万人が意思疎通できるような言語とは

2015/4/10 seren arbazard

万人が意思疎通できるような言語は人工言語の大きなテーマで、特に国際補助語にとって大きなテーマである。
国際補助語でなかったとしてもユーザーが多国籍になれば自然と万人が意思疎通できるような言語について考えざるを得なくなる。

万人が意思疎通できるような言語でないとその言語は多国籍で使ったとき誤解を生みやすい。
自国だけで意思疎通できているとしたらそれは単に自国語の文化や認知にアポステリオリしているだけだ。母語にアポステリオリしているだけで、その言語自身の文化や認知ではない。

で、万人が意思疎通できるような言語について考えるとき、2つの作り方がある。ひとつは人間に共通する文化や認知だけ採用し、非共通の物事はすべて論理的に迂言して説明するというやり方だ。しかしこのタイプの言語はユーザーが持つ銘々のmother usageとかmother cognition(母語法とか母認知)の最大公約数しか採れないので迂言法と相俟って恐ろしく運用効率が悪い。
さらにそういう言語ではすべての概念が各々異なった語形を与えられるのでカバー率も自然言語に比べて極めて悪く、学習効率も悪い。
万人が意思疎通できるような言語ではあるものの、現実的な使用には堪えない。

もうひとつのやり方が、万人の母語や母文化や母認知とも異なった新しい語法、文化、認知などを0から作って、万人でそれを共有しようというものであるが、どの民族にとっても学習が難しいというデメリットがある。
アルカがこのタイプであるが、学習効率、運用効率、表現力の観点で見るとバランスよくカルディアオリジナルの文化や語法や認知がなされていて、やはりバランサーである。つまり最良というより平均顔美人でしかない。

万人が意思疎通できるような言語にはこのように最大公約数を取るやり方と0から作って共有するやり方、言い換えればアポステリオリとアプリオリがあるが、学習効率、運用効率、表現力全体で考えると後者のほうがまだポイントは高い。
アルカは万人が意思疎通できるような無難なアプリオリ言語の実例であって、無難でありかつ現実的には最良なラインだが、我々の子供のころ思い浮かべたあらゆる視点において最も優れた人工言語というわけにはいかない。
なぜって、これまでも述べてきたとおり、最も優れた人工言語というのが丸い四角のように実在しないのだから。

というかもしそんな神の言語みたいなものがあったら賢い人類たちはとっくにそれくらい作り上げているはずである。
結局はperlやCみたいに用途に応じて最も優れた人工言語は作れても、360°優れた人工言語は作れず、作ろうとしてもアルカのようなバランサーになるのである。

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