リアルファンタジー小説『アルディア』

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序文案内

かみさまの懺悔

時詠みの少女

死神の天秤

死神の天秤

2011年7月19日

 そこはただの空白だった。気が狂いそうになるほど何もなく、ひたすら白さが広がっているだけの場所。
 そんなところにセレンは送られてきた。昏睡しているのか、倒れこんでいる。

 次の瞬間、黒衣の男が突如現れ、彼の前に立った。
「異界の門を通る者よ」
 男が声をかけるとセレンは目醒める。見知らぬ場所と人物に戸惑ったが、彼はすぐに転生したことを思い出す。
 転生は8時に行われたはずだが、リディアと手を繋いで眼を瞑ったところまでは覚えている。どうやら自分のセレスはまだユマナから切り離されていないようだ。

 公園での出来事を思い出した瞬間、彼は思わず叫び声を上げた。
「――リディア!?」
 手を繋いでいたはずのリディアがどこにも見当たらないのだ。一瞬にして不安の闇に押し潰されそうになる。

「異界の門を通る者よ」
 黒衣の男はもう一度呼びかけた。
 セレンは男を見上げると、同行者を見なかったか尋ねようとした。しかし彼が口を開ける間もなく男は空間から鎌を取り出すと、セレンの眼前に向けた。
 その刹那、白い空間が俄かにざわめいた。
「我が名は死神ヴァンガルディ。
 地獄を統べる者にして、契約と鼎を司る。
 異界の門を通る者よ、汝の鼎を我に示せ」

 若く美しいその男の声は、いやに耳に残るくぐもったものだった。
 セレンは自分で書き上げた人工言語アルカの辞典――幻日辞典――の記述を頭の中で検索する。
 ヴァンガルディは地獄の王で、アラティアともいう。契約と鼎を司る。彼に願いを伝えると、何かと引き換えに願いを叶えてくれる。その代償となる何かのことを鼎という。アルカでいうとestoだ。
 鼎と訳したのは、実際にestoが鼎という容器であるからなのだが、もうひとつ意味がある。鼎は「代償」を意味すると同時に、引き換えとなって願いを「叶え」てくれる。つまり鼎は「代償」であると同時に「成就」でもあるのだ。ここにヴァンガルディとの契約における等価交換性を見出すことができる。
 それにしても、どうしてこの段階でヴァンガルディが出てくるのだろう。何を自分と契約しようというのだ。
 何だか頭の中が痒い。先ほどリディアから説明を受けた気がするのに、思い出そうとすると頭が痒くなる。彼女の説明の中にヴァンガルディの名が出てきた気がするのだが、どうしても思い出すことができない。どうやら自分のセレスはユマナから切り離される寸前らしい。

「カルディアへ行くには代償が必要なのか……?」
 セレンの問に男は黒い長髪を微かに揺らし、静かに頷いた。
 あぁ、そうだった。カルディアでも頷きが肯定を意味するんだった。セレンは妙なところで感心した。
「日本語を失うだけでは足りないと?」
 尋ねるセレンに男は語調を乱さず答える。
「それはベルトやメルティアの事情にすぎぬ。
 ユマナで穢れたセレスをそのまま持ち込むことは許されん」
「穢れた魂……」
「鼎を支払う以前の前提として、ユマナでの大半の記憶は失われる。汝がこれから入るのはカルディアで過ごしてきた自分の体であって、その体には既に30年分の記憶があるからだ」
 それは理解できる話だった。別の人生を歩んできた二人の記憶がひとつの体に入ると混乱は免れない。カルディアへ渡る以上、今回はユマナ側の記憶を消すのが妥当だろう。それにカルディアとユマナは異なった世界なので、悪戯にユマナの情報をカルディアに持ち込むべきではないだろう。なるほど、いかにもセレスを管理する死神らしい条件だ。
 だがそれより気になるのは鼎とやらだ。セレンは固唾を飲んで問う。
「それで、その鼎の内容とは……?」
 すると男は地獄の王に相応しい冷酷な鼎を要求した。

「鼎に載せるのは汝の愛する者。
 異界の門を通らば、汝は愛する者を失う」

「……どういうことだ」
 訝るセレンに対し、死神は見透かしたかのように告げる。
「汝が今現在不安に思っている最悪の解釈がその答えだ」
「それはつまり……転生後の俺はリディアと赤の他人だということか」
 無言で頷く死神。
 その瞬間、冷や汗が流れる。
「言い換えれば、転生後の彼女は俺のことを好きではないし、そもそも俺のことを知りもしないということか」
「――然り」
 急激に目の前が真っ暗になるのが分かった。
「そんな……。じゃあいったい何のために異世界に……」
 脚がふらつく。足元の砂を波に攫われたようなぐらつきだった。
 向こうのリディアはこちらのことを何も知らない。絶望的な状況だ。これでは一体何のために手に手を繋いで一緒に異世界へ旅立ったのか分からない。

 ――いや待て。
 落ち込んだ彼にひとつのアイディアが湧く。
 確かに向こうのリディアはこちらのことを知らないかもしれない。だが向こうの自分はリディアのことを知っているままなのではないか。どちらか一方だけでも想いを失わなければ、やり直せる可能性はある。
 そう考えた彼は大声を張り上げる。
「俺はリディアのことを忘れたりなんかしないよな?」
 しかし死神は冷たく言い放った。
「彼女も鼎を支払う。ゆえに、彼女もまた汝からの想いを失うことになる」
 その宣告に、セレンの希望はあっけなく崩されてしまった。
「つまり俺も向こうに行けばリディアのことを忘れてしまうというわけか……」

 しばし静止した後、彼はがっくりと肩を落として呟いた。
「リディアは俺を知らない。俺もリディアを知らない。たとえ異世界で再会しようと、俺たちは赤の他人。そういうことか……?」
 死神は残酷にも首肯した。
「そんな……あんまりだ。これじゃ一体何のために……」
 額を押さえるセレンに、死神は声の調子を変えずに告げる。
「鼎の大きさは望みの大きさに比例する。数十年前の契約時もそうだった。
 オーディン時代に悪魔を倒してユマナに転生した汝は、ユマナで仲間と再会しアルカを再構築することを願い、その代償として人並みの幸福を差し出した」
「人並みの幸福……?」
「身に憶えはないか。例えば心身の健全さ、例えば家庭の円満さ、例えば磐石な将来、例えば――」
「――もういい」
 小刻みに首を振る。ヴァンガルディの言葉が心に重くのしかかる。思わず過去の様々な出来事が走馬灯のようによぎる。

「だがそんな人並みの幸福を失ってまで、俺はリディアと出逢って恋をしたんだ。その想いを今更奪われるのはあまりに理不尽じゃないか」
 彼の声に感情が篭る。しかし死神は努めて事務的な態度を維持する。
「汝がユマナに留まれば、再び鼎を支払う必要はない。新たな形の人工言語をユマナで初めて成し遂げた者として、人並みの幸福という失った代償を悔やみながら生きるがよい。
 しかし今一度異界の門を通らば、我は汝に鼎を要求す」
 額に手を当てて考え込むセレン。
「ユマナに留まれば全て今まで通り……リディアも、仲間も、アルカも……」
 小声で呟く。状況を理解するので精一杯だ。
「確かにユマナに留まれば全ては元のままだ。しかし今更アルカを捨てたところで、人並みの幸福を取り戻せるなどとは思わぬことだ」
「……」
 黙るセレンに死神は追い打ちをかけるように続ける。
「どう足掻こうと汝に明るい未来は無い。痛くない日々は無い。苦しくない日々も無い。空虚を満たされる日々も――」
「分かってる!」セレンは右腕で死神の鎌を振り払った。「識っているんだ、ヴァンガルディ!」
「……」
 鎌を降ろしながら、静かに死神は言葉を補う。
「……死神との契約はそれほどまでに重いということだ」

 セレンは深い溜息をついた。
「たとえユマナに残ってアルカを捨てても地獄。かといって異世界に渡っても代価を請求される。どこまでも生きるというのは苦しいものらしいな」
 そのときセレンはふと何か気付いたような顔になった。
「……なぁ、死神ヴァンガルディ。俺は過去に何度かあなたに会っていないか。10歳の夏、13歳の秋、17歳の冷たい夜、そして6年前にも。
 そのとき強く願ったんだ。どんな犠牲を払おうと、自分の使命を果たし、望みを叶えたいと」
 しかし死神は何も答えようとしなかった。ただ、彼の言葉を否定することもなかった。
「あれから俺は努力を重ねた。だが願いを叶えようと奮闘するたび、手の平から零れ落ちる水のように幸せが逃げていったんだ。
 努力するほど報われず、努力するほど失った」
「それが汝の払った代償だ。願いに向かうたび、契約に基づいて幸せを失っていく」

 ふたたびセレンは溜息をつく。重苦しい溜息だった。
「それにしても、次の鼎は愛する者か。いくらなんでも重すぎだ。異世界間を渡るだけでそれ程のものを失うことになるとはな」
 不承不承なセレンにヴァンガルディは一瞬困惑したかのような表情を見せ、契約の確認を兼ねて言葉を付け足した。
「これは汝らの望みに見合う正当な鼎であろう。
 汝らはカルディアの歴史を動かす。
 そしてその果てに汝らが望むものは――」
 そこでふとヴァンガルディは言葉を止め、後方の白い空に眼をやった。
「――記憶の観測者か。小癪な。
 観測地点は……アルカディアの筺か」

 死神がすっと鎌を薙ぐと、空間が歪んで記録が乱れる。
 クリスタルを詠んでいた少女は怪訝な顔をする。
 次に記録が繋がった場面では、既にヴァンガルディはセレンに契約の確認を終えていた。
 時詠の少女は眉を顰める。

 セレンは既にユマナでの記憶が曖昧になっていた。ヴァンガルディの説明を聞いて、改めて自分たちの今回の望みと使命を認識した。
「――確かに相応な鼎だな」
 先程までとは打って変わって納得したように頷くセレン。死神のほうもようやく状況が整理できて一安心といった様子だ。
「しかし何とも残酷な天秤だな。その鼎自体が俺たちの望みを大きく阻害することになる」
「それほどまでに汝らの願いは大きいということ。
 契約は決して甘いものではない。
 それはこの数十年で身を以て識ったことであろう」
「そう……だな」
 苦虫を噛み潰したような表情で肯う。
「それでも汝は異界の門を通るか」
 セレンはしばし沈黙した後、頷いた。
 するとヴァンガルディは空間に黒い門を出現させた。

 ゆっくり立ち上がると、セレンは門に手をかける。
「――引き返せぬぞ」
 死神は冷やかに言い放つ。
「門の向こうの彼女は汝を知らず、汝を愛さぬ。
 後悔するやもしれんぞ」
 セレンは門柱を握る手に力を込めた。
「……後悔ならいつもしてきたよ。どうやったって後悔しない道なんてないんだと思う。人は片方の道を択ぶ度に、もう片方の道を代価として支払うんだ」

 彼は振り向くと、ヴァンガルディに対峙する。
「やっと分かったよ、この物語における自分のレーゾンデートルが。これはあなたとの戦いなんだな。
 あなたは失った鼎は戻らないと言った。契約は等価交換なのだろう」
「然り」
「なら今はあなたに俺の鼎を預けておく。
 でもいつか必ず取り返してみせる」
「無駄だ。何かを望んだ以上、それに見合う代償が必要だ。一体何を新たな鼎として差し出そうと言うのか」
 すると彼は即答した。
「決まってる。俺みたいにちっぽけな人間に唯一できること。
 ――努力だ」
 死神は皮肉げな笑みを浮かべる。
「重ねれば重ねるほど幸せを失ってきたにもかかわらずか」
「こうは思わないか? 単に今までの努力が望みの代価に見合うほど大きくなかっただけなんじゃないか、積み重ねていけばいつか代価に釣り合うんじゃないかって。
 だから俺は失っても苦しんでも積み重ねるよ。望む高さに届くまで」

 その言葉を聞いたヴァンガルディは一瞬の間を置くと、呆れたように言った。
「これほど苦しんでおきながらまだ諦めぬと? 狂人の戯言よ」
「嗤えばいい。今までも皆が俺を嗤ってきた。
 だが俺は俺を嗤わない。人が嗤うなら、俺はその時間を使って上に行ってやる」
 言葉が無の空間に響き渡る。ヴァンガルディは唇を薄く開いたまま彼を見つめた。
「……それが先駆者というものか。なるほど、歴史に名を遺すだけのことはある。
 面白い。なんとも刈り甲斐のあるセレスよ。存外ユマナの汝も使命を全うできるかもしれんな」
 死神は含み笑いをした。
「察しの通り、汝は我と何度か会っている。
 そして十数年前も汝は今と同じ結論を出した。
 たとえ辛かろうと成し遂げてみせる。そしてその代価は努力で賄い、鼎は必ず取り戻す……とな」
「そのときあなたは何と返したんだ」
「痛みも苦しみも抱えない苦労知らずがさえずる覚悟など聞くに耐えん――と。
 それから我は転生前の契約に従い、汝から幸せを奪い、苦痛を与え続けた。
 にもかかわらず汝が今日出した結論は前回と同じものだった」
「そうか……」
 ヴァンガルディは鎌を異空間に仕舞った。
「今こそ汝の覚悟は聞くに値する。
 だが汝はひとつ勘違いをしている。
 これは汝と我の闘いではない。汝と汝の闘いだ」
「……皮肉だな」疲れた顔で頭を振る。「自分というのは味方に周るとえらく弱いくせに、敵に周ると何よりも強いものだ」

 セレンは門に片脚を踏み入れた。その背中に死神が声を投げかける。
「彼女の望みは汝の望みより大きく、彼女が支払う代償は汝の代償より大きい」
 それは死神の台本には本来ないはずの言葉だった。
「汝からの想いを失うだけでは済まされぬ。彼女は心身ともに欠片を抱えることになる」
「……そうか」
 淋しそうに呟くセレン。
「換言すれば、それだけ彼女の汝に対する想いが強いということだ」
 初めてヴァンガルディの声に微かな温もりが篭った。
「彼女の分の鼎も取り戻すのであれば、並大抵の努力では足りなかろう。……それでも汝は行くのだな」
 セレンは振り返ると、誓うように言った。
 "fiina ridia"

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