2015/4/10 seren arbazard
20世紀までの人工言語はアプリオリな人工言語と言ってもアプリオリな部分はせいぜい音、文法、単語くらいのものでしかなかった。
2005年にセレンが人工言語論を打ち立てたあたりから、あるいは1991年からアルカを作り始めたあたりから、他の要素も人工言語には必要ということがわかってきた。
セレンはまず「文化」「風土」(つまり「世界」)が言語に影響を与えるので、これらも検討すべきと述べた。世界の必要性はサピア=ウォーフのころから言語と文化の相対性について言及があったので理解されやすかった。
アメリカのM.Rosenfelderでもこの程度のことは気付いていたようである。
しかし、人工言語には世界以上のものが必要で、それを認識しているのは2015年現在セレンらしかいないようである。というのもアルカ以外の人工言語には以下の要素が考慮されていなかったためである。
その要素とは、「語法」や「認知」や「語用論」である。
たとえば日本語の唇には唇の下を含まないが、英語のlipは含む。
頭にものを乗せて所有している動作を英語ではhave、日本語では持つといえるが韓国語では「のせる」と表現し、持つと言わない。
名詞にしても動詞にしてもあらゆる語の語法が定義されていないと、ない部分というのは人工言語の世界ではユーザーが勝手に自分の母○○で埋めてしまうものなので、アプリオリな人工言語といえなくなってしまう。語法は文にして説明しても例文の中で示しても構わない。アルカの場合はユーザーがアルカの語法を共有していたので明文化する必要が2013年まではなく後者のタイプだった。
「認知」も重要で、昼ドラみたいな展開を日本では「ドロドロした」と擬態語で表現する。泥などのドロドロした感じがドラマにも見えるということでドロドロと形容している。これは日本語の認知による表現である。
「国道16号は埼玉県を走っている」の走るも人間の目線の走査を認知的に表現している。目の走査機能はどの人類も持っているが、道が走ると表現するかどうかは言語ごとに異なる。
人の認知器官は互いに同一だが、認知を言語に反映させるさせないのポイントは言語ごとに異なるし、反映の仕方もひと通りではない。
なので人工言語はその言語専用の認知表現を備えていなければならない。
その認知がアプリオリかアポステリオリかは問わない。とにかく何かしら指定しておかないとユーザーが母認知でその言語を運用してしまう。
そうなると多国籍で話したときに必ず齟齬が生じる。
そして残るは語用論である。
日本語としては「一部の人は桜が嫌い」でも「桜が嫌いな人もいる」でもよいし非文でないが、日本人ならみな必ず後者が自然と答える。
同じ事柄をどのように表現するか、どの言語も複数の言い方が可能である。しかしどの言い方が自然かとなると語用論の分野になる。
ということは人工言語は語用論についてもアプリオリなりアポステリオリなりとにかく独自の語用論を備えていなくてはユーザーが母語用論を援用してしまうのでアウトだ。
日本語は「台風が窓を割った」とも「台風で窓が割れた」とも言えるが後者のほうが自然である。それは日本語が英語と違って無生物主語を好まないというところから来ている。
こういう「自分の言語はどのような理論の言い回しを好むか」つまり独自の語用論を考えなくてはならない。
しかし、2015年現在、「語法、認知、語用論」まで独自のものを必要とするという考えはアルカ以外に見られない。
人類はまだそこまで到達していないのだ。
人工言語である以上、というか言語である以上、あらゆる要素がオリジナルでなければユーザーが母要素を援用する、そしてその先にはディスコミュニケーションやマルアンダスタンディングが待っているという危惧を、人工言語屋は、ついでにいえば自然言語の語学屋も言語学者も知っておいたほうが良い。
ちなみにアルカでは道が走っているのような簡単なコロケーションひとつとっても自分含め外人を集めて「お前この言い方で俺の言いたい意味分かる?」「分かんね」「じゃあこれなら?」「あっそれなら分かる」「私もー」的な流れで頭突っつき合わせて作っているので、ものすごく時間がかかり、24年経った現在でも未完の言語である。
なおアルカで道が走っているは「道が行く」と認知的に表現する。ちなみに「道が往来する」ではどうかなどの意見もあったことを付け加えておく。
また、何人かの古参ユーザーは「道が行く」と聞いて「は?」となったので、「tとkの間に道がある」と言い換えたらなるほどとなったので、認知的な表現はやはり万人には理解されづらいのだなと思ったが、「tとkの間にある」は迂言的で冗長なので、やはり論理的な言い方は通じやすいが運用効率が悪いなと思った。