ランジュ – 2011年7月19日午後8時

※nias注:旧版からの移植記事です。

2011年7月19日午後8時

ただの強がりも嘘さえも、願えばいつか「ほんとう」になると思ったんだ。

あれからちょうど20年。
いつまで待てばいい?
いつまで願えばいい?
ここに来れば迎えに来てくれるんじゃないかって思ってた。

だから最初のときからずっと変わらず立っているあの時計を見つめながら、夜の八時を待ったんだ。
この池のほとりで。

光の中からでも、水の底からでもいい。
迎えに来てくれるのを期待して……。

――でも現実はこれだ。
目の前には八時を指す冷酷な時計と、何一つ変わらない世界。
報われなかった。
自分は、報われなかった。

それから30分ほどの間、セレン=アルバザードは朱塗りの橋の上で茫然と暗い水面を見ていた。
何かを期待しながら、ずっと池と時計を交互に見ていた。だが、何かが起こることはなかった。
ここフェリシア大学のほたる池は普段から人があまりいない。まして今は蛍のシーズンが終わったこともあり、一人きりだ。

今日で20年だ。20年前のあの日が思い出される。そして現在までの日々が走馬灯のようによぎる。
毎年だ。毎年この時間、ここに来ている。そして毎回、落胆している。
区切りのいい年ほど大きく落胆する。数に意味などないと知っているのに。
蛍はすっかり去って、居ない。セレンは焦燥感を顕わに池を離れた。

池とキャンパスを繋ぐ木の階段を登っているところで電話がかかってきた。
彼は右ポケットからレイゼンを取り出す。ちょうど先程まで音楽を聞いていたので、スピーカーは貼りついたままだ。
「もしもし」
彼はレイゼンをポケットに戻すと、階段を登りながら応える。
「あ、お兄ちゃん? 今どこ」
声の主は若い女の子だった。
「メルか。池だよ」
「池? なんでそんなところに……」
怪訝そうな声だ。無理もない。
「まぁいいや。じゃあ上がったところの広場で待ってて。私もすぐ近くだから」

セレンは「わかった」と言って電話を切った。
階段を登って数十秒もしないうちに、電話の相手がやってきた。
金髪に青い目をした白人ベースの綺麗で可愛らしい女性だ。22歳だが黄色人の血が混じっているため幼く見え、少女と言ってもいい見た目だ。彼女は鞄を小脇に抱えて歩み寄ってきた。
「おつかれ、メル」
メルはフェリシア大生だ。理学部の数学科に属している。今はもう大学院の博士課程で、大学生としては最終学年に当たる。
「一緒に帰ろ」
「あぁ」
二人は西門に向かって歩き出す。

「今日は白衣じゃないんだな」
歩きながら問うセレン。
「本来数学科は白衣を着る必要があまりないしね。お兄ちゃんは今日もゼミ?」
黙って頷くセレン。彼はこの大学のOBであり、現在は研究生をしている。
専門は現代魔法学。――といっても、そんな学問は世の中から認められていない。魔法学が盛んだったのは今から400年ほど前の時代、オーディン(rd)だ。
人類はrd以降、魔法の力を失ってしまった。それから機械文明が発達し、現在に至っている。科学全盛の時代に何の役にも立たない魔法学をやったところで、就職の役に立つはずもない。
確かにこのアルバザードという国には召喚省という政府機関がある。そこに入る人間にとっては魔法学も必須の科目だ。だがそれはあくまで古典としての魔法学であって、要は古典文学がテストに出るのと同じような扱いでしかないのだ。

「今は何を研究してるの?」
メルは落ち着いた優しい声で尋ねる。
セレンは現代魔法学が専門だがそんな学問は認められていないので、大学では古典としての魔法学や魔法工学を履修したりしていた。おかげで理系だったのに真当な科目を選択せず、大学院を出てもまともな就職先にはありつけなかった。
結局夢を捨てきれなかったこともあり、院生時代に就活を断念し、そのまま研究生としてゼミに残っている。気付けばもう30だ。

表向きの専攻は言語学だ。魔法学――とりわけ呪文学――と近い関係にある上に、学問の一分野として認められているからだ。
だが魔法工学などの兼ね合いから、理工系の分野にも手を出している。こちらは機材や試料に費用がかかるので、研究費にはいつも悩まされている。
人から専攻を聞かれたときは現代魔法学と答えたいところなのだが、毎度白眼視や奇異の目に曝されるのに飽き飽きして、今では言語学と工学と答えることにしている。
とはいえ本来言語学と工学は重なる分野ではないため、結局奇妙に思われることが多々ある。だから正直専攻を問われるのは好きでない。

「研究……ね」
セレンは自嘲気味に呟く。世間からすれば、存在を学会に認められていない分野など研究とはいえないだろう。せいぜい「趣味」だ。
本来、努力に貴賎はない。……はずだ。
だが実際はその学問が世に認められているかどうかによって、社会的な扱いに雲泥の差が出る。なんとも理不尽な話だ。
彼に対する社会の目は冷たい。しかしこの幼なじみの妹分は違う。彼女はセレンの努力を揶揄しない。「趣味」などと一刀両断せず、きちんと「研究」と認識してくれている。彼女は数少ない理解者なのだ。

「お前は現代魔法学の意義……俺のやっていることの意義が分かるか」
厳かに問うセレン。対照的にメルはあっさり「うん」と答えた。
「魔法学は閉じた学問体系。科学は開いた体系。今は確かに魔法を使えない人達が殆どを占める。だけど問題は実用性ではない。斬新性と高尚さ。魔法学は志半ばで潰えた学問。人が魔法を使えなくなったせいで無情にも切り捨てられてしまった学問。
もし人が魔法を使い続けることができていたら、魔法学は決して閉じなかった。下賤な世俗の人間が自己の利益を追求した結果、魔法学は無理やり閉じた体系に押し込められた。魔法学は完成して閉じたわけではないのだ。
だが閉じた魔法学を単にこじ開けるだけでは昔と何も変わらず、車輪の再発明にすぎない。そこで閉じた体系を再び開きつつ、同時に現代科学と旧来の魔法学を融合させる。それが現代魔法学。
たとえ魔法を使えない今の我々にとって現代魔法学の実用性が皆無であっても、人類の学問への挑戦として十分な意義がある。
――でしょ?」

長い演説をスラスラと述べるメルに、セレンは大層気を良くした。
「そう。たとえ世間が認めなかろうと、俺は学問の歴史を動かしたい。そこに俺が生きている意義がある。ほんの少しでもいい、止まった魔法学の歯車を動かしたいんだ」
夏の心地良い夜風がセレンの頬を撫でる。
「うん、知ってるよ、メルは。お兄ちゃんが頑張ってるってこと」
メルの髪が風でなびく。彼女は白く長い指で襟足を押さえる。
「そうか……」
セレンは満足気にメルの横顔に目をやった。

彼が言語学を専攻しているのには訳がある。研究生では食っていけないし、どこかの正社員になっていたら研究ができなくなる。
そこでバイト生活をしているのだが、手軽にバイトをするなら工学より語学のほうが口があるのだ。主なバイト先は塾や翻訳会社などになる。
アルカ全盛の時代とはいえ、この国には他に公用語がルティア語、凪霧、アルバレンと豊富にある。公用語が多ければそれだけ語学や翻訳の需要も生まれるというもの。
400年前に自分と同じ名前の青年がアルカというこのありがた迷惑な国際語を徹底的に広めようとはしなかったおかげで、どうにか今の自分は飯を食えているというわけだ。

西門を出ると、信号を渡ってすぐのところにフェリシア駅がある。皇族御用達の学校だけあって、堂々と専門の駅が用意されている。
キャンパスから駅までこれほど近い学校もまずないだろう。小学校から大学まで全て同じキャンパス内に存在しているので、ほぼフェリシア専用の駅といってもよい。
フェリシア駅はジャンクションではなく、幻環線しか通っていない。もっとも、事実上フェリシア校のために存在する駅なのだから、それは当然のことだろう。
ジャンクションはひとつ離れたカリーズ駅だ。一旦ここで地下鉄の蒔蘿線に乗り換え、東カリーズ、ラゾーディンと進んで幻京橋で降りる。フェリシアから歩いて30分程度のところだが、電車だとぐるっと廻ることになる。

駅の階段を登ると、二人は特に言葉を交わすことなく、歩き慣れた道を進んでいく。ふとセレンは沈黙が気まずくない間柄というのも良いものだなと感じた。
幻京橋は都内ということもあり、地価が高い。駅周りに貧乏研究生が住めるようなところはない。駅から15分ほど離れた旧市街に入ると、ようやく彼を受け入れる貧民街が出迎えてくれる。
いつの石でできているのか分からないようなボロいアパートに入ると、こつこつと音を立てて2階へ上がる。
階段を登った右手は壁で、左手が廊下だ。メルはひとつ目の扉の前で立ち止まる。
「おやすみ」と言いながら、セレンはそのひとつ向こうの部屋へ歩いていった。
ポケットから財布を取り出し、鍵を取る。旧来の、それこそ何百年も前からあるような金属製の単純な鍵だ。セキュリティのセの字もない原始的なロックだ。
まぁこんなところに誰も盗みになど入るまいから、自分としては一向に気にしないが。

中は6畳間の1Rで、ユニットバスな上に、申し訳程度のキッチンしかない。規制が緩まってからというものの、ワンルーム廃止法などもはやあってないようなものだ。このおんぼろアパートも元は2LDKだったものを1Rに仕切ったものだそうだ。
部屋の中はいたって簡素。タンス、ベッド、パソコン、机、椅子。それくらいしかない。
上着を脱いでポールハンガーに掛けると、手洗いうがいを済ませてベッドに座り込む。頭を壁に預けたら、コンという小さな音がした。
となりのメルだ。この薄い壁一枚隔てた向こうには彼女のベッドがある。
コンという音は断続的に聞こえてくる。壁を指でなぞるツーという音も聞こえてくる。
「お……や……」
モールス信号だ。
「す……み――か。……まったく、メール全盛の時代に何やってんだか」
セレンはくっくと含み笑いをすると、同じようにコンコンと信号を返した。

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