その頃は離婚の不安もなく、なぜそんな考えが浮かんだのか不思議だった。
確かに彼女のことは憎い。殺したいと言ったり文の中で殺したりといったこともあった。
だが実際彼女の態度の悪さが死に見合うかというとそれは行き過ぎだ。
では怪我させるならどうかというと、人を傷つけて自己嫌悪はしてもスッキリはしない。
なら慰謝料を貰えるとしたらどうかというと、金の問題でもない。
結局欲しいのは彼女からの謝罪なのだ。「出て行った後のことについては私もあなたに色々酷いことをした。許して欲しい」と言ってくれれば「離婚自体は俺が悪いんだし、そっちも子供抱えて大変だろう」と返せる。
その言葉が欲しくて弁護士やネットを通じてアプローチしてきたが、彼女は逃げるだけで、一切話し合いには応じてくれなかった。
セレンは2008年に研究や仕事のしすぎで体を壊した。
潰しの利かない大学院に就職氷河期世代。年も第二新卒を超え、大した職歴もない。
未来は暗く、体は悪くなる一方。
それでも研究があったので耐えてきたが、ついに研究もできない体になってしまい、人生の意味を失った。
2011年に活動20周年を迎え、死ぬ準備を始めた。
2013年6月27日、彼女と結ばれて10年の記念日に終わりにしようと考えた。
それまでに研究成果を一般人でも分かるようにブラッシュアップしてコンテンツを作り、自分の名を歴史に刻もうと考えた。
誰と逝くかは2003年から決めていた。彼女だ。
恋人時代、彼女はこう言った。
「私セレンがいないと生きていけない」
「セレンが死ぬなら私も死ぬ」
そうだな、じゃああの時の君の言葉通り、君と一緒に逝こう。そう思った。
「そんな言葉、相手のことが好きでなくなれば無効」だ?「あの言葉もこの言葉もなかったことに」?そんな都合の良い話があるか。
そんな軽い気持ちで大事な言葉を吐いて人の恋心を掻き立てたというのか。
日和見で自分の言葉を反故にするくらいなら、はじめから大言壮語を吐かなければいい。勝手なのはどちらだ。
メルはそんな大言壮語を吐いていないし、息子には息子の人生がある。
思い当たる相手は彼女しかいなかった。
夕方借りたレンタカーで風花院に戻ったセレンはリーザの部屋へ行った。
「あら、こんな時間に珍しいわね。どうかしたの?」
首を傾げるリーザに無言で近寄ると、セレンはいきなり彼女を殴りつけた。
悲鳴を上げてリーザが倒れるが、セレンは手を止めない。
騒ぎを聞きつけたメルたちが駆け込んできた。
「お兄ちゃん、何やってるの!?」
しかしセレンは暴れ続ける。
「ミーファ先生、先生を連れて逃げて!」
「逃げるってどこへ!?」
「どこでもいいからアルナの外へ!」
メルたち6人がセレンにしがみついて止める。ミーファはリーザの手を引いて走って行った。それを見てセレンは動きを止める。
「一体何があったの?去年も先生に手を上げたことあったよね?喧嘩でもしたの?」
「いや、先生との仲は良好だよ」
「じゃあなんで!?」
「去年は先生がどの程度で家出するのか知りたくて測ったんだ。今回のために一度実験しておく必要があったからな」
「実験……?」
「俺は2008年以降稼ぎが少なく、先生に食わしてもらってただろ。先生は俺の母親で、俺のこと可愛かったからな」
「そんな人をどうして殴るの!」
「俺のことが可愛いまま俺を失ったら、先生は悲しむだろ。だから俺を捨てさせなければならなかった」
「失うって…何よ」
セレンは立ち上がると部屋を出た。
「待って!どこに行くの!?」
不穏に思ったメルはセレンの腕にしがみつく。セレンは辛そうな顔で振り向くと、「お前も俺を嫌いになってくれ」と言って頬を打った。
メルは倒れこみ、頬を押さえた。
「嫌いになんて……なれるわけないじゃない!」
セレンは言葉をかけずに風花院を去った。