リアルファンタジー小説『アルディア』

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1991年7月19日午後7時55分

「行ってくるね、お母さん」
 横に座っている母親に声をかける。線の細い綺麗な女性だ。しかし耳が遠いのか、リディアの言葉が聴き取れなかったようだ。
「リーザ先生のとこ。この本を届けに」
 少し大きな声で言うと、彼女は「暗いから気を付けるんだよ」と優しく言った。
 居間の目の前は玄関になっている。仕切りなどない。
 玄関を開けると、夏の心地良い夜風がリディアの亜麻色の髪を柔らかく撫でる。
 リディアは振り返ると、もう少し大きな声で「すぐそこだから大丈夫だよ。それに、この村で悪さをする人なんていないし」と言って微笑んだ。

 家から目的地は子供の足でも10分程度だ。もともと狭い村な上に相手は近くに住んでいる。
「うわぁ……」
 リディアは空を見上げた。満点の星空だ。ふだん夜外に出ることはないので、こうして綺麗な夜空を見るとうっとりする。少し太った明るい上弦の月がなかったら、もっと綺麗に星が見えたことだろう。
 空を見ながらしばらく歩いていると、ふと人の気配がして彼女は首を戻した。何メートルか向こうに人影がある。何だろうと思って近付くと、それは見知らぬ者だった。自分より年上だろうか、一人の少年だ。髪が黒く、線の細い男の子だ。腰にはソードベルトを巻いて、剣を差している。
(誰だろう……)
 ここサプリの村は特に名産品があるわけでもなく、西部はシオン山に囲まれ、交通の便も悪い。東部のアシェルフィの街くらいまでしかまともに道路が引かれていない。ということはアシェルフィからの旅人だろうか。こんな夜遅くにこんな村に来ても泊まるところもないだろう。困っているのではないか。

「ねぇ、何してるの?」
 意を決してリディアは声をかけてみた。一晩くらいなら自分の家か恩師がやっている寺子屋に泊めてもらえるだろうと思った。
 リディアの声に少年はビクっとして振り向いた。どうやら話しかけられたことに驚いたようだ。彼は彼女の顔を見たかと思うと、怪訝そうな顔をして首を振った。そしてそのまま何も言わずに振り向いて、去っていってしまった。
「……ヘンなの」ぽつりとリディアは呟いた。

 リーザの家兼寺子屋に着いたリディアは、今見た不思議な少年の話をした。
「それは変わった子ね」リーザは美しい金髪を揺らしつつ、小首を傾げる。「リディアさんより少し年上に見えたんでしょう? こんな場所に子どもが一人でなんて確かにヘンね」
「ですよね」リディアは抱えていた本を手渡す。リーザはそれを軽く片手で受け取った。自分の身体の小ささを実感するリディア。
「……さて、何日持つかしらね」
 小声で呟くリーザに、リディアはきょとんとする。
「先生、それ何の話?」
「ううん、なんでもないわ」
 リーザはいたずらっ子のようにくすくす笑った。


2011年7月19日午後8時

 ただの強がりも嘘さえも、願えばいつか「ほんとう」になると思ったんだ。

 あれからちょうど20年。
 いつまで待てばいい?
 いつまで願えばいい?
 ここに来れば迎えに来てくれるんじゃないかって思ってた。
 
 だから最初のときからずっと変わらず立っているあの時計を見つめながら、夜の八時を待ったんだ。
 この池のほとりで。

 光の中からでも、水の底からでもいい。
 迎えに来てくれるのを期待して……。

 ――でも現実はこれだ。
 目の前には八時を指す冷酷な時計と、何一つ変わらない世界。
 報われなかった。
 自分は、報われなかった。




 それから30分ほどの間、セレン=アルバザードは朱塗りの橋の上で茫然と暗い水面を見ていた。
 何かを期待しながら、ずっと池と時計を交互に見ていた。だが、何かが起こることはなかった。
 ここフェリシア大学のほたる池は普段から人があまりいない。まして今は蛍のシーズンが終わったこともあり、一人きりだ。

 今日で20年だ。20年前のあの日が思い出される。そして現在までの日々が走馬灯のようによぎる。
 毎年だ。毎年この時間、ここに来ている。そして毎回、落胆している。
 区切りのいい年ほど大きく落胆する。数に意味などないと知っているのに。
 蛍はすっかり去って、居ない。セレンは焦燥感を顕わに池を離れた。

 池とキャンパスを繋ぐ木の階段を登っているところで電話がかかってきた。
 彼は右ポケットからレイゼンを取り出す。ちょうど先程まで音楽を聞いていたので、スピーカーは貼りついたままだ。
「もしもし」
 彼はレイゼンをポケットに戻すと、階段を登りながら応える。
「あ、お兄ちゃん? 今どこ」
 声の主は若い女の子だった。
「メルか。池だよ」
「池? なんでそんなところに……」
 怪訝そうな声だ。無理もない。
「まぁいいや。じゃあ上がったところの広場で待ってて。私もすぐ近くだから」

 セレンは「わかった」と言って電話を切った。
 階段を登って数十秒もしないうちに、電話の相手がやってきた。
 金髪に青い目をした白人ベースの綺麗で可愛らしい女性だ。22歳だが黄色人の血が混じっているため幼く見え、少女と言ってもいい見た目だ。彼女は鞄を小脇に抱えて歩み寄ってきた。
「おつかれ、メル」
 メルはフェリシア大生だ。理学部の数学科に属している。今はもう大学院の博士課程で、大学生としては最終学年に当たる。
「一緒に帰ろ」
「あぁ」
 二人は西門に向かって歩き出す。

「今日は白衣じゃないんだな」
 歩きながら問うセレン。
「本来数学科は白衣を着る必要があまりないしね。お兄ちゃんは今日もゼミ?」
 黙って頷くセレン。彼はこの大学のOBであり、現在は研究生をしている。
 専門は現代魔法学。――といっても、そんな学問は世の中から認められていない。魔法学が盛んだったのは今から400年ほど前の時代、オーディン(rd)だ。
 人類はrd以降、魔法の力を失ってしまった。それから機械文明が発達し、現在に至っている。科学全盛の時代に何の役にも立たない魔法学をやったところで、就職の役に立つはずもない。
 確かにこのアルバザードという国には召喚省という政府機関がある。そこに入る人間にとっては魔法学も必須の科目だ。だがそれはあくまで古典としての魔法学であって、要は古典文学がテストに出るのと同じような扱いでしかないのだ。

「今は何を研究してるの?」
 メルは落ち着いた優しい声で尋ねる。
 セレンは現代魔法学が専門だがそんな学問は認められていないので、大学では古典としての魔法学や魔法工学を履修したりしていた。おかげで理系だったのに真当な科目を選択せず、大学院を出てもまともな就職先にはありつけなかった。
 結局夢を捨てきれなかったこともあり、院生時代に就活を断念し、そのまま研究生としてゼミに残っている。気付けばもう30だ。

 表向きの専攻は言語学だ。魔法学――とりわけ呪文学――と近い関係にある上に、学問の一分野として認められているからだ。
 だが魔法工学などの兼ね合いから、理工系の分野にも手を出している。こちらは機材や試料に費用がかかるので、研究費にはいつも悩まされている。
 人から専攻を聞かれたときは現代魔法学と答えたいところなのだが、毎度白眼視や奇異の目に曝されるのに飽き飽きして、今では言語学と工学と答えることにしている。
 とはいえ本来言語学と工学は重なる分野ではないため、結局奇妙に思われることが多々ある。だから正直専攻を問われるのは好きでない。

「研究……ね」
 セレンは自嘲気味に呟く。世間からすれば、存在を学会に認められていない分野など研究とはいえないだろう。せいぜい「趣味」だ。
 本来、努力に貴賎はない。……はずだ。
 だが実際はその学問が世に認められているかどうかによって、社会的な扱いに雲泥の差が出る。なんとも理不尽な話だ。
 彼に対する社会の目は冷たい。しかしこの幼なじみの妹分は違う。彼女はセレンの努力を揶揄しない。「趣味」などと一刀両断せず、きちんと「研究」と認識してくれている。彼女は数少ない理解者なのだ。

「お前は現代魔法学の意義……俺のやっていることの意義が分かるか」
 厳かに問うセレン。対照的にメルはあっさり「うん」と答えた。
「魔法学は閉じた学問体系。科学は開いた体系。今は確かに魔法を使えない人達が殆どを占める。だけど問題は実用性ではない。斬新性と高尚さ。魔法学は志半ばで潰えた学問。人が魔法を使えなくなったせいで無情にも切り捨てられてしまった学問。
 もし人が魔法を使い続けることができていたら、魔法学は決して閉じなかった。下賤な世俗の人間が自己の利益を追求した結果、魔法学は無理やり閉じた体系に押し込められた。魔法学は完成して閉じたわけではないのだ。
 だが閉じた魔法学を単にこじ開けるだけでは昔と何も変わらず、車輪の再発明にすぎない。そこで閉じた体系を再び開きつつ、同時に現代科学と旧来の魔法学を融合させる。それが現代魔法学。
 たとえ魔法を使えない今の我々にとって現代魔法学の実用性が皆無であっても、人類の学問への挑戦として十分な意義がある。
 ――でしょ?」

 長い演説をスラスラと述べるメルに、セレンは大層気を良くした。
「そう。たとえ世間が認めなかろうと、俺は学問の歴史を動かしたい。そこに俺が生きている意義がある。ほんの少しでもいい、止まった魔法学の歯車を動かしたいんだ」
 夏の心地良い夜風がセレンの頬を撫でる。
「うん、知ってるよ、メルは。お兄ちゃんが頑張ってるってこと」
 メルの髪が風でなびく。彼女は白く長い指で襟足を押さえる。
「そうか……」
 セレンは満足気にメルの横顔に目をやった。

 彼が言語学を専攻しているのには訳がある。研究生では食っていけないし、どこかの正社員になっていたら研究ができなくなる。
 そこでバイト生活をしているのだが、手軽にバイトをするなら工学より語学のほうが口があるのだ。主なバイト先は塾や翻訳会社などになる。
 アルカ全盛の時代とはいえ、この国には他に公用語がルティア語、凪霧、アルバレンと豊富にある。公用語が多ければそれだけ語学や翻訳の需要も生まれるというもの。
 400年前に自分と同じ名前の青年がアルカというこのありがた迷惑な国際語を徹底的に広めようとはしなかったおかげで、どうにか今の自分は飯を食えているというわけだ。

 西門を出ると、信号を渡ってすぐのところにフェリシア駅がある。皇族御用達の学校だけあって、堂々と専門の駅が用意されている。
 キャンパスから駅までこれほど近い学校もまずないだろう。小学校から大学まで全て同じキャンパス内に存在しているので、ほぼフェリシア専用の駅といってもよい。
 フェリシア駅はジャンクションではなく、幻環線しか通っていない。もっとも、事実上フェリシア校のために存在する駅なのだから、それは当然のことだろう。
 ジャンクションはひとつ離れたカリーズ駅だ。一旦ここで地下鉄の蒔蘿線に乗り換え、東カリーズ、ラゾーディンと進んで幻京橋で降りる。フェリシアから歩いて30分程度のところだが、電車だとぐるっと廻ることになる。

 駅の階段を登ると、二人は特に言葉を交わすことなく、歩き慣れた道を進んでいく。ふとセレンは沈黙が気まずくない間柄というのも良いものだなと感じた。
 幻京橋は都内ということもあり、地価が高い。駅周りに貧乏研究生が住めるようなところはない。駅から15分ほど離れた旧市街に入ると、ようやく彼を受け入れる貧民街が出迎えてくれる。
 いつの石でできているのか分からないようなボロいアパートに入ると、こつこつと音を立てて2階へ上がる。
 階段を登った右手は壁で、左手が廊下だ。メルはひとつ目の扉の前で立ち止まる。
「おやすみ」と言いながら、セレンはそのひとつ向こうの部屋へ歩いていった。
 ポケットから財布を取り出し、鍵を取る。旧来の、それこそ何百年も前からあるような金属製の単純な鍵だ。セキュリティのセの字もない原始的なロックだ。
 まぁこんなところに誰も盗みになど入るまいから、自分としては一向に気にしないが。

 中は6畳間の1Rで、ユニットバスな上に、申し訳程度のキッチンしかない。規制が緩まってからというものの、ワンルーム廃止法などもはやあってないようなものだ。このおんぼろアパートも元は2LDKだったものを1Rに仕切ったものだそうだ。
 部屋の中はいたって簡素。タンス、ベッド、パソコン、机、椅子。それくらいしかない。
 上着を脱いでポールハンガーに掛けると、手洗いうがいを済ませてベッドに座り込む。頭を壁に預けたら、コンという小さな音がした。
 となりのメルだ。この薄い壁一枚隔てた向こうには彼女のベッドがある。
 コンという音は断続的に聞こえてくる。壁を指でなぞるツーという音も聞こえてくる。
「お……や……」
 モールス信号だ。
「す……み――か。……まったく、メール全盛の時代に何やってんだか」
 セレンはくっくと含み笑いをすると、同じようにコンコンと信号を返した。


1991年7月27日午前

「いこっ、クエリ」
 少女リディアは羽の生えた白い子猫に呼びかける。すると彼女の声に応じるように、猫はパタパタと翼を動かして居間のテーブルから彼女の肩に飛び乗った。
「行ってくるね、お母さん」
 少し耳の遠い母ナルムに一声かけると、リディアは玄関のドアに手をかける。

 ここはサプリ。王都アルナの西にあるアシェルフィという街の更に西にある山間の小さな村。これといった名産品もない、ただの片田舎。
 リディアの家は簡素な木製で、玄関を入るとすぐ眼の前が居間になっている。奥にはキッチンや暖炉、それに彼女や両親の部屋がある。
 この村の典型的な平屋だ。辺鄙なところなので土地だけはいくらでもあるから、わざわざ二階建てにする必要もない。リディアの家は村の中でもはずれのほうだ。

 玄関を出ると目の前には小川が流れている。買い物に行くにはこの川を越えなければならない。橋はあるが遠いので、大きな石を跳んで渡る。慣れているので滅多なことでは落ちないし、水深が浅いので万一落ちても大したことにはならない。
 とはいえ大雨が来ると石の配置が変わるから、慣れないうちは転ぶことがある。シチューの材料を買った帰りに滑ってひっくり返り、野菜を流してしまったこともある。

 トントンと景気よく石を渡って川向こうに行き、村の中心部へと進んでいく。羽の生えた猫のクエリは飛べばいいものを、しっかり買い物かごの中に収まっている。
 村の中心部ではパンや野菜や肉や乳製品などが売られている。今日はシチューの材料を買いにきた。リディアの好物だ。

「おはよう、リディア!」
 彼女の姿を見るなり元気に挨拶してきたのはパン屋のコッペルだった。大柄で気の優しい男だ。
「おはよう、コッペルおじさん!」
 リディアも元気に挨拶を返す。

「お、リディアが来たのか?」
「リディアだって?」
「やぁ、リディア!」
 彼女の登場に気付くやいなや、市場の村人が寄ってきた。
「みんな、おはよう!」
 笑顔で挨拶をするリディア。どうやら彼女は相当この村の人間に愛されているようだ。

「今日は何を買いにきたんだい?」
 野菜屋の女店主グランゼが娘を見るような柔和な顔で語りかけてくる。
「シチューの材料よ。ニンジンとタマネギと……それからジャガイモ」
「はいよ。いいやつを選んでやるから待っといで」
 細身のグランゼがニンジンを前に舌なめずりしている横で、恰幅の良いシャイナが「牛乳もいるだろう?」とよく響く声で尋ねた。
「うん」
 リディアが買い物かごから瓶を取り出すと、シャイナは手際よく瓶に牛乳を注いだ。
「はいよ、今朝搾りたての新鮮な牛乳だ」
「ありがとう、シャイナおばさん」

「そうだ、桃が入ったから持っておいで、リディア。おいしいよ」
 甘い香りのする赤い実を差し出すグランゼ。リディアは満面の笑みを浮かべてお礼を述べた。
「これ食べると長生きできるんだよね?」
「そうさ。よく知ってるね、リディア」感心したようなグランゼ。
「リーザ先生が教えてくれたの!」えへへと笑う。

 野菜と牛乳の代金を支払うと、リディアは市場を去ろうとした。ところがふとそのときパン屋のコッペルの顔に陰りがあるのに気付き、首を傾げた。
「どうしたの、コッペルおじさん?」
「え」意外そうな顔。「なんだい、リディア。藪から棒に」
「おじさん、何か悩んでいるみたいな顔だったよ」
「分かるのかい?」感心した素振りを見せる。
「うん、分かるよ。おはなし、聞かせてほしいな」
 心配そうな顔をするリディア。この天真爛漫で純粋な性格が村人からの愛情を集めているのだろう。

「いやちょっとなぁ……」頭を掻くコッペル。「最近店からパンがちょくちょく消えるんだよ」
 コッペルは市場だけでなく店舗でもパンを売っている。むしろ普段はそちらで営業している。
「クエリじゃないよ」とっさに買い物かごを押さえるリディア。コッペルは髭を弄りながら豪快に笑う。
「そりゃクエリじゃないさ」そしてふと真面目な顔になる。「量から見て人間だろう。盗む時間もずらしているから知恵も回るようだ」
「この村に泥棒なんていないよ」鼻息荒く主張するリディア。そんな彼女をコッペルは愛おしそうに見やる。
「わかってるさ。多分旅人だ。可哀想に、こんな何もない山村に迷い込んじまったんだろう」
 リディアは左上を見つめ、「うーん」と唸った。「どうして泥棒さんが可哀想なの?」
「低い棚からしか盗まれてないんだ。だから多分盗ったのは子供だ。親とはぐれたか捨てられたかしたんだろう。それに、この村の子供はそんなことはしないって分かってるしな」
「うん、わたしもオヴィ君も絶対そんなことしないよ」つい友達の名が出る。

「放っておきなよ」シャイナが口を挟む。「どうしたって売れ残りは毎日出るんだから、少しくらいあげたって良いじゃないか」
「そりゃそうなんだが、盗みを覚えさせるのもどうかと思うんだよ」頬髭をぐしゃぐしゃと弄る。
 シャイナは肩をすくめ、「確かにね」と肯った。
「じゃあわたし、その泥棒さんを見つけたら、盗っちゃダメって言っておくね!」両手を胸の前できゅっと握るリディア。
 グランゼは苦笑混じりに「あんまり刺激するんじゃないよ。で、注意した後はどうする気だい?」と問うた。
「どうって……」リディアはうーんと考え、ぽつりと呟いた。「ウチでシチューを食べさせてあげるから、盗るのは止めてねって言うの」
 それを聞いた大人たちはカラカラと笑った。グランゼは「可愛いねぇ、リディアは」と言い、彼女の頭を撫でた。


 買い物を済ませて市場を去ったリディアは帰路についた。
 川の近くの開けたところに来たリディアは人影があるのに気付き、ふと歩みを止めた。
 それは一人の少年だった。ボロボロな格好で剣を腰に帯びている。
(あれ……こないだ夜に見かけた子だ)
 ふと脳裏にコッペルの話がよぎる。もしかしてパンを盗んでいた子供というのは彼のことだろうか。

「ねぇ……」
 リディアが声をかけると少年はびくっとして振り返った。先日の夜に話しかけたときとは様子が異なる。今回は見つかってしまったという顔をしている。やはりパンを盗んでいたのは彼だったようだ。
「貴方がパンを盗ったの?」一歩ずつゆっくりと歩み寄る。「一人ぼっちなの? 寂しいの? お腹空いてるの? ウチにシチュー食べにくる?」
 しかし少年は顔を恐怖で歪めると、言葉にならない奇声を上げて剣を抜いた。
「きゃっ!」
 リディアは抜き身の剣に驚いて、その場に尻餅を付いてしまった。しかしそれが逆に功を奏したのか、敵愾心がないことが彼に伝わったようだ。彼は怯えたリディアを見ると、戸惑ったような顔をして剣を収めた。

「あ……う……ぁ」
 彼は何か話そうとするが、言葉が出てこない。
「外国から来たの? アルバレンが喋れないの?」
 だがどうやらそういう様子ではない。彼はもどかしそうに喉と口を押さえながら、必死に何かを伝えようと呻く。
「声が出ないの?」近づいて恐る恐る顔を覗き込むリディア。一切水を浴びていないのか、強烈な体臭が漂う。だがリディアはそんなことはいちいち気にかけなかった。
「ぐあ……がう」
 声は出るらしい。だが言葉にならないようだ。
「もしかして……言葉を知らずに育ったの?」リディアは遠方を見る。「まさかそこのシオン山でこの年まで一人で生きてきたの?」
「う……があ……」
 だがそれなら剣を持っていることや服を着ていることが説明付かない。

「クエリ……どうしよう」
 リディアは買い物かごを開けて白猫に話しかけた。すると猫は答えるかのように「にゃーにゃー」と鳴いた。
「……リーザ先生のところに連れていけって? そうだね……」
 なぜかリディアにはクエリの言いたいことが分かる。子供のころからそうだ。物心付いたときからいつの間にかクエリは一緒にいた。そしてそのときから既に彼女の言いたいことがリディアには分かっていた。
「決めた。わたし、貴方をリーザ先生のところに連れて行く。ねぇ、一緒に来て」
 言葉で言っても分からないだろうから、彼女は彼の手を取った。彼は一瞬躊躇したが、泥棒として連行されるわけではないと悟ったのか、大人しくついてきた。

 ルートを変更して村の中心部に戻り、リーザの家にもなっている寺子屋に向かった。
 リーザはちょうど外にいて、リディアを見るなり「あら」と笑顔を見せた。しかし横の少年を見ると一瞬怪訝そうな顔をした。
 だが彼女から出た最初の一言は「……8日間か。思ったより逞しいようね」という意味深な言葉だった。

 リーザに招き入れられ、誰もいない教室でリディアは事情を説明した。リーザは特に驚いた様子もなく、まるで最初からすべてを知っていたかのような様子で彼女の話を聞いていた。
「ねぇ先生、この子どこの子なんだろう」
「さあねぇ、どこか遠いところなんじゃないかしら」くすくす笑う。
「見た目的にはカレンシア人っぽいよねぇ」
「でもアルバザード人の要素も入っていそうよ。混血で、随分可愛い顔をしてるじゃないの」

 しかし推論を重ねたところで結論には至らない。リディアは話題を変えた。
「それに、言葉をひとつも話せないみたいなの。どこの国の子でもないみたい。でも服も剣も持ってるし……」
「知識も知能もあるけど、言語だけを失ってしまったようね」さらりと告げるリーザ。
「え、そんなことってあるの?」
「場合によっては――ね」悪戯気にウインクをする。

 リディアは疲れたように椅子にもたれかかった。「コッペルおじさんに何て言おう……」
「コッペルさんには私から謝っておくわ」
「はい……。それで、この子はこれからどうすればいいのかなぁ」
「あぁ、それなら心配ないわよ。親もいないようだし、この寺子屋でしばらく預かることにするわ」
「ここで?」少し嬉しそうな顔をするリディア。同年代の友達が少ないので期待しているようだ。
「ご飯も食べさせてあげるし、勉強も見てあげるわ」
「良かった!」リディアはまるで自分のことのように嬉しそうな顔をした。

「でもまず彼にはこの国の言葉を教えなきゃね。全てはそこからだわ」ふと真顔になる。
「うん」頷くリディア。「でもその前にやることがあるよ、先生」
「なぁに? 水浴びさせるとか?」
「ううん……」リディアは少年の顔をじっと見つめる。「この子の名前を決めなくちゃ」
「あぁ」とリーザは手を打った。「それならリディアさんが考えてあげなさいな」
「え、わたし?」
 いきなり振られて悩んでしまう。
 
 リディアは腕を組んでしばらく悩み、やがて小さな桃色の唇を開いた。
「じゃあ……セレン君。喋れなくて静かだから、セレン君」
「セレン君ね、なるほど」リーザも納得した顔だ。

「決めた。貴方の名前はセレンよ、セレン君」
 きゅっと手を握る。何度か彼の目を見つめて「セレン、セレン」と繰り返す。しかし彼は事情が飲み込めてないのか、首を傾げるだけだ。どうも首を傾げるというジェスチャーは記憶しているし、アルバザードのものと同じらしい。

 リディアは自分の胸に手を当て、何度か「リディア、リディア」と言った。そして彼の方に手をやり、「セレン、セレン」と言った。この仕草でようやく意図が通じたらしく、彼は反芻するように彼女をリディア、自分をセレンと繰り返した。
「そう、貴方はセレン。わたしはリディア。よろしくね、セレン君!」
 リディアは優しい笑顔で語りかけた。


2011年7月27日午前

 セレンはフェリシア大の西門にいた。今日は三限からゼミがある。今はまだ二限をやっている時間だ。その後昼休みを挟んで三限となる。
 ゼミが始まるまでまだ時間がある。研究室に行っても良いが、普段ずっと篭っているので、できれば別のところで時間を潰したい。
 そこで、なんとはなしに池に降りてみた。草木の生い茂る土の道を進んでいくと、朱塗りの橋の上に誰かが寝込んでいるのが見え、ふと歩みを止めた。
 遠巻きに見たところ、それは子供だった。中等部の学生だろうか。いや、それにしては制服を着ていない。
「大丈夫か?」言いながら近寄る。
 よく観察すると、眠っているというよりは倒れているという感じだった。亜麻色の髪、水色のスカート、薄桃色のシャツと、ピンクの靴。年の頃は6, 7歳といったところか。

(……熱中症か?)
 さらに近寄って「おい、君」と肩を軽く叩く。すると少女は意識を取り戻したのか、薄目を開ける。思わず目が合う。かなり端正な顔立ちの子だ。セレンは無意識に身構える。
「貴方……だぁれ?」
 ささやくような声で尋ねる少女。子供とは思えぬほど儚げな表情に思わずどきっとする。
「ここの研究生だが……。君こそどこの子だ」
「わたし……」彼女はゆっくりと上半身を起こす。力が入らないのか、橋の柵に手をかける。「わたし……リディア」
「リディア?」
 よくいる名前だなと思った。
「そう、リディア……ルティア」
 そしてまたよくいる苗字だなと思った。

「それで……リディアちゃんはここで何をしてたの? 倒れてたみたいだけど」
「……覚えてない」寝ぼけ眼で首をゆっくりふるふるする。
「ここの学生?」
「ちがう」
「年齢は?」
「7歳。415年のディアセル生まれ」
「あぁ、それでリディア=ルティアか」なるほどと頷く。「お母さんとお父さんは?」
「……知らない。気付いたらここにいた……」
 呆けたような表情で予め用意されたシナリオを読み上げるかのように呟く彼女に、セレンは不信感を覚えた。だが同時にそれゆえに彼は彼女を警察に保護させるべきではないと判断した。
 20年前の記憶が彼の脳裏に蘇る。もし彼女と出会ったのがこの場所でなかったら、彼は速やかに警察に連絡していただろう。

「リディアちゃん、君、泊まるところは?」
「ないの」儚げに首を振る。
「そうか……」
 頭を掻くと、池に目を映す。
「……仕方ないな」
 セレンは彼女にそっと手を差し出す。
「その……行く宛がないのなら――」
 そして気付いたら不可解なセリフを吐いていた。
「――僕と一緒に来るか?」
「……」
 彼女は沈黙を返した。しかしその表情は用心でかたくなになっているわけではない。
 セレンが黙っていると、彼女は小さく唇を開いた。
「……その先には何があるの?」
 面白い聞き方だった。呆けた表情のわりに知性が高いようだ。
「多分――」
 問われて最初に出たのは変な言葉だったが、きっと素直な気持ちなのだろうと思い、正直に告げることにした。
「――多分、君が進むべき道……だと思う」
「そう……」
 彼女は静かに頷いた。
「お兄ちゃんの名前は?」
「セレンだよ」おじさんと呼ばれなかったことを内心喜んだ。「セレン=アルバザード」
「セレンお兄ちゃん……」
 リディアはそっとセレンの手を取った。
「来るかい?」
「いいの?」
「君が良ければ。とりあえず寝るところは用意できると思う」
「……ありがとう」
 微かにだが、彼女が微笑んだ気がした。

「さて……」セレンは池の時計を見て立ち上がる。「じゃあまずはメルに相談しないとな」
 レイゼンでメルを呼び出すと、階段を上がった広場で彼女を待った。
 リディアは広場の白い椅子で脚をぷらぷらさせながら道行く学生を見ていた。
 しばらくすると西一号館のほうからメルが走ってくるのが見えた。小脇には鞄を抱えている。
「お兄ちゃん!」軽く息が上がっている。「どうしたの、大事な話って。二限抜けだしてきちゃったよ」
「悪いな。ちょっと女の子を拾ったんで、相談しようと思って」
「…………は?」
 目を丸くしてリディアを見つめるメル。何がなんだかという顔をしている。無理もない。
「この子、リディアっていうんだ。池に倒れてた。孤児らしい。何も覚えてないそうだ」
「はぁ……」
 気の抜けた声で返事をするメル。
「それで、ウチの院で預ろうと思って」
「……本気なの?」
 思い切り怪訝な表情だ。もっともだとセレンは思った。
「うん、警察に届けるのは止めようと思う」
「どうして?」腕を組んでセレンを軽く睨みつける。当然の疑問だった。
「縁を感じたんだよ。20年前の俺と同じだったから。俺もあのときあそこで倒れていた。そして先生に拾われた」
 優しくて白くて暖かい手が彼の脳裏をよぎる。
「あのとき拾われなかったら、今の俺はない。だから俺も同じことをしようと思う」
 メルは小さくため息をつくと、「……じゃあ、院に連れてくってことね」と言った。
「話が早くて助かるよ」
「別に……。こういうときのための院だし」
 とはいうものの、やや戸惑い気味という顔だ。それはそうだろう。見も知らぬ少女を突然池で拾ったというのだから。
「じゃあ行こうか、リディアちゃん」と言ってセレンは彼女の手を駅まで引いていった。

 リディアはアンセを持っていなかった。現金も持ち合わせていなかった。運賃はセレンが支払い、幻京橋まで移動する。
 駅を降りてアパートとは逆方向に向かう。橋を越えて坂道を登ると、駅から15分弱のところに大きな館があった。古びた白さの館だ。
 正面の黒い門扉を開けると、きいっと音がする。中庭には草花が茂っている。
「ここはどこ……?」
 不安気に尋ねるリディア。
「風花院フランジェ。僕やメルが育ったところだ。僕らは孤児だったんだよ。今の君と同じ」
「風花院……風花院」口の中で何度か反芻する。
「今日から君の家になる」
「ここ、お兄ちゃんのお家なの?」
「いいや」セレンはリディアの手を引いて中庭を進み、玄関に手をかける。「もう住んでないよ。院長はリーザ先生」

 ドアを開けると正面はホールになっており、左右には階段があった。二階の階段奥の窓から明かりが差し込み、埃が輝くように舞う。
 一歩足を踏み入れた瞬間、古びた木と石の匂いが鼻腔をつく。
「こんにちは~」セレンの声が広いホールに残響を作る。「リーザ先生、いますか~」
 しかし返事がない。
「みんな留守かな?」メルが首を伸ばして二階を見たとき、後方から「あら」という声がした。
「セレン君にメルちゃん。今日は学校じゃなかったの?」
 振り向くとそこにはふわふわした金髪の綺麗な女性が立っていた。手には鉢植えを持っている。
「あ、先生。こんにちは。今日はちょっとご相談があって……」
 言われたリーザは見知らぬ来客に目を向けると、「その子のこと?」と察し良く尋ねた。

 それから彼らは二階の院長室に行くと、セレンはリーザに事情をひと通り説明した。途中、メルが紅茶を淹れるといって中座した。
 リーザは黙って聞いていたが、セレンの話が終わると紅茶をひと啜りし、「話は分かったわ」と言った。
「それで、大丈夫ですかね」
「別にウチは構わないわよ。孤児院ですからね」
「ありがとうございます。でも、ずいぶんあっさりですね」
 意外な表情のセレン。いくら孤児院とはいえ、ここまでトントン拍子に進むものだろうか。するとリーザは片目を開けてくすりと笑った。
「貴方が選んだ子なんでしょう? きっと何かの縁があるのよ」
「……感謝します」セレンは頭を下げた。
「よろしくね、リディアちゃん」
 頭を撫でるリーザ。リディアはぼんやりとした表情で目を上げる。
「はい、先生……」
「うん、挨拶はきちんとできるようね」

「さて、じゃあ私は彼女に院内を案内するとして、貴方たちは学校に戻りなさいな。授業があるんでしょう?」
「はい」
 立ち上がるセレンとメル。するとリディアが不安そうな顔でセレンの袖を掴む。
「……」
 無言でセレンを見つめるリディア。行かないでという顔をしている。
「大丈夫。僕らは休みの日はここに手伝いに来てるから、またすぐ会えるよ。それに先生はとても優しいから」
「……うん」
 不安な表情を残したまま、リディアはセレンの袖を離した。
「それに君を引き取ると決めたのは僕の意志だ。先生に宿は貸してもらうけど、君の世話はできるだけ僕が見る」
 メルはあまり表情を変えなかったが、複雑な心境でセレンとリディアを交互に見た。20年前の自分と記憶が被ったとはいえ、なぜセレンが突如見知らぬ子供を拾ったのか、まだその真意が掴めない。それに彼女がいったいどこの誰なのかという不信感もある。

 リディアをリーザに一旦託し、セレンとメルは風花院を後にした。
「あ、そういえば」
 幻京橋に戻る道で、ふとセレンは口を開く。
「どうしたの?」
「いや……初めてだなって思って」
「何が?」
「先生たち以外の人が孤児をあそこに連れてきたのって」
「確かに……」頷くメル。
「いつもどういう基準で孤児を選んでいたんだろうな」
 それは何だかとても大切な疑問に思えた。同時に、考えても到底分からない疑問にも思えた。


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