2015/4/10 seren arbazard
高校の頃セレンはアルカを最も優れた言語にしたいと考えていた。比較言語学なるものがあると知って優劣をつけるための学問かと期待したが、父親に「あれはそういう学問ではない」と言われ、「じゃあそんな学問に何の意味があるんだ」と言い放ったことを覚えている。そして高校のうちに比較言語学について読み、なるほど自分の想像していたものとはまったく違うと思った。
高校の頃、セレンは言語に優劣の差があり、最も優れた言語があるはずだと考えた。その後言語学は言語に優劣の差を付けないということを読んで知った。千野栄一あたりが最右翼だったように思う。
かつて言語学は言語には優劣があると考えていた。白人至上主義なレイシズムに帰着したので、のちの言語学はレイシズム=悪という倫理の下、言語に優劣の差はないという見解を示すようになった。
しかしセレンは現代言語学を見ていて、何かレイシズムに対する過敏な忌避感があるなと感じていた。ドイツがナチについて過敏に忌避するように、言語学も言語の優劣について過敏に忌避していると感じた。
倫理上の問題があって現代言語学は言語間に優劣がないと強調しているだけで、実のところ言語に優劣の差はあるのではないかというのがセレンの考えだった。
たとえばフランス語の動詞の活用など、意味上は何の役にも立っておらず、すべて不定詞で話してもフランス人には伝わるし、実際フランスの子供は動詞の活用をなかなか覚えない。アメリカの子供も同様で、he playのような言い方をよくする。playsより短いし意味の違いもないのだからむしろhe playのほうが合理的である。
どの言語にもその言語ならではの妙なこだわりがあって、そのせいで学習効率が悪くなることがある。英独仏などの活用は運用効率を上げるわけでもなく学習効率を低めるだけである。この英独仏ならではの妙なこだわりのせいでこれらの言語の学習効率は下がっている。
イタリア語になると逆に活用だけで主語がわかるから主語が省略でき、活用で主語を明示できる。ここまで来ると活用に運用の合理性が現れるのだが、英独仏ではそうなっていない。
学習効率、運用効率など、ある側面についてのみいえば言語には優劣があるといえる。動詞の活用については独仏より英語のほうが学習効率が良いので、この点に関しては英語のほうが優れているといえる。
言語間に優劣はないという現代言語学の常識という建前に私は反対している。言語を作ってきた人間にとっては運用や学習の効率というのはとても気になるところで言語学者が似非人道主義で停滞している横で言語の設計屋は言語間の優劣を肌で感じている。作る人の視点にならないと見えてこないこともあるのではないか。
問題は、言語間に総合的な優劣をつけるのが難しいという点である。活用が不便な代わりに独仏はスペルから発音が分かりやすいし、中国語のように細かな量詞もないのでその分学習効率は良い。
活用が楽なのと量詞が楽なの、どちらが上だろうか。それは定量的に測れない。なので全体としてある言語が優れているかは判断しかねる。
では中国語のように活用が簡単でドイツ語のように読みやすい言語があれば、つまりあらゆる面で学びやすい要素だけを集めた言語があったら、それはあらゆる面で学びやすい要素だけを集めた言語があったら、それは優れた言語なのだろうか。
そういう言語は確かに学びやすい。しかし運用しやすいか、表現力は豊かかという別の尺度が入ってくるので、全体として優れた言語かどうかはわからない。そしてそもそも自然言語にはそのような全方向に学びやすい言語はない。
なので言語学は優れた言語があるとは言わない。
では人工言語ならどうか。人工言語であればどの方向性においても学びやすい言語を作ることができる。
しかし人工言語においても学習効率が運用効率と表現力より優先されるか不明なため、結局優劣は言えないということになる。
だが我々の直感は知っている。長い歴史のあるエスペラントと、今日思いついたばかりの人工言語があったら、この2つが等価とされないということを直感で知っている。
となると少なくとも人工言語においては優劣の差があるといえる。
では我々は何をもってインスタント人工言語よりエスペラントのほうが優れていると直感しているのだろうか。そもそも言語の出来を評価するパラメータはどのようなものか。学習効率、運用効率、表現力以外に、人工言語ならではの事情として、歴史(使用実績)、ユーザー数(話者数)、知名度、影響力、作り込み度、などが評価基準に入ってくる。
これらを踏まえて最も優れた言語は何かを考えると、人工言語独自の作り込みなどの要素は全て満たし、自然言語レベルにまでしてなおかつ学習効率、運用効率、表現力を良くした人工言語が一番優れているといえる。
自然言語はピジン化を意図的にでもしない限り、学習効率、運用効率、表現力をすべて良くすることができない。
なので最も優れた言語は人工言語にのみ存在するといえる。
ところがここで問題がある。しばしば学習効率、運用効率、表現力は互いに矛盾するパラメータなのだ。
エスペラントの繋辞はestasだが、これは英語のbe動詞と違って規則的なので学習効率は良い。しかしそのせいでisなどより語形が長くなってしまい、運用効率が低くなっている。
中国語の量詞もそうだ。中国の子供も小さいうちは何でも个を使ってしまいがちで、なかなか量詞を覚えない。
ならばと量詞をなくしたとして、学習効率は上がるが表現力は低下する。
フランス語の名詞の性もないほうが学習は容易だが、la tour(塔)とle tour(一周)の区別ができなくなるなど、運用効率は悪くなる。
このように学習効率、運用効率、表現力はしばしば互いに矛盾するので、学習効率、運用効率、表現力すべてを良くするというのは現実的でない。
そして学習効率、運用効率、表現力すべてを良くすることができない以上、学習効率、運用効率、表現力のうちどれかに特化するかバランスよく学習効率、運用効率、表現力のパラメータを並べるかしかなく、ゆえに最も優れた人工言語は作れないことになる。
存在自体が丸い四角のように矛盾的なのだ。
セレンらが手がけたアルカですら、学習効率、運用効率、表現力のすべてのパラメータをそれぞれほどほどにしたバランス型にすぎない。
数詞がカテゴリーでないため、学びやすいが、英語のfire(火)とa fire(火事)を区別しづらいという運用上の問題を抱えているし、かと思えば豊富な人称代名詞や文末純詞のお陰で喋っている人のキャラはよく表現できるがそれを覚える手間がある点で学習効率も悪い。
結局アルカもバランサーにすぎず、最も優れた人工言語とはいえない。