| ラルドゥラの月 
1991年6月24日午後8時
 リディアは夢の中にいた。
 6歳の幼い自分は夢の中で大人の姿になっていた。あどけない顔つきはあまり変わっていなかったけれど、手足がすらっと伸びて今より綺麗になっていた。
 成長した自分はどこかの家の屋上で、綺麗な月を見上げていた。そばの柵には一人の青年が腰掛けていた。彼も同じ月を見ている。
 そよ風が吹く。青年の髪が月の光を浴びながらさらさらと靡く。青白い仄明かりに映えた彼の容貌はとても美しいものだった。
 
 「ねぇ、どうして世界はあるの?」
 唐突に、少女の口から言葉が紡ぎ出される。
 すると青年は静かに答えた。
 「最初の神さまがこう思ったんだ。ひとりはさびしい――って」
 
 「そうして世界はできたの?」
 「そう。創造主はうそをついたんだ。たったひとつの小さな嘘を。
 そして嘘の上にもうひとつ嘘を作ったんだ。
 いつの間にか嘘は空高く積みあがって、塔になった」
 
 「誰も嘘を咎めなかったの?」
 「だって最初の嘘がばれてしまったら、世界は消えてしまうから。
 みんなは嘘を吐き合うことで安心したんだ。みんなが同じ嘘を言えば、いつかその嘘が本当になるんじゃないかって思ったんだ」
 
 「それじゃあこの世界は嘘という無でできているの?」
 「そう、嘘でできている。だけど無じゃない。嘘が集まると、ごく稀にだけど、何かが生まれることがあるんだ。そして世界はその『何か』でできている。決して無ではないんだ」
 
 「難しいんだね」
 「そうだね。たくさんの嘘はややこしいんだ。きっと、ついた本人も分からなくなってしまうほどに。
 そうして神さまはひとつの嘘にすがったんだ。
 ただの強がりも嘘さえも、願えば『ほんとう』になるんじゃないかって思ったんだ。
 これは、そんな寂しがりの神さまが見ている夢なんだ」
 
 「だけど、カミサマ、言ってたよ」少女が微笑む。「最近は夢を見ることができなくなったって。神さまね、もうあまり眠れないんだって」
 「じゃあ……」青年は首を傾げる。「世界はどうなってしまうんだろう?」
 
 「それで、神さまは自分の夢を人に喋ったのよ」
 「なぜ?」
 「人の記憶に残ることが、夢を生かすことだから」
 
 「あぁ」青年は寂しそうに微笑みながら頷いた。
 少女は青年に近付くと、慰めるようにそっと手を握った。
 
 「誰かの中で生きることで、嘘は命を持つの。
 そのために神さまはどれだけの犠牲を払ったのかしら。
 これはそんな寂しい神さまのおはなし。
 かみさまの、懺悔」
 
2011年6月27日午後11時
 
 無精髭を蓄えた優しいテロリストは黄ばんだ歯を見せながら笑うと、5つばかりの幼い少年の頭をポンと撫でた。
 「さよならだ、フェアノール」
 
 少年は虚ろな目で、銃を脇に抱えた男を見上げた。
 「お前は生きろ。やることがあるからな」
 
 肩をポンポンと軽く叩く。男はゆっくり立ち上がると、小屋の奥にある小さな暖炉を指さした。
 「あそこからなら誰にも気付かれずに逃げ出せる」
 
 トンと背中を押すと、少年の身体は転がる石のように暖炉の方へ近付いていった。
 少年は戸惑いを隠せない色で男を見つめる。
 
 男が静かに頷くと、少年は暖炉の中に入っていった。
 残った男は一人、小屋の入り口に立てかけたバリケード代わりのテーブルを見やると、寂しそうに呟いた。
 「元気でな……始まりの仔よ」
 
1991年7月7日
 
 死神の黒い門を前にしたリーザ=ルティアは、満足気な笑みを浮かべて背後のヴァンガルディに声を掛けた。
 「あの子が欲しい」
 リーザは黒い門の向こうに映った一人の少年を指さした。
 「……なにゆえ汝はかの者を選んだ」
 鎌をリーザの首に架けたままの状態で、ヴァンガルディは問う。万が一にも彼女が勝手に門を越えないよう、牽制しているのだ。
 「最初はちょっとした親切心を観るためのテストだった。
 私はここからたくさんのハンカチを落とした。いえ、落とさせたと言ったほうがいいかしら。ユマナにいる自分を通して、候補となるたくさんの子供たちの前にね。
 何人かの子供が親切にも拾ってくれたわ。そしてユマナの私に手渡してくれた。それはほんの一匙の親切心。でも彼らの人生を変えるかもしれない行いだった」
 死神は黙ったまま彼女の言葉を聞く。
 「そんな親切な子供たちに次のテストを行った。困っていた異民族の私を親切に手伝ってくれるかどうか。何人かのお人好しがこの試験も通過した。
 私はその中から更に居住地、年齢、知性、家族構成などを考慮して的を絞った」
 「さぞや候補者が消えたことであろうな」
 「おかげさまで」
 リーザは軽く腕を開いた。
 
 「ときに、国はどう選んだのだ?」
 「経済大国であること、多くの国と国交があること、徴兵制がないこと、拳銃の所持が認められていないこと、治安が良いこと、戦争勃発のリスクが低いこと、テロの主だった標的でないこと、首都圏に住んでいること、居住地が極東であること、かな。まぁ、いずれにせよユマナの未来のことは分からないから、今現在の話でしかないんだけど。
 ともあれ私たちは西洋に固まりすぎているから、ある程度人員をバラけさせる必要があるのよ。一箇所に固まっていると、敵からの攻撃を受けたときに一網打尽にされやすいからね。資産と同じよ。リスクヘッジね」
 「なるほど……」
 「それと、愛国心を持たれては困るから、必ず混血児を選ぶことにしたわ。
 移民の子孫はどこに行っても居場所がない。世界中のどこにも自分の居場所を見付けることができない。だからこそ居場所を与えてあげればあっさりと懐柔できる」
 「それは自分の経験からか?」
 死神の皮肉に、彼女は自嘲めいた笑みを浮かべた。
 「最終的に私は最も御しやすい性格の子を選んだ。知能もプライドも高く、自分を特別視している人間。それでいて自分より能力の高い人間には尻尾を振って従うような性格の子。そんな可愛いワンちゃんを探していたの」
 ヴァンガルディは門の向こうの少年を見た。まだ10歳程度のあどけない子供だ。
 「そしてあれが汝の犬か」
 「可愛いでしょう? 私は見た目も重視するからね。きっと良い男に育つわ」くすくすと笑うリーザ。「それに口も堅そう。『自分は選ばれた人間で、仲間とだけ秘密を共有するんだ』って思わせたら、少なくとも大人になるまでは従順な私兵になってくれるわね」
 涼し気な顔で微笑むリーザ。
 「それに、大人になったころには、もう私たちから離れられない身体になっているわ」
 不敵に呟く彼女に、死神さえもたじろいだ。
 
 「ふむ……」死神は門を閉じると、鎌を白い空間に仕舞った。「では、かの者でよいのだな」
 リーザは振り返ると、上機嫌で「えぇ」と答えた。
 「代償は分かっておろうな」
 「鼎はちゃんと払うわ。それに、一部は既に支払い済みでしょう?」
 リーザは指折り数えた。
 「ひとつ。私は王女としての実権を手放す。
 ふたつ。私は愛娘を捨て、従姉妹に託す。
 みっつ。私はその業により、娘から忌み嫌われる。
 よっつ。私は私の友をこの手にかけ、友の子を奪い、罪を背負う」
 「……よかろう」死神は静かに頷いた。
 召喚の実務はメルティアに依頼することになるが、それは死神のほうで処理してくれることになっているので安心だ。
 
 リーザはスカートの皺を伸ばすと襟元を正し、美しいブロンドの髪に手櫛を入れた。薔薇をベースとした香水の芳香が微かに漂う。
 「じゃあ帰るわね、死神さん」
 「本当に良いのだな?」
 「鼎のこと? しょうがないわよ、叶えたいことがあるんだもの」
 「一国の王女ともあれば、身代わりくらい立てられるであろう」
 しかしリーザは見透かしたかのように答える。
 「そんなご立派な立場にいるからこそ、あなたとの大きな取引ができるんじゃなくて?」
 ヴァンガルディはふっと笑みを零した。
 「よかろう、契約成立だ」
 「乾杯と行きたいところだけど、こんな何もない白い空間じゃそれも望めないわね」
 くすりとしながら彼女は腕を広げた。
 ヴァンガルディはリーザの目の前に手をかざした。彼の手から光が放たれ、彼女の身体は徐々に白い光に包まれていった。
 「なぜ最後まで悪魔と戦わなかった」
 消え行くリーザに死神が最後の質問を投げかける。すると彼女はつと寂しげな表情を見せた。
 「私たちには悪魔テームスを殲滅するのには足りないものがあった。
 だから私は救世主を望んだ。どんな犠牲を払ってでも、世界を変えなければならないと思ったの。
 それが事実。
 ねぇ知ってる、死神ヴァンガルディ?」
 アトラスに帰る刹那、リーザは最後の言葉を遺した。
 「事実は事実と認めた上で対処しなければならない」
 
 原文
 
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