2015/9/30頃 seren arbazard
俗幻を書いていて思ったこと。
アルカの用例や語法を書くと思うのは、ムショは外国語記載禁止なので、an tiia tiなら「私 あいする あなた」のようにノートに書いているのだが、この日本語を使った用例の書き方をしていると、アルカというのはできるだけ脱文化、脱成句、脱認知化した言い回しが多いなということに気づかされる。
これは結局28ヶ国からなるアシェットの連中と意思疎通するための結果なわけだが、アルカを日本語に直訳するほど、アルカは汎用性のある言い方(話法)を好むなと思った、その上でアルカにはアルカなりの固有な語法や話法や成句があり、1つの独創的な言語となっている。
さて、アルカをREL化しようとして俗幻などの作業をしてると、アルカは1つの言語でしかなく、もはやそれを使う国際的な集団は解散しており、使い道のない汎用性のない言語を作ることに意義はあるのかという悩みにぶつかる。
しかし意義がないわけではなく、RELは人類が今まで一度も作ったことのない人工言語なので、それを実現するという点では意義はある。しかし、それより意義のあることで自分ができることであれば、そちらを優先すべきではとも思う。たとえば、RELの一例を作るより、RELを含んだあらゆる人工言語の作り方をまとめる方が後世の人工言語屋にとって便利で汎用性があり、意義がより大きいのではと思う。
NATを作る分には「言語学書読んでどうぞ」の一言で済むが、RELとなると人工世界製作から始めないとならないし、世界の全てに詳しくなければならない。世界の全ての中には当然人工世界製作に不要な部分もあれば、人工世界を組み立てるのに必要な知識もある。するとRELを作る人には「世界の全てを学んでどうぞ」とはいえない。だって世界の全てなんか会得できないから、寿命的に。
となるとRELのときはNATのときのような突き放しができない。RELをやる人には「世界の組み立て方」から教えなければならない。またREL以外の、特に工学言語については、言語学を学んでも何の役にも立たないので、これらについてもHow To本を作る必要がある。
というわけで、人工言語の作り方を05~13のときより強化し、RELにも新たに対応できるようにしないといけない。
で、そうやって人工言語全般のつくり方について考えるほうが、単品のアルカをやるより意義があると思う。とはいえ理論だけでは机上の空論なので、実際にアルカでRELを作ってみる実験もしなければならない。
ただ私の余命や病によるソルベ制限、収監されていることなどを考えると、私はせいぜい下地を作るか枠組みを作るかで終わりそうであり、サクラダファミリアのようにバトンタッチできる後世の人材や現在の協力者がいないと、できる量には制限があるなとは思う。考えてみればウィルキンスの真正文字もグループ研究で、ザメンホフにも協力者がいて、一人で全部やるというのは人として無理なんだろうなとも思うが、現実問題を別に人工言語なんかなくても困らないわけで、当然一人で研究するしかないのかなとも思う。
まぁ、なんにせよ、牛歩でも歴史は私たちの手によって進んではいます。「着実、勤勉、自主」。高校で習った校訓のままに。