国際語論 1/2

2015/1/9 seren arbazard

本論では「理想的な国際語」について考察する。
そして「理想的な国際語」として人工言語アルカを提案する。

英語帝国主義

2015年現在デファクトスタンダードな国際語は英語である。英語のネイティブは当然英語を習得するし、英語圏の経済力、軍事力が強いため、英語はノンネイティブの間にも広まっていく。日本では義務教育として施されるし、貧困国では仕事のために英語を使う。
多くのノンネイティブは好きで英語をやっているわけではない。勉強や仕事など生活のためにいやいややっているものも多い。望んでやるわけでもないのにやらされる現在の世界。これを英語帝国主義とする。

英語帝国主義の問題は英語という特定民族の言語が他民族に対し支配的な立場を取ることにある。具体的に言えば、たとえば日本とアメリカにおいて、戦勝国の言語を国際語ということで敗戦国が学んでいるこの現状は、アメリカ人側を支配者層に立たせている。経済的、軍事的、政治的だけでなく、言語という民族のアイデンティティ上でも日本は英語を母語とするアメリカにマウントされている。
あるいは貧困国において観光くらいしかまともな外貨収入がない国の民などは生きるためにやりたくなくても英語をやるが、ここでも英語は彼らの母語に対し支配的な立場を取っている。

言語はその民族の一番大切なアイデンティティのひとつであるという前提に立つと、英語帝国主義の最大の問題は他民族に対する精神的な支配にあると言える。
つまり簡単にいえば不平等なのだ。
しょせんこの世は弱肉強食。弱い民族は強い民族に支配されるしかない。しかし経済や軍事や政治など日々の生活、つまり「体」は売っても、「心」や「魂」は売れない――そう考えるものもあるだろう。
「理想的な国際語」のレーゾンデートルとはまさに彼らのためにある。
体は売っても心は売らない。つまり「生きていく上では英語を利用するが、そんなもの「理想的な国際語」としては認めない」、そんな反英語帝国主義が本論の国際語論である。
すなわち、国際語論とは反英語帝国主義のひとつである。

「理想的な国際語」の条件

「理想的な国際語」はあらゆる民族の言語であってはならない。なぜなら特定の民族の言語を「理想的な国際語」にすると、そのネイティブとそれ以外のノンネイティブの間で言語的な、一種の精神的な支配関係ができ、不平等だからである。ゆえにあらゆる自然言語は「理想的な国際語」になることが本質的にできない。
そこで人工言語の出番である。「理想的な国際語」になりうる言語は本質的に人工言語のみである。

しかし人工言語には2つの類型がある。ひとつは自然言語から語彙などを借用したアポステリオリで、ひとつはそういった借用を一切しないアプリオリである。アポステリオリは自然言語からできているので借用元の言語の民族が一方的に支配的になってしまうという致命的な不平等があるため、「理想的な国際語」になれない。代表的なのはエスペラントである。エスペラントは西洋語のアポステリオリなのでこれを「理想的な国際語」として採用すると欧米人が支配的でアジア人や黒人の多くは支配される側という、現実通りの勢力図になってしまい、精神の虐待にほかならない。

ひとつアポステリオリで可能性があるとすれば、発想を転換して、あらゆる言語から借用を行うというアイディアが考えうる。しかし現実的にはこの案には問題が多い。
たとえば世界に5000の言語があるとして、そこから1語ずつ借用するというやり方だが、これだと話者が一人しかいない言語も一票持っていて、話者が10億人以上いる中国語も一票しか持たないことになり、到底平等とは言いがたい。
ならばと話者の人口比に合わせた配分にすると結局英語や中国語など現在強い言語を元に形成されるので英語帝国主義と大差ないし、少数民族が支配される側に回る点で不平等である。
そのため、あらゆる言語から借用するタイプのアポステリオリも「理想的な国際語」にはなれない。

しかるに消去法で残るのはアプリオリである。「理想的な国際語」にはアプリオリが相応しいと言える。

アプリオリの弱点

「理想的な国際語」に唯一相応しいアプリオリであるが、問題点もある。まず、どの言語からも借用しないということはたしかに万人にとって平等ではあるが万人にとってわかりづらい。それが弱点のひとつである。

しかし学習が難しいことは支配関係とは関係がないので、単にすべてのものが努力すればよいだけである。そもそも怠惰でいたければ母語と英語だけで暮らせばいいのだから。
「理想的な国際語」は魂の戦いなので、支配された飼い犬のような魂を売った生き方でいいのなら「理想的な国際語」などはじめからやらなくていい。怠惰に生きる権利を人は持っているのだから。
「理想的な国際語」は魂を売り渡したくないもののためにあるので、「学習するのが大変だから「理想的な国際語」に相応しくない」は逃げ口上にすぎない。
それにアプリオリはたしかに学ぶのが難しいが、かといって英語だって日本語から見ればアルカを学ぶ以上に難しいわけで、自然言語なら簡単でアプリオリなら難しくて手が出ないということはない。日本人がアラビア語をやるならアルカを学ぶほうが人工的に設計されている分何倍も易しい。

もうひとつアプリオリの弱点は「自然言語なみに使えるアプリオリ」を作るのに平気で何十年もの研究と実験が必要だということである。その期間中複数人の人間を一切金にならないアプリオリ作りに従事させるのはまこと至難の業である。
人を雇ったとすると莫大な額がかかるが、ビジネスにならない研究に金を出してくれる企業も銀行もない。なのでアルカの創案者であるリーザのような「金と動機を持った個人」しかできない。また、人を雇わない場合、完全にボランティアになるので、好事家を魅了することができるカリスマを持った人物が自身の人生をとして活動しなければ現実的に自然言語なみのアプリオリは作れない。その2つの面においてアルカは古~制までリーザに、制~新生までセレンという人材に恵まれた。
こうしてさまざまな人の努力が奇跡的に積み重なった結果、自然言語なみのアプリオリが何十年という研究と実験によってようやくひとつ生まれる。
科学者はよく分かるだろうが、機械やプログラムを「理論上うまく働く」ように設計して作ったとして、それがうまくいくことはほとんどない。試行錯誤の後、ようやく機械やプログラムは回るようになる。自然言語なみのアプリオリも同じで、アルカと同じように一見見える作りの人工言語を作ることは個人が数年かければ作れるが、それを実験して実用に堪えるようにまで磨き上げるのは長い期間を要する。体裁だけ繕ってもプログラムがうまく回らないのと同じく、言語としては機能しないのである。
すなわち、それだけ自然言語なみのアプリオリの存在は稀有であり、2015年現在そのような言語はアルカしかない。アルカは初代、先代、古、制、新生、俗と続く人工言語シリーズであるが、どれももともと「理想的な国際語」として作られたものではない。ただ30カ国以上のユーザーによって制作・使用されてきた20年以上の歴史の中で、自然と世界中で使える、世界の様々な民族の間で意思疎通が可能な言語へと磨かれていって、結果的に「理想的な国際語」らしきものへとなっていった。
なぜ「らしき」なのかというと、あくまで現行の俗幻はカルディアという架空の世界で使われる言語という芸術言語として作られているからである。アルカはこのままでは「理想的な国際語」になれない。チューンアップが必要である。そして「理想的な国際語」用に調整したアルカを世界語アルカ、ないし結幻(ゆうげん)と呼ぶ。これが「理想的な国際語」としてのアルカである。

アルカはもともとカルディアの言語だが、現実でも使うことができるし、実際に使われている。カルディアではアルカは「理想的な国際語」であり、人工言語でもある。つまりもともと「理想的な国際語」としての素地を持っている。それを現実世界で実際に使おうというわけである。
アルカはアルバザードという異世界の国の言語であり、俗幻はそれを反映している。つまり俗幻はアルバザードのローカル言語である。
結幻はこの俗幻にチューンアップを施し、「理想的な国際語」として使えるようにしたものである。たとえば俗幻には個性を表す位相が豊富だが、結幻にはない。またアルバザードの文化を反映した表現も漂白されている。

人工言語の発展と「理想的な国際語」への誤謬

人工言語の発展は「音→文法→語彙→文化→構文→語法→認知法→表現法」の順で起こる。ほとんどの人工言語は語彙までで止まる。そのため、人工言語クラスタの多くは「音、文法、語彙」だけで人工言語の出来を評価しようとするが、これは素人のやることである。
これらはビギナーズフォーカスで、特に「音、文法、語彙」について延々議論している間はいつまで経っても人工言語のビギナーにすぎないし、驚くことにカリスマが啓蒙しない限り何十年も人々はこの三大ビギナーズフォーカスのみに目を向け続け、一切発展しない。まさに人工言語の害悪である。
なぜこの3つで思考停止するのかというと、エスペラントがこのレベルで終わっていて、人工言語でエスペラントしか知られていないからであろう。アルカが浸透していれば一番上の表現法まで議論できるのに。
こういう素人の言うことには幅がなく、たとえば「アルカにはr,l,cと3つもラ行があるから難しい言語で「理想的な国際語」に相応しくない」とかそういうのが最も散見される素人考えである。俗幻はともかく、結幻はr,l,cを区別できなくても構わない。各民族がそれぞれ類音を用いればよい。

しかしなぜ人工言語クラスタはエスペラント以外の人工言語も知っているのにそれでもなおこの三大ビギナーズフォーカスに留まるのだろうか。それは彼らが言語を実際に作ってかつそれを運用しないからである。もしアルカのように多民族間で使用したら互いの文化が違うことによる意思疎通のできなさや、「手というと腕も含むのか」や「水はお湯も含むのか」などといった語法の違いに気づく。水をeriaとしよう。日本語話者は冷たいものをプロトタイプとして想定する。完全に日本語の水の語法のままeriaを捉えている。しかし英語話者はcold waterもhot waterも区別せずeriaと思う。なので熱いお湯を指して平気でeriaということがあり、日本語話者は冷たいのかと思ってうっかり触りそうになって危ない思いをすることがありえる。手を振れというので腕ごとブンブン振ったらち「違う、それは腕だ」と言われて、ようはバイバイのジェスチャーをしろと言っていたのかと気付かされる。セレンらの人生はいつもこんな感じだった。こういう文化や語法の違いによる、異なる母語を持つ相手と意思疎通することの難しさを10歳の頃から嫌というほど叩きこまれ、かつその集団の中でアルカという人工言語を使って生きてきたわけだ。こういう経験をすれば嫌でも人工言語を進化させていく際に文化や語法といったビギナーズフォーカス以上のレベルに目を向けなければならなくなる。セレンが特別賢いのではなく、素人との決定的な違いは人生経験である。人工言語の経験値が圧倒的に異なる。しかしその体験をしなくとも読者はセレンの記録を読んで追体験すればビギナーズフォーカスを超えることができる。E=mc^2を発見するのは難しいが、習う分には高校生でもできるのと同じである。しかし異民族との間で人工言語を磨き上げるというレアな体験をしているのは世界広しといえどセレンだけであろうから、この体験を追体験せよと言われてもなかなか理解するのが難しく、啓蒙されずにビギナーズフォーカスから抜け出せないものも残存しているのが実情である。セレンの啓蒙活動が人工言語クラスタの――ひいては人工言語界の民度を向上させることを切に期待するものである。

・音素は少ないほうがいいという誤謬

よくある国際語論の誤謬にこれがある。エスペラントやアルカはl,rの区別があるから、l,rを区別しない日本語にとって不都合でだから「理想的な国際語」に向かないと。そこで人々はこう考える。最も音韻が少ない言語はなんだろうと。その言語に合わせればどの民族にとっても発音できるので平等だろうと。発想としてはクラスで一番点数の低い生徒に授業を合わせているだけで、底辺以外には迷惑なだけだし彼らにとって不都合なので平等ではなくなる。大事なのはクラスの中間、平均に合わせて授業をすることで、平均値を取るほうが全成員から見て不都合さが平等になる。下に合わせようとするものの伝家の宝刀がロトカス語であり、よく引き合いに出される。ロトカス語は音素の最も少ない言語であり、なるほどこの言語の音素に合わせればおよそすべての民族にとって発音可能な言語になるかもしれない。しかしこのロトカス語は音節数が少ないので一つ一つの単語が長く、ひどく冗長である。いくら学習が容易でも「学ぶは一回使うは一生」である。運用が非効率ではとても「理想的な国際語」として相応しくない。学習と運用はバランスが大事である。実際のところ、音素は多くも少なくもない平均的な数が「理想的な国際語」には相応しい。エスペラントやアルカはちょうどいい塩梅であるといえる。そもそもアルカの音をすべて発音できなくてもアルカは使える。そのことはアルカの映画で日本人の少女がアルカを話していることからも実証されている。「理想的な国際語」に完全な発音は求められていないし意思疎通できれば十分である。

・SVOかSOVか

音素の問題と並ぶのがこの議論である。エスペラントやアルカはSVOであるがSVOは全言語の約4割でありSOVは約5割もいるからSVOなエスペラントやアルカは「理想的な国際語」に相応しくないというものである。それを真に受けたものがSVOにもSOVにもなれる言語を設計したが、ついぞ流行らなかった。むろんSOVを採用してもSVO勢から批判される。正直SVOだのSOVだのは文法のしかも一番入口の部分で設計することである。そのレベルで議論が止まっているのは議論ばかりしていて作業を全然しないからいつまで経っても次のステップへ進めないためである。「理想的な国際語」にとって語順はどうでもよい。語順をSVOにしたら「私は愛するあなたを」という文を見てもただの倒置でしかないことからも分かるように、人間にとって語順は瑣末な問題にすぎない。「理想的な国際語」としてはSVOだろうがSOVだろうがどうでもよい。ただ異様に語順に拘って先に進もうとしない者にとってはアルカのように語順が自由な言語を示しておくといいかもしれない。

・語彙が少ないほど簡単で「理想的な国際語」に相応しいという誤謬

音、文法と来て三大あるある底辺議論が語彙である。三大ビギナーズフォーカスに相応しい。人工言語学研究会の工学言語のところで論破しているのでまずそちらを参照されたい。「理想的な国際語」としては覚えるのが簡単なほうが相応しいという考えは完全には否定しない。もちろん学習が簡単なほうがよい。しかし長年の経験を積んだ言語屋は学習と運用の効率はしばしば反比例することを知っている。学習を容易にすればするほど運用効率は一般に悪くなるという法則がある。この法則のことをセレンの法則と呼んでおく。トキポナやベーシック英語が好例で、トキポナは解釈が多すぎて意思疎通がしばしばできないし、ベーシック英語は表現の幅が狭すぎる。また少ない単語で複雑な概念を表現するので難しい文を言おうとするとやたら冗長になるか多解釈を許す羽目になり、運用効率が悪い。しかし語彙はビギナーズフォーカスのひとつなので「学ぶは一回、使うは一生」という教訓を肌身に感じていない素人はあっさり騙される傾向にある。そもそも自然言語を見ればわかるが、単語が少ないほうがいいのなら自然言語もそのように発展しているはずである。しかしそんな言語はひとつもない。ピジン英語ですらクレオール化とともに単語はむしろ増えていく。それはある程度の語彙がないと円滑なコミュニケーションができないことの証左である。というわけで語彙について、少ないほど簡単で「理想的な国際語」に相応しいというのが誤りだということがわかった。語彙に関しては自然言語と同じ程度、基本語で2000~3000、日常生活で8000~15000程度の語、専門用語を入れて中型辞典の5万~10万程度の語彙があればいいことになる。

以上が音、文法、語彙のあるある議論だが、この3つのビギナーズフォーカスで止まっている人口が多いため、有名な人工言語もこれらの議論で止まっているものが多い。これらの議論をテーマにした人工言語はいわば「売れる商品」だからである。トキポナ、ロジバン、ベーシック英語など有名どころが多い。

・テンスやアスペクトや論理関係を細かく表現できるほうが「理想的な国際語」に相応しいという風潮

ロジバンがこれにあたるが、よく考えてほしい。なぜ5000もある自然言語は適度な大雑把さを持った表現しかせず、ロジバンなみに細かい表現をしないのか。それはひとえに必要性がないからである。人間は自然言語を見れば分かるように、細かすぎる表現は避けてある程度のファジーさをもたせる傾向にある。なぜそうかというと、制アルカの時相詞のシステムが崩れたのと同じで、細かすぎる表現は冗長になるか聞き間違いに弱いかのどちらかで運用効率が悪いからである。たとえば制アルカの場合、テンス、アスペクト、ムードをすべてVCひとつで表現していた。ax,ix,ox,ex,uxですべて意味が劇的に変わる。こうすると多用な時相法を効率よく表現できるが、これを8年運用した結果、聞き取りにくく意味を取り違えやすいということが体験され、結局制アルカのこの時相詞というシステムは滅んだ。かといって語形を長くすればよいかというと今度は逆に冗長になり使いにくくなってしまう。そもそもあまりに時相法を細かく伝える必要が現実にはないのだ。現実ではいくつかの時相法が頻出し、それ以外は稀である。したがって言語のほうとしても頻出するものに短い語形をあてがって、そうでないものは迂言法で示すようにしたほうがよい。そして実際自然言語はそういうふうになっている。論理についても同じで、いちいち論理学の式のように細かい論理構造を表現しなくても人間は常識によって論理構造を理解するので、普段から過論理に喋ることはただ文が冗長になるだけで運用効率が悪い。普段は常識に任せ、必要に応じて迂言法で論理を示せばよく、そのためロジバンのレーゾンデートルが危ぶまれる。あれで工学言語としては結構だが、「理想的な国際語」にはなれないし、なる気もないだろう。
アルカは自然言語と同じく常識によって分かるところはいちいち論理関係を説明せず、効率よく情報を伝達する。その一方で細かい論理関係を表現しようと思えばそれはそれで可能というシステムになっていて、「理想的な国際語」に相応しいと言える。

「理想的な国際語」として相応しい言語とは

・有文化(地方)表現と脱文化(国際)表現

セレンが述べたように、言語と文化と風土は不可分であり、言語は文化や風土から影響を受ける。俗幻の場合、アルバザードの文化と風土を反映して芸術言語として高めていけばいい。これを有文化(地方)表現と呼ぶ。一方、「理想的な国際語」としてはそれではまずい。特定文化や風土に肩入れする訳にはいかないからである。そこで文化的な表現を漂白して全世界で使える表現、すなわち脱文化(国際)表現が必要となる。俗では狼は統率のとれた兵士を示すが、「理想的な国際語」にはこの用法はない。俗では虹は四色だが、「理想的な国際語」としては各地域ごとに色数を決めさせる。中には何色かを気にしない地域もあろう。太陽もフランスは黄色で日本語は赤でアルバザードは白だが、「理想的な国際語」としては各地域に色を定めさせる。つまり「理想的な国際語」としては太陽の色を指定しない。siblingを長幼や男女で分けるかも地域に任せる。長幼男女を一切区別しない地域ではkoomという語を使えばよく、逆にそれらをすべて区別する地域ではalserなどを使えば良い。アルカは語法が豊富で、様々なニーズに応える懐の広さがある。このようにして特定の地域の文化や風土を押し付けない脱文化的、国際的表現がアルカには可能であり、「理想的な国際語」として相応しいと言える。エスペラントは兄と弟を区別しないという西洋の見方をそのまま反映したfratoというので、西洋の有文化的・地方的表現であり、「理想的な国際語」として相応しくない。エスペラントを採用すると西洋人の世界観をアジア人らが押し付けられてしまうからである。

・構文は少ないほうがよい

人工言語学研究会の構文論を参照のこと。構文が多いとその分特別な言い回しを短く言えるメリットがある。C言語などを見ても同じことが言える。ただ構文については少なく絞ったほうがよい。この2点について説明しよう。
まず構文が多いと短く言えることについて。たとえばI gave him an appleという二重目的語構文(SVOO)はI gave an apple to himというSVOの構文より有標な構文だがより短く合理的である。しかしデメリットとして構文を覚える手間がかかる。「学ぶは一回、使うは一生」なので覚える労力については実はどうでもいい。問題は使う際に選択肢が多いと民族によって使う構文が異なってしまい、事実上別の言語を喋っているかのように見えてしまうことである。日本語話者はSVOOがないのでSVOのほうを使いたがるだろう。ここにきて英語話者がSVOOで話したら異なる言語を使っているように見えるという問題がある。兄とfratoのように意味が異なればその差自体に意義があるのだが、SVOもSVOOも同じことを意味するのでは話が違う(もっともSVOOとSVOは英語では同一の意味ではないのだが、今は英語の話をしているのではないからその差は捨象する)。構文が幾つもあると同じことを何通りにも言えてしまう。プログラミング言語でも同じで、C言語ではc=c+1と書いてもc++と書いてもまったく同じことを意味するが、同じ意味なのに民族によって使う構文が異なるとコミュニケーションが取りづらい。プログラマーでもc++と書くことに慣れている人が他人のソースコードを読んでc=c+1とあったら違和感を覚える。そして実際プログラミングの世界では複数人でひとつのコードを組むときは「インクリメンタルはc++で統一する」というように構文の統一を図って互いにコミュニケーションすることが多い。この実情を見るに、「理想的な国際語」においても同じことを意味するのであれば構文には多様性を持たせないほうがコミュニケーション上有利ということになる。さてアルカであるが、30ヶ国以上の人間の間で使われてきたことから自然と複数のプログラマーがひとつのプログラムを組むときのようにやはり構文についても必要最小限に抑えるように進化してきた。原則アルカの構文はSVOしかなく、あとはそれの派生系である。tu et ~ xel ~など格詞と組み合わせた派生構文で賄っている。選択の幅が狭いのでどの民族も同じ構文を使うようになり、意思疎通がしやすい。
さてもうひとつの「単語に豊富な表現法の役割をあてがう」件についてだが、これも疎明する。日本では「~せざるをえない」という意味を示したいときは左記のように基本語を組み合わせた成句的な構文を使って表現する。英語ではI can’t help doingとなる。英語もまた日本語と同じく成句的な構文を使って表現する。そういう例が日本語にも英語にもたくさんあるので互いの言語を覚える際に非常に苦労する。いっそI can’t help doingを意味する前置詞なり副詞なりがあれば便利なのに。この長たらしい構文を一語にカプセル化できたらいいのに。そう思う人もいるだろう。セレンらがまさにそうだった。アルカでは一部の単語はプログラムにおける関数だと考えている。長たらしい処理をひとつのカプセルにまとめた関数だ。たとえばアルカではI can’t help doingをvelantというたった一語の副詞で表現する。これを動詞の後につければ「~せざるをえない」という意味になる。I can’t help doingという組み合わせを覚える労力を使って動詞という語を覚えればコンパクトにまとまり、覚えねばならない構文もひとつ減る。しかもこのvelantという語はそもそも名詞として「一本道」という意味を持ち、それをメタファーして「~せざるをえない」という語義を与えているわけであり、認知言語学を実践したシステムになっている。つまりvelantという語はどのみち「一本道」という名詞を覚える際に必要なのだからこれを副詞としてリサイクルすれば新たに単語を覚える手間さえかからず構文をひとつ減らした関数ができるとセレンらは考えたのである。こうしてアルカは労少なくして構文をカプセル化することで減らし、覚えやすく使いやすいという、言語において稀有な状態を作り出すことに成功した。
以上2つの点において構文はできるだけ減らすべきであるし、原則SVOという構文しか持たないアルカは「理想的な国際語」として相応しいと言える。

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