ルージュの月
1991年11月11日
リーザの寺子屋。夜。セレンは奥の部屋にいた。暖炉の前で椅子に座り、手を温めている。
「セレン君」と呼びかけながらリーザがやってきた。ことりとホットミルクを机に置く。
「ありがとう……ございます」と言ってセレンはミルクを手に取った。
リーザはすっと彼の後ろに立つと、そっと肩を抱いた。腕を伸ばして交差させ、彼の肩にかける。
「ねぇ、さびしい……?」
セレンは不思議そうな顔で彼女を見た。
「元の世界から来て、元の世界の言語を失って、食生活も何もかも異なるこの国で暮らして、家族も友達もいない」
しかしセレンはリーザの言葉が難しくて半分も理解できなかった。
「アルバレンも一から学ばなければならないし、剣もヴィードも鍛えなきゃいけない。大変よね」
「でも、それでも私は貴方に期待しているわ。貴方には使命がある」
「使命……」ポツリと言葉を返した。
「そう、使命。
……ねぇ、リディアのこと、守ってあげてね」
セレンは小さく頷いた。
「俺……リディア、守る」
「ありがとう。でも、どうしてリディアを守ってくれる気になったの?」
「リディア……俺を拾ってくれた。助けてくれた。だから俺、リディア、守る」
「……そう」
リーザは胸にぎゅっとセレンを抱きしめた。
リーザはセレンの目を見つめた。その目の向こう側に話しかけた。
「タイムリミットは決まっている。貴方は今日、ようやく掴んだ。でも今はできない。そのことが貴方を苦しめる。タイムリミットが来たとき、今度はもう掴めないかもしれない。その不安に貴方は苛まれる。今ならできるからこそ悩んでいる。でも今は時機じゃない。貴方にはやることがあるの、セレン君」
セレンは訳もわからずリーザの顔を見つめた。美しく強い顔だった。
2011年11月18日
風花院の一室で、セレンは目を覚ました。
目を開いたら、眼前には赤い顔のメルがいた。
「ん……。俺、寝てたのか。メル……何してたんだ?」
「えっ!?」どきっとする。「な、何も……」
「そうか……。なんで起きたんだろうな」セレンは窓から差し込む光に目をやる。「あぁ、明かりが眩しくて起きたのか」
「そ……そうね。きっとそうだよ」なぜか焦った様子のメル。
「なんとなく起きたときに耳がくすぐったかったんだが」
「えと……」もじもじする。「風が耳に入ったんじゃない?」
「窓閉まってるのにか?」
「あむ……。ふ、不思議だね」
「なんだか耳に息を吹きかけられたような感じがしたんだが」
メルは汗をかきながら、「ヘンな目覚めね」とぎこちなく言った。
「それより現代魔法学の本、どこに置いておけばいい?」
メルは2冊の本を手に持っていた。先月だかに自費出版した本で、今までの研究成果をまとめたものだ。
本当は商業出版できればよかったが、現代魔法学なんかでは商売にならないので自費出版しかありえない。
電子出版をしたが、一応紙にもしておいた。422年になってもまだ紙の書籍は完全に滅んでいないからだ。もっとも、今更レイゼンを使わず紙で読む層などかなり年配の者に限られるが。
「そこの棚でいいよ。適当に」
「自分の本なのにずいぶんぞんざいね」不思議そうな顔のメル。
「書籍化の目的はあくまで『いつ誰が何と書いたか』を国に保証させるためだからね。そんな本を実際に買って読む人間なんざロクにいるはずもないさ」
「つまり、お兄ちゃんは自分の研究成果を歴史に遺しておきたかったんだね」
「そう。ここ20年の研究成果をね。売上も売名行為もすべて俺にとってはどうでもいいことだ。要は自分が著作者であることを明示し、成果を歴史に刻みたかっただけだからな」と言って大きく伸びをする。
「でも、その本を出してからというもの、ある程度研究に区切りがついてしまったよ」
寂しそうな顔をするセレン。メルはそっと近付いて、彼の横にしゃがみこむ。
「生きる意味を見失ってしまった、とも言えるな」彼は日光に手を晒し、目を細める。
「……お兄ちゃんはまだまだこれからだよ。現代魔法学を……ううん、お兄ちゃんの凄さを他人に分からせるまでは」
「凄さ、ねぇ……」セレンはレイゼンを開く。自分のサイトを検索すると、1ページ目に公式サイトが出てきた。「現代魔法学といえばこの俺、セレン=アルバザードだ」
「そうだね」大きく頷く。
「6年かけてこの地位を築いた。逆に言えば誰もやらない分野だからこそ、たった6年でここまでのし上がれたわけだ」自嘲気味に笑う。
「そうだとしても、大変な苦労だったと思うよ」
「共感者も理解者も、もっといえば信奉者もいる。彼らのおかげで俺はもう十分満足できた」
「そうなんだ?」
「大学のころとは違う。あの頃は周囲から馬鹿にされるだけだった。今は理解者がいる。あの頃の恨みはもう果たした。もう普及に関するコンプレックスはない」
「とはいえ歴史に名を遺すという点で見れば、研究内容がアルカだけで書かれている事態は好ましくない。そこでサイトを訳してルティアや凪にも進出しようかと思った。だがそれは研究自体を進める行為ではない。
翻訳はあくまで現代魔法学でここまで研究を掘り下げた人間がいるということを世界の連中に告知できる程度のものでいい。細部に至るまで訳す必要はないし、その時間は研究に割いたほうがいい」
「そうだね」とメルは肯定した。
「ともあれ本を出して一段落着いたら、急に生きる意味を見失ってしまった。自分が何をすればいいのか分からない」
「でも肝心の研究がまだ伸びしろのある状態でしょう?」
「まぁな。だから、生きている。漫然とだがな。どこに終わりがあるのかも分からない道を歩んでいる」
メルはセレンの手をぎゅっと握った。
「現代魔法学をこれ以上一般人に広めるのは無理だ。普及という点ではもう伸びしろはない。
研究をこれ以上深めても仲間が増えるわけじゃない。難しい内容になるほど理解者は減るからな。
今後は孤独な戦いになる。それを思うと気が重い」
メルはうつむき加減で呟いた。
「お兄ちゃんのことを直接助けてあげることはできないけど、メルは支えになってあげたい」
するとセレンはポンポンと頭を撫でた。
「その気持ちで十分だよ」
「それとな」思い出したように呟く。「最近、ヘンな夢を見るんだ。起きると必ず右胸が痛む。悲しい苦しい夢だ。そして必ずある考えが浮かぶ。でもそれは今は決行してはいけないことで、かといっていざ将来になったら決行できるか分からない不安定なことなんだ」
「夢……」
「夢の主人公は俺なんだけど、俺じゃないんだ。もう一人の俺がいるかのような気分だ。でもその俺が物凄く苦しんでいるのは伝わってくる」
セレンは胸を押さえた。
「俺が感じたこともないような胸の痛みを、もう一人の俺が感じている。何年も、何年も。休むことなく」
「そのお兄ちゃんは今私が見ているこのお兄ちゃんにも関与しているの?」
「している、と思う。いや、むしろ彼こそが俺の本体なんじゃないかと思う。彼が耐えかねられなくなった瞬間、全ての計画が水泡に帰すんだと思う」
「計画? 誰の?」
「夢の中では知っているんだ。でも今は思い出せない。ただ、きっとこの世界を支えている誰かの計画だ」
メルは「そう……」と言ったきり、不安げな表情で目を閉じた。
「神の夢は不安定で移ろいやすい。いつ予定が変わるか分からない。リアルタイムで運命は刻命に変わっていく」
原文
|