世ルティア語は現代ルティア語に翻訳する。
一方、中世アルバレンは原則として現代アルバレンでなく現代アルカに翻訳する。現代アルバレンは地方録などを書く場合に使うことがある。
また、神々の言語であるフィルヴェーユ語などは、必要に応じて原文のまま出すことがある。
観測に加えて要約や翻訳も入るため、時詠みという作業は思ったより重労働だ。
記憶のクリスタルは日を追うごとに増えていく。世界が終わるその日まで。
一日分の記憶はとても小さい結晶に過ぎない。それが集まって、やがてひとつのクリスタルになる。
結晶は毎日生まれるから、私は今日起こった出来事を詠むこともできる。観測できないのは未来だけ。
世界がどう終わるかは、最後の日が来るまで分からない。
ともあれ私は20年のあいだ、来る日も来る日も隙間の時間を使って世界を観測する。
たとえ何が起ころうと、私はただ出来事を眺めるだけ。
観測者は手を出さない。黙って視ることしかできない。
物凄くちっぽけな存在にも感じられる。
だけど、ひょっとしたらそれは世界を変える力になるかもしれない。
なぜなら世界には観測者効果が働くから。
例えば物理の世界では、電子を観測するには光を当てる必要がある。光を当てなければ物を見ることはできないから。
だけど光子を当てることで、電子の軌道は変化してしまう。
要するに、見ようとする行為そのものが、見る対象を変化させるということだ。
これを観測者効果という。観測者効果は物理学だけでなく、社会学などにも見られる。とても汎用性の高い概念だ。
世界にも同じことが言える。時詠の少女の私が世界を観測することで、観測者効果が生じる。
つまり私がどのように世界を観測するかということが、やがて世界の終わり方を変えてしまうかもしれないということだ。
世界の結末は観測者の手の中にある。この私の掌に。……そう教わった。
でも、誰にだっけ……?
「世界はどんな風に終わるんだろう……」
一人ぼっちの小部屋で、誰ともなく呟いた。
「……あれはどういう意味だったんだろう」
店主がかつて洩らした言葉がふいに頭をよぎる。
始まりは終わり。
終わりは始まり。
私は静かに首を振ると、床に転がった青い水晶を愛おしそうに拾う。
「今日はこの子にしよう」
いったいあと何日、私には時が残されているんだろう。
世界の終わりの果てには、何が待っているんだろう。
クリスタルの放つ青白い光に目を細めながら、私は小さく囁いた。
「世界は私をいらないと言った……。私は――」
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