人工言語学事典記事:【俳優制限】

人工言語学事典記事:【俳優制限】

2016/3/29 seren arbazard

カテゴリー:音論

人工言語が文字で書かれている内は、その人工言語がどのような音声を使用しようと構わない。しかしその人工言語を喋る段階になると、喋る人がその言語の音声を発音できなければならない。
人工言語屋は普通少なくとも自分は発音できる音を選ぶ。そしてそのユーザーはしばしば彼らの母語にその音がなくてもその人工言語を喋れる。というのも人工言語屋や人工言語クラスタは一般に言語学や語学の教養があるためである。

人工言語界内で人工言語を使っている内は良いのだが、もしその人工言語が商用として採用されたりしてアニメ化やドラマ化や映画化やラジオ化など、音声を伴うメディアになった場合、しばしばまずいことになる。というのも、人工言語屋は俳優でも声優でもないのでプロの仕事ができず、アフレコ要員にすらなれない。逆に演技のプロは当たり前だがその人工言語を話せないので、その人工言語の音を正確に発音できない。
そういう理由で、映像化やラジオ化に関して人工言語は俳優の出せる音という制限を受ける。これを〈俳優制限〉とする。
2016年初頭の時点のドスラク語のWikipediaの日本語版では、ドスラク語は「俳優が発音しやすく学びやすい」という制約のもとに制作されたとある。俳優に音声のレベルから習得させ、アクセントやイントネーションまで完璧に真似させるのはかなり難しい。
ドスラク語はアメリカの『ゲーム・オブ・スローンズ』というファンタジードラマで使われた人工言語である。ファンタジー世界なのに現実のアメリカ人俳優が学びやすい音を選ぶという現実的な制約を受け入れている。映像やCGは素人目にも凄さがわかるので頑張るが、人工言語は素人目にはわからないので妥協する。こんなに金と時間をかけてすごい映像を作っているのだから言語の部分もきちんと俳優を教育して、音声もアクセントもイントネーションもしっかり訓練させればよいが、見えない部分には金をかけないということなのか、映像と人工言語の出来がチグハグになっている。『ラストサムライ』で渡辺謙の英語が良かったという評価を読んだことがある。『WASABI』でジャン・レノと共演した広末涼子のフランス語も日本人にしては良く出来ていたし、本人も2016に日曜シネマテークというラジオで「未だに台詞を覚えている。とても練習した」と述べた上で長尺の台詞を披露していて見事だった。自然言語はネイティブがいるので下手だと馬鹿にされるから、俳優もスタッフも頑張る。一方、人工言語は誰にも指摘されないので俳優を人工言語に合わせるのでなく人工言語を俳優に合わせる。こういう俳優の音という制限を映像化された人工言語は受ける。

セレンもまたこの問題に直面したことがある。ひとつは渡辺しまの『エスとエフ』という漫画に登場するパラディス語の制作を依頼されたことだ。このときはセレンもドスラキ語の作者のピーターソンと同じくこの漫画がもし売れてアニメ化された時に声優が困らないようという配慮のもと、日本人に発音しやすい音のシステムを組み上げた。
こうすると日本の声優の発音できる音という制約を受けてしまい、宇宙人の言葉っぽくなくなるが、それでも良いかと渡辺氏に問うたところ、構わないということなので踏み切った。あれはドスラク語と同様ご都合主義な商用言語であった。

もうひとつはセレンがアルカで制作した短編映画の『魔法堂ルシアン』である。主人公を演じるセレンは子役の経験があるからいいとして、物語のストーリー上、10歳ぐらいのアルカの話せる俳優が必要だったのだが、そういう女児が知り合いにいなかった。
アルカは女性は音素としては英語と日本語を話せれば問題ない。配役上、少女は黄色人種でなければならなかったので、英語が話せる日本人の少女を探した。
しかし2012年当時の日本では英語はふつう中1、12歳になってから習うものだし、発音もきちんと教えない。10歳で日本語・英語両方喋れる俳優の手配は難しかった。しかも日本語・英語両方話せるとしても、アルカ独特のリズムやイントネーションがあり、これも再現するとなるとほぼ絶望的だった。なのでシナリオ上は日本語に良く似た凪霧というカルディアの人工言語を母語とする少女ということにして、セレンはアルバザードの正しいアルカを、少女には方言のアルカを使ってもらうことにした。ところがこの少女がすごかった。

セレンは予めmp3に少女の台詞を標準語のアルカで吹き込み、その音訳をアルファベットとカタカナにしてtxtとともに少女に渡した。最悪、カタカナ発音でも良いと考えていた。ところが少女は音声とかのレベルでなく、セレンが吹き込んだ台詞をまるでオウムが人の言葉を真似るようにアクセントやイントネーションまで一緒にまるごと覚えて収録現場に来たのだ。当のセレンは台詞を暗記しておらずアドリブを入れて喋っていたのに、少女は全て暗記していた。もちろんところどころ発音の至らないところもあったが、彼女はすごかった。

こうして『魔法堂ルシアン』は「俳優の使える音がその人工言語を映像化やラジオ化したときの限界」という壁を破った世界初の例となった。それどころかそもそも人工言語のみで作られた映画(動画でなく)自体、これが世界初であった。しかし『紫苑の書』ほどその特長や新規性が世間からも人工言語屋からも評価されなかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です