2011年12月19日
いつも8時ごろに夕飯を食べるのに、今日はリディアが居間に降りてこなかった。
心配になったセレンは彼女の部屋に行く。ノックをするが返事はない。
「リディアちゃん……?」
ドアを開ける。鍵はかかっていなかった。
中は真っ暗。奥のベッドにリディアが横たわっていた。
電気をつけて近寄る。彼女は白い顔で冷たくなっていた。
「リディアちゃん?」
訝んで肩を揺らす。反応がない。セレンは焦り、頬に手を当てる。氷のように冷たかった。
「おい……」青ざめるセレン。胸に手を当て、心音を聞く。トクンと音がする。
良かった。死んではいないようだ。
居間に降りる。少女たちがセレンの重い表情を見て心配そうな顔をする。
メルも何事かと立ち上がるが、彼は彼女を制してリーザとミーファをリディアの部屋に呼んだ。メルや孤児たちを巻き込みたくなかった。
部屋に入ったミーファは深刻そうな顔になり、医者を呼ぶよう提案した。セレンもそれに賛同。しかしリーザだけが醒めた表情で「そのままでいい」と言った。
驚いた顔でリーザを見る二人。するとリーザは「医者には何もできない」と付け足した。
「どういうことですか」
「どういうも何も、これは病気じゃないから」しれっと述べるリーザ。
「病気じゃないなら何だっていうんです?」
「時間切れ、よ」あっさりと言った。「リディアちゃんはいつも眠り姫のようでしょう? それもそのはず。彼女には心がないのだから」
「心……?」
「正確には心の花」つぅとリディアの胸に人差し指をあてがう。「一番目は秋桜。二番目は紫陽花。合計9つの花で彼女の心は構成されていた。だけど彼女はそれを散り散りに失ってしまった。だから眠り姫のようにほとんど心を持たない人形のように過ごしていた」
セレンは口に手を当ててリーザの話に耳を傾けた。
「正確には彼女は8つの花を失っていた。貴方が夏に拾ったリディアちゃんにはたったひとつだけ心の花が残されていた。だからかろうじて生命活動を維持することができた。でもそれもそろそろ限界」
「限界って……」
「他の花を集めない限り、彼女はこのまま冷たくなってしまう」
「そうなるとどうなるんですか」
リーザは何も答えなかった。それはリディアの死を暗示していた。
「……その話が本当だとして、どうして先生はそんなことを知っているんですか」
リーザは振り向くと、くすっと笑って「さぁ?」と答えた。だがセレンはなぜかかえって合点がいった。なぜリーザが夏にあんなに簡単にリディアを引き取ることをよしとしたか。もともとリーザは彼女がただの孤児でないこと、何か事情を抱えていることを知っていたのだろう。もっとも、彼女が何を知っているのかセレンは皆目見当もつかないが。
ミーファは事情を知らなかったのか、整理するようにリーザに問うた。
「それで、彼女を本来あるべき姿に戻すにはあと8つの心の花を取り戻さなければならないんですね?」
「そうね」
「それでその……具体的にはどうすればいいんでしょうか」
リーザはリディアの胸に手を当てる。すると一枝の秋桜がすぅっと浮かび上がった。
「これが彼女の命を維持している花。もうだいぶ弱ってしまったけれど」
顎に手を当てるミーファ。「これと同じように紫陽花や金木犀がどこかにあるんですね?」
「そう。彼女の花はあちこちへ飛んでいって、人の心の中に入ってしまった」
「誰の……?」恐る恐る問うセレン。
「最初は世界中に散り散りに。やがて時間を経て心に傷を持った八人の少女の中へ。彼女たちの傷は花が癒してあげている。もし彼女たちの心を癒すことができれば、彼女たちは花を必要としなくなる。そうすれば花を彼女たちの体から取り出すことができる。リディアちゃんに返してあげることができる」
「八人の少女……ですか」突拍子もない話だった。「問題が山積していますね。まず八人を探すのが絶望的です。心に傷を負った少女など世の中にいくらでもいますから」
「その点は平気よ」リーザは部屋の中を見回した。「セレン君は何のためにこの孤児院があるんだと思っているの?」
「はい……?」的を射ないリーザの質問に首を傾げる。
「この孤児院には女の子がいるでしょう? イシュタル、ミルハ、コノハ、フェアリス。彼女たち孤児は皆心に傷を抱えている」
「……彼女たちの心の中にリディアちゃんの心の花があるってことですか?」
小さく頷くリーザ。
「しかしそれじゃまだ4人です。半分でしかない」
「あら、私たちは女の子じゃないの?」くすくすと笑う。「メル、ミーファ、リーザ。これで3人よね」
「先生たちの中にも……?」セレンは首を振る。「ちょっと待ってください。意味が分かりません。その言い方だとこの孤児院はリディアちゃんの心の花を持った子たちを集めるために作られた風に聞こえます」
「そういうことになるわね」
「時系列が無茶苦茶です。リディアちゃんが来るより前に彼女たちはここに集まっていたんですよ? そもそも先生が孤児院を建てたのは396年のことじゃないですか」
「あら、計算は合っているわよ。だってリディアちゃんが生まれたのは395年のザナの月ラルドゥラの日ですもの」
魔法学を専攻している関係で中世の歴史に詳しいセレンはすぐにピンと来た。その日付はオーディン時代の英雄リディア=ルティアの誕生日からちょうど400年後のものだ。
「つまり先生は彼女が英雄リディア=ルティアの転生したものだと言いたいわけですね。でもありえません。今は423年。彼女は7歳。彼女が生まれたのは415年。395年とは程遠い」
「それは彼女の外見から判断したことでしょう? 彼女は395年に転生をした。そしてそのままブランクを置いて、去年の夏にフェリシア大の池に7歳の姿で現れた。その間の彼女の動向は誰も知らない。なぜ7歳の姿になっているのかも」
考えがたいことだった。だが、リーザの言うことを正しいとすれば数の上での計算は成立する。395年にリディアが転生し、1つの花を残して8つの花を失った。396年にリーザは孤児院を建て、リディアの心の花を持った人間を集めた。――と考えれば辻褄は合う。そしてなぜ彼女がここまで事情に詳しいのかも納得が行く。
「仮に先生の言っていることが正しいとしましょう。というか今はそれを信じるしか道がない。――そうだとして、で、僕は一体何をすればいいんですか」
するとリーザはくすっと笑って向き直った。「単純なことよ。この孤児院の女の子たちの心の傷を癒してあげればいい」確かに単純だった。だが、恐ろしく難しかった。「さもなくば」リディアの胸に手を置く。「彼女はこのまま冷たくなってしまう」
「……」
リーザはセレンの手を握った。
「貴方が拾ったのよ。守ろうって思ったんでしょう?」
「……はい」静かにセレンは答えた。
リーザはリディアに毛布をかけると、部屋を出ようとした。
「ひとついいですか、先生」
「なぁに?」
「先生たちを入れても7人です。最後の一人は……」
するとリーザは小さな手を口元に当てて微笑んだ。
「いずれ分かるわ」