ランジュ – 2011年7月27日午前

※nias注:旧版からの移植記事です。

2011年7月27日午前

セレンはフェリシア大の西門にいた。今日は三限からゼミがある。今はまだ二限をやっている時間だ。その後昼休みを挟んで三限となる。
ゼミが始まるまでまだ時間がある。研究室に行っても良いが、普段ずっと篭っているので、できれば別のところで時間を潰したい。
そこで、なんとはなしに池に降りてみた。草木の生い茂る土の道を進んでいくと、朱塗りの橋の上に誰かが寝込んでいるのが見え、ふと歩みを止めた。
遠巻きに見たところ、それは子供だった。中等部の学生だろうか。いや、それにしては制服を着ていない。
「大丈夫か?」言いながら近寄る。
よく観察すると、眠っているというよりは倒れているという感じだった。亜麻色の髪、水色のスカート、薄桃色のシャツと、ピンクの靴。年の頃は6, 7歳といったところか。

(……熱中症か?)
さらに近寄って「おい、君」と肩を軽く叩く。すると少女は意識を取り戻したのか、薄目を開ける。思わず目が合う。かなり端正な顔立ちの子だ。セレンは無意識に身構える。
「貴方……だぁれ?」
ささやくような声で尋ねる少女。子供とは思えぬほど儚げな表情に思わずどきっとする。
「ここの研究生だが……。君こそどこの子だ」
「わたし……」彼女はゆっくりと上半身を起こす。力が入らないのか、橋の柵に手をかける。「わたし……リディア」
「リディア?」
よくいる名前だなと思った。
「そう、リディア……ルティア」
そしてまたよくいる苗字だなと思った。

「それで……リディアちゃんはここで何をしてたの? 倒れてたみたいだけど」
「……覚えてない」寝ぼけ眼で首をゆっくりふるふるする。
「ここの学生?」
「ちがう」
「年齢は?」
「7歳。415年のディアセル生まれ」
「あぁ、それでリディア=ルティアか」なるほどと頷く。「お母さんとお父さんは?」
「……知らない。気付いたらここにいた……」
呆けたような表情で予め用意されたシナリオを読み上げるかのように呟く彼女に、セレンは不信感を覚えた。だが同時にそれゆえに彼は彼女を警察に保護させるべきではないと判断した。
20年前の記憶が彼の脳裏に蘇る。もし彼女と出会ったのがこの場所でなかったら、彼は速やかに警察に連絡していただろう。

「リディアちゃん、君、泊まるところは?」
「ないの」儚げに首を振る。
「そうか……」
頭を掻くと、池に目を映す。
「……仕方ないな」
セレンは彼女にそっと手を差し出す。
「その……行く宛がないのなら――」
そして気付いたら不可解なセリフを吐いていた。
「――僕と一緒に来るか?」
「……」
彼女は沈黙を返した。しかしその表情は用心でかたくなになっているわけではない。
セレンが黙っていると、彼女は小さく唇を開いた。
「……その先には何があるの?」
面白い聞き方だった。呆けた表情のわりに知性が高いようだ。
「多分――」
問われて最初に出たのは変な言葉だったが、きっと素直な気持ちなのだろうと思い、正直に告げることにした。
「――多分、君が進むべき道……だと思う」
「そう……」
彼女は静かに頷いた。
「お兄ちゃんの名前は?」
「セレンだよ」おじさんと呼ばれなかったことを内心喜んだ。「セレン=アルバザード」
「セレンお兄ちゃん……」
リディアはそっとセレンの手を取った。
「来るかい?」
「いいの?」
「君が良ければ。とりあえず寝るところは用意できると思う」
「……ありがとう」
微かにだが、彼女が微笑んだ気がした。

「さて……」セレンは池の時計を見て立ち上がる。「じゃあまずはメルに相談しないとな」
レイゼンでメルを呼び出すと、階段を上がった広場で彼女を待った。
リディアは広場の白い椅子で脚をぷらぷらさせながら道行く学生を見ていた。
しばらくすると西一号館のほうからメルが走ってくるのが見えた。小脇には鞄を抱えている。
「お兄ちゃん!」軽く息が上がっている。「どうしたの、大事な話って。二限抜けだしてきちゃったよ」
「悪いな。ちょっと女の子を拾ったんで、相談しようと思って」
「…………は?」
目を丸くしてリディアを見つめるメル。何がなんだかという顔をしている。無理もない。
「この子、リディアっていうんだ。池に倒れてた。孤児らしい。何も覚えてないそうだ」
「はぁ……」
気の抜けた声で返事をするメル。
「それで、ウチの院で預ろうと思って」
「……本気なの?」
思い切り怪訝な表情だ。もっともだとセレンは思った。
「うん、警察に届けるのは止めようと思う」
「どうして?」腕を組んでセレンを軽く睨みつける。当然の疑問だった。
「縁を感じたんだよ。20年前の俺と同じだったから。俺もあのときあそこで倒れていた。そして先生に拾われた」
優しくて白くて暖かい手が彼の脳裏をよぎる。
「あのとき拾われなかったら、今の俺はない。だから俺も同じことをしようと思う」
メルは小さくため息をつくと、「……じゃあ、院に連れてくってことね」と言った。
「話が早くて助かるよ」
「別に……。こういうときのための院だし」
とはいうものの、やや戸惑い気味という顔だ。それはそうだろう。見も知らぬ少女を突然池で拾ったというのだから。
「じゃあ行こうか、リディアちゃん」と言ってセレンは彼女の手を駅まで引いていった。

リディアはアンセを持っていなかった。現金も持ち合わせていなかった。運賃はセレンが支払い、幻京橋まで移動する。
駅を降りてアパートとは逆方向に向かう。橋を越えて坂道を登ると、駅から15分弱のところに大きな館があった。古びた白さの館だ。
正面の黒い門扉を開けると、きいっと音がする。中庭には草花が茂っている。
「ここはどこ……?」
不安気に尋ねるリディア。
「風花院フランジェ。僕やメルが育ったところだ。僕らは孤児だったんだよ。今の君と同じ」
「風花院……風花院」口の中で何度か反芻する。
「今日から君の家になる」
「ここ、お兄ちゃんのお家なの?」
「いいや」セレンはリディアの手を引いて中庭を進み、玄関に手をかける。「もう住んでないよ。院長はリーザ先生」

ドアを開けると正面はホールになっており、左右には階段があった。二階の階段奥の窓から明かりが差し込み、埃が輝くように舞う。
一歩足を踏み入れた瞬間、古びた木と石の匂いが鼻腔をつく。
「こんにちは~」セレンの声が広いホールに残響を作る。「リーザ先生、いますか~」
しかし返事がない。
「みんな留守かな?」メルが首を伸ばして二階を見たとき、後方から「あら」という声がした。
「セレン君にメルちゃん。今日は学校じゃなかったの?」
振り向くとそこにはふわふわした金髪の綺麗な女性が立っていた。手には鉢植えを持っている。
「あ、先生。こんにちは。今日はちょっとご相談があって……」
言われたリーザは見知らぬ来客に目を向けると、「その子のこと?」と察し良く尋ねた。

それから彼らは二階の院長室に行くと、セレンはリーザに事情をひと通り説明した。途中、メルが紅茶を淹れるといって中座した。
リーザは黙って聞いていたが、セレンの話が終わると紅茶をひと啜りし、「話は分かったわ」と言った。
「それで、大丈夫ですかね」
「別にウチは構わないわよ。孤児院ですからね」
「ありがとうございます。でも、ずいぶんあっさりですね」
意外な表情のセレン。いくら孤児院とはいえ、ここまでトントン拍子に進むものだろうか。するとリーザは片目を開けてくすりと笑った。
「貴方が選んだ子なんでしょう? きっと何かの縁があるのよ」
「……感謝します」セレンは頭を下げた。
「よろしくね、リディアちゃん」
頭を撫でるリーザ。リディアはぼんやりとした表情で目を上げる。
「はい、先生……」
「うん、挨拶はきちんとできるようね」

「さて、じゃあ私は彼女に院内を案内するとして、貴方たちは学校に戻りなさいな。授業があるんでしょう?」
「はい」
立ち上がるセレンとメル。するとリディアが不安そうな顔でセレンの袖を掴む。
「……」
無言でセレンを見つめるリディア。行かないでという顔をしている。
「大丈夫。僕らは休みの日はここに手伝いに来てるから、またすぐ会えるよ。それに先生はとても優しいから」
「……うん」
不安な表情を残したまま、リディアはセレンの袖を離した。
「それに君を引き取ると決めたのは僕の意志だ。先生に宿は貸してもらうけど、君の世話はできるだけ僕が見る」
メルはあまり表情を変えなかったが、複雑な心境でセレンとリディアを交互に見た。20年前の自分と記憶が被ったとはいえ、なぜセレンが突如見知らぬ子供を拾ったのか、まだその真意が掴めない。それに彼女がいったいどこの誰なのかという不信感もある。

リディアをリーザに一旦託し、セレンとメルは風花院を後にした。
「あ、そういえば」
幻京橋に戻る道で、ふとセレンは口を開く。
「どうしたの?」
「いや……初めてだなって思って」
「何が?」
「先生たち以外の人が孤児をあそこに連れてきたのって」
「確かに……」頷くメル。
「いつもどういう基準で孤児を選んでいたんだろうな」
それは何だかとても大切な疑問に思えた。同時に、考えても到底分からない疑問にも思えた。

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