リアルファンタジー小説『アルディア』

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ファーヴァの月

1991年10月27日


 リーザの寺子屋の脇には家畜小屋があり、その中には数匹の豚がいた。リディアはそのうち一匹を世話するようリーザに命じられていた。
 その豚が産まれたのは去年のこと。産まれたばかりの小さな子豚をリディアは「プークー」と名付け、可愛がった。プークーと名付けたのは鳴き声がそのように聞こえたからだ。
 リディアは毎日プークーの世話をし、プークーも彼女によく懐いた。翼の生えた白猫クエリも可愛がったが、プークーもまたよく可愛がった。

「ねぇセレン君、プークー可愛いでしょう?」
 リディアは餌をやりながら、徐々にアルバレンを使えるようになってきたセレンに声をかけた。
「うん。プークー、可愛い」セレンはたどたどしく答えた。
「これからプークーをそこの広場に連れていくよう先生に言われてるの」
 広場を指さすリディア。寺子屋の前にあるの開けた場所だった。

 餌を食べるプークーを撫でながら、リディアは愛おしそうな目をする。
「さ、プークーおいで。先生が呼んでるよ」
 柵を開けると、リディアは子豚を外に出した。セレンは黙ってプークーの背をさすりながら広場に誘導していく。幸せな日常だった。

 広場にはリーザだけでなく他の生徒も集まっていた。いつも元気なオヴィがなぜか気落ちしたような顔で下を向いている。
「ご苦労様、リディアさん」リーザはプークーを受け取ると、リディアを地面に座らせた。「さて、皆さん。そろそろ外にいるのも辛いくらい寒くなってきましたね」
 頷く子供たち。
「そろそろ秋の終わりです。もう少ししたら冬が来ます」ぴっと人差し指を伸ばす。「さて、それでは今から命の授業をします」
 リディアは「ん?」と首を傾げた。聞き慣れない言葉だった。

「私たちアルバザード人は何を食べて生きていますか、オヴィ君」
「パンとか肉とか野菜とか……」おずおずと答える。具合でも悪いのか、いつもの元気がない。
「そうですね。小麦などを食べて生きています。さて、豚は何を食べているでしょう。えーと、じゃあセレン君?」
「あ……豚……人間が食べるもの……食べる、です」

「えぇ」満足そうな笑顔。「ところで冬場は人間が食べる分も不足します。でも豚に餌をあげなければいけません」
 ぽんぽんとプークーの背を叩く。
「では、どうすればよいでしょう。リディアさん?」
「え?」うーんと考えこむ。「私たちが食べる分を我慢して減らして、プークーにも我慢してもらう。ちょっとずつ食べれば冬も乗り越えられるよ」

「なるほど」うんうんと頷く。「だけどこのサプリの村にはそんな余裕がありません。さぁ、オヴィ君、どうしましょう?」
「……」何も答えず地面を見ている。苦々しい顔で。
「こうは思いませんか? 人間が豚を食べれば、おなかがいっぱいになる。その上、豚にあげる餌もいらない」
 リディアはリーザが何を言っているのか理解できなかった。

「――そこで今日はこのプークーを潰します」

「……え」乾いた声が洩れる。
 懐からナイフを取り出すリーザ。鉄の刃がギラリと鈍く光る。
「豚の屠殺方法を知っている人はいますか?」
 皆が自信なさげに下を向くと、リーザは首に刃を当てる。
「一般的な方法は頸動脈をナイフで切る、首を斧で切るなどです。動物の苦痛を和らげるためにも、速やかにやってあげましょう」

「ちょっ!」立ち上がるリディア。「ダメだよ、先生! そんなことしたらプークーが死んじゃう!」
「あら?」くるっと振り向く。「食べるんだから、死ぬのは当然でしょう?」
「プークーを食べるなんてできないよ!」
「リディアさんは豚を食べたことがないの?」
 スカートの裾をぎゅっと握る。「……あるけど」

「じゃあどうしてプークーだけは食べちゃいけないの?」
「だって……プークーはペットでしょ。ウチの教室で飼ってたんだよ。クエリと同じだよ」
「クエリは猫で、アルバザード人は猫を食べないわ。でも豚は食べ物よ。家畜として飼っていたの。そうでしょ、オヴィ君?」
 沈黙を保つオヴィ。体育座りのまま苦い顔をしている。リディアはオヴィを見下ろす。「知ってたの、オヴィ君? こうなるって……知ってたの?」
「……仕方ねぇだろ」
「そんな……」涙を浮かべる。「ひどいよ……」

「プークーの世話係はリディアさんだったわね」すたすたと歩み寄ると、ナイフを彼女の手に握らせる。「はい、最後のお世話よ」
 ビクッとリディアの肩が震える。リーザを見上げ、蒼白な顔でゆっくり首を振る。言葉が出ないようだ。リーザはリディアの手を引っ張り、子豚の前に連れてくる。
「はい。頸動脈を狙ってね」
「で、でき……できない」小刻みに震え、ナイフを遠ざける。その手をリーザは子豚の首に押し付ける。プークーはリディアを信頼しきっているのか、安らいだ顔で鼻を鳴らしている。

「だって……産まれてまだそんなに経ってないんだよ? まだ何年も何年も元気で生きられるんだよ? 元気なのを殺すなんて……ひどい!」
「じゃあ、いつならいいの?」
「いつかプークーが年を取って死んじゃったら、そのとき食べればいいじゃない!」ナイフを手から落とす。
 リーザはナイフを拾うと「可哀想なプークー」と言って腕の付け根にズンと刃を突き刺した。一瞬の間を置いて、子豚が張り裂けんばかりの悲鳴を上げ、のた打ち回る。それと同時にリディアの悲鳴がこだました。

「残念ながらリディアさん、サプリの村にはプークーを老衰させるまで養う余裕はありません」鮮血の着いたナイフをリディアに握らせる。「ほら、このままじゃプークーが可哀想でしょ。早く楽にしてあげようね」
「い、いや……。プークー、プークー! 先生、早く魔法で回復してあげて!」
「今私はヴィードを使わずに刺したわ。純粋に物理的な傷だから、修復しようがないわよ」
「プークー、痛かったでしょ!? ごめんね!」泣きじゃくって豚の腕に手を当てる。傷口を手で塞ごうと必死に押さえる。だが血は止まらない。プークーも暴れてしまい、手が付けられない。

「リディアさん、早くとどめを刺してあげなさいな。このままじゃ苦しんで死なせるだけよ」
「いや……いやだよ……できないよ」ひっくひっくと嗚咽を洩らす。
 そのときだった。
 座っていたセレンがすっと立ち上がったかと思うと閃光のように剣を抜き、一瞬にしてプークーの首を落とした。
 それは刹那の光景だった。首が胴体から離れるように、すっと落ちた。花が散るかのようだった。
 プークーの頭は断末魔の声をあげることもなく地に落ちた。ついで残された胴体から鮮血が吹き出し、セレンやリディアに雨となって降り注いだ。

 リーザはにこやかな表情を浮かべ、セレンに近寄った。「セレン君、どうして?」
「リディア……できない。リディア、プークー、可哀想。なら、俺が……やる」
「そう。友達思いなのね」
 花のように微笑むと、リーザはセレンの頬を勢いよく横薙ぎに打った。セレンは突風に吹き飛ばされたかのように地面に倒れこむ。
「誰が余計な手を出していいって言ったのかしら」
 セレンは頬を押さえながらよろよろと立ち上がる。そしてリーザをじっと見た後、無言で一礼した。

「プークー、プークー……ごめんね、ごめんね……」リディアは落ちた子豚の頭部を抱きながら声をあげて哭いた。
 リーザは生徒に向き直ると、「さて、それではプークーを料理しましょう」と笑顔で言った。

 その日の昼食は焼き豚だった。肉の大部分は越冬のための保存食となる。
 生徒の多くはプークーだったものに手を付けることができず、ある者は泣き、ある者は吐いていた。
 オヴィは不機嫌な顔のまま豚を食べ、セレンは釈然としない表情で食べていた。

 リーザの指示で生徒は給食を食べるまで帰れなくなった。
 一番最後まで残っていたのはリディアだった。セレンは黙って自分の席でリディアとリーザを見ていた。どのみちセレンはここに住んでいるので移動する理由がないが、自分のベッドに戻らずリディアの傍にいたのは意思をもってのことであろう。
 リディアはいつまでも泣いていた。よく涙が枯れないなというほど泣きはらしていた。可愛い顔が台無しだ。

 夜になった。それでもリディアは食べない。母親のナルムが途中心配になってやってきたが、リーザが事情を説明して帰した。
 深夜になった。すっかり豚肉は冷えて硬くなっていた。
「お腹が空いたでしょう、リディアさん?」
「プークーは食べ物じゃない……」
 このやり取りが数時間に及んだ。

 セレンはずっとその様子を見ていた。日付が変わって数時間が過ぎ、もうあと数時間で夜が明けるというころ、セレンはそっと立ち上がった。リディアの背中に立ち、ふぅとため息をついてから横の席に座った。
「リディア……。俺、プークー殺した。怒ってるか?」
「ううん、怒ってないよ」首を振る。「セレン君は私の代わりに動いてくれたんだよね。私こそ、ごめんね」

「あむ……リディア。それでも、プークー、食べろ」
 その言葉を聞くや、リディアは裏切られたような顔になってセレンを睨んだ。
「セレン君もそう言うんだね。貴方も皆や先生と同じなんだ……!」
 するとセレンは首を振る。
「リディア、プークー、食べる。プークー、リディアの中で、生きる」
「――え!?」彼女はハッとした顔になった。

「プークー、リディアの身体になる。プークー、リディアと一緒に生きる」
 肘をついて手に顎を乗せていたリーザがふわっと笑顔を浮かべた。
「セレン君……」リディアはふるふると手を震わせ、涙を流した。「そう……だね」そして泣きながらプークーを食べた。
 泣きじゃくるリディアの頭をぽんぽんと撫でると、彼女はセレンに向かって微笑んだ。
「えへ……これで私、プークーと一緒だね……?」
「うん」静かにセレンは肯った。


 リディアを家に送ったリーザはナルムに引き止められ、居間で冷えた身体をホットミルクで温めていた。セレンは寺子屋で寝かせてある。
「どうでした、姫。命の授業は?」
「うまくいったわよ。計画通り。義侠心の篤いセレン君がリディアの代わりにプークーを斬る点も含めてね」
「そうですか」ナルムは安心した顔で呟いた。
「シナリオ通りのとばっちりで殴られた彼は不憫だったけどね。それにしてもあの剣技には驚かされたわ。普段の動きとまるで違ってた」

「ところで、全員が食べたんですか」
「食べさせたわよ」
「辛い授業ですね」
「でもこの村の子供たちは必ず通過しなければならない儀式だから」
「今日のことを知っていてあえてリディアに子豚の世話をさせていたんですね」
 コトンとカップを置く。「あの子は優しすぎる。純粋で純情で、頼りないくらい天真爛漫なのよ」
「まだ7つですから」
「彼女の肩には大きな運命が乗っかっている。こういうところから鍛えていかなければならないわ」

「でも頑固さは姫に似たと思いますよ? まさかこんな夜更けまで食べるのを拒絶するなんて。昼食も夕食も抜いたんですね」
「あのままじゃ朝食も次の昼食もあのままだったと思うわよ。最悪餓死する気でいたかもしれない」
「まぁ」手を口に当てる。「流石姫のお嬢様。姫のお小さいころによく似てらっしゃる」くすくす笑う。
「止めてよ、もう」頬を染める。「あの子、思ったより頑固よ。母親の私も父親の彼も頑固だから、掛け算になっちゃったのかもね」
「ですね。ふふ」

「意外だったのはセレン君ね。彼が説得するとは予想外だった。私の予想ではリディアが深夜には空腹で音を上げると思っていたのだけど」
「想像に反してリディアは頑固だったんですね」
「それがセレン君の一言でころりよ。でも彼、教わらなくても自分で家畜を食べることの意味を理解していたわ。人は生かされ、犠牲になった者の命を背負って生きる――その真理に自分で辿り着いた」
「面白い子ですねぇ」
「感受性の強い子なんだわ。リディアの気持ちを分かってあげられるんじゃないかしら。やっぱり彼を選んで正解だったようね」
 難聴のナルムのためにリーザはゆっくりはっきりと喋る。
「姫の目に狂いなどありませんよ」と全幅の信頼である。

「けど私が思うに、彼は自分のために真理を見出したんじゃないわね。リディアを説得するために言葉を編み出したんだと思う」
 ホットミルクを啜るナルム。「優しい子ですねぇ」
「その代わり気性が激しいのよ。優しいところと荒ぶるところが混在していて、どっちにも一瞬にして針が振れる」
「そういう意味では扱いにくいですね」
「怒らせないよう操縦すればむしろ扱いやすい部類だけどね。リディアがうまく操縦してくれるといいけど」くすりと笑った。

 ナルムは席を立つと、「姫……」と言ってリーザを胸に抱いた。
「どうしたの?」
「……そろそろ泣いてもいいですよ。もう誰も見ていません」
「……」
「プークー、可愛かったですね。産まれたときから貴女も世話をしてらっしゃいましたものね。
 リーザ姫、大人も泣いていいんですよ?」
「…………うん」ぎゅっとナルムの腕にしがみつく。そしてすんすんと声をあげた。
「よしよし……。嫌われ役は辛いですね。皆の前で涙の一つも見せられない」
「……うっ、うっ。プークー、プークー……」
 リーザはナルムの胸の中で声を押し殺して泣いた。間違っても隣室のリディアに聞こえないように。


2011年11月1日

 孤児院フランジェにはリディアのほかに4人の孤児がいる。彼らは苗字も分からず、かろうじて名前を覚えているだけだった。皆、リーザやミーファが拾ってきた孤児だ。

 一人目はixtal。年のころは14, 5に見える。が、実際いくつなのかは分からない。いつも黒紫の服を着ている。性格は大人しい。
 イシュタルは数年前に雨に濡れていたところをリーザに拾われた。なぜかたまに古語が出てしまう。不思議な子だ。

 二人目はmilha。11歳。魔族ディーレスと精霊のハーフだ。猫耳を持って生まれたせいで虐められてきた。魔族なのに気弱で泣き虫で怖がりな子だ。
 しかしミルハのポテンシャルは強力なので、過度の恐怖を感じると無意識に周りのものを魔力で粉砕してしまう癖がある。
 耳に極度のコンプレックスがあるため、常に帽子をかぶっている。頭に手が触れそうになると恐がる。撫でようとしても嫌がる。

 三人目はkonoha。見た目は16歳程度。凪人の名を持つが、れっきとしたロゼットで、神と人の混血児だ。
 コノハはロゼットにも関わらず、あるものを司って生まれてきてしまったため、天界から追放されてしまった。
 人を幸せにすることに生き甲斐を感じる。けなげで純粋で天真爛漫。しかし呪われた血のせいで、親切心がいつも裏目に出てしまう。

 四人目はfealis。17歳で、人間の捨て子だ。ユベールの達人で、ミルハを妹のように可愛がっている。
 フェアリスは芯の脆いところがある。親に捨てられたトラウマが消えず、拒絶されることを異常に恐れている。

 彼女たちは新顔のリディアを仲間の輪に入れようと声をかけた。だがリディアは眠り姫のようなぼーっとした表情を返すだけで、会話にならなかった。
 少女らは残念そうにリディアと話すのを諦め、花を愛でるかのように遠巻きに見るようになった。

 この日セレンは孤児院の手伝いをしながら少女たちの経歴や特徴を改めて頭の中で整理した。
 リディアがどんな過去を持っているのかは分からない。だが経歴の暗さで言えば彼女たちは引けを取らないはずだ。
 そんな彼女たちが明るく元気に振舞っているのだから、いつしかリディアにも笑顔が取り戻せるのではないかとセレンは考えた。

「少し寒くなってきたな」横に座っているメルに言うと、彼女は「寒くなってきたね」と答えた。
 その言葉が暖かく感じられた。


 原文

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