2015/4/19 seren arbazard
自然言語は曲線でこれまでの人工言語は直線だと述べた。自然言語ライクな人工言語を作るにはメンタルコーパスを制作する必要があるとも述べた。
しかし曲線は微分すれば線分の集合でしかないように、ボトムアップ式の直線的なやり方でも微細に至って作れば事実上曲線になれるのである。
中国語で雨は降るは下雨で、下は文字通り「下がる」とか「落ちてくる」という意味で、強いて自然な日本語で言うと「降る」でしかない。本来は「落ちる」などを意味する。
では日本語で「雨が落ちる」と言うかというと言わない。雨は降るものだとは日本人はメンタルコーパスを通して知っている。
しかし面白いことに「落ちる」の辞書の定義を読んだわけでもないし「落ちる」の語法を教えられたわけでもないのに、日本人はある状況では雨が落ちるも言えると判断できるのである。
たとえば雨漏りがするのでビニール袋で天井の穴を塞いだとする。
ビニールに穴が空いてポツポツと来れば、日本人は「雨が漏れてきた!」と表現するし、ビニールが雨水の重みに耐えられなくてドサーッとなれば「雨が落ちてきた」も容認される。で、こういう雨漏りみたいな例は普通の暮らしをしていれば起こらないことなのに、もし人間が初めてこのような状況に置かれたとしても、すべての日本人が「雨が漏れてきた」とか「雨が落ちてきた」と表現できる。子供ですらだ。メンタルコーパスにこのようなスキーマは想定され備蓄されていない。
にもかかわらず日本人は示し合わせたように「漏れてきた」とか「落ちてきた」と表現するし、それで理解し合える。
なぜだろう?刺激の貧困説にも通じる不思議さだ。
どうも人間はメンタルコーパスを獲得する際、自分なりの語法、認知法、表現法を作り出すようなのである。
どの日本人の子供でもこのような状況に初めて置かれて「漏れる」だの「落ちる」だの一定の表現をするということは、つまりメンタルコーパスにない新しい表現を創出する能力があるということで、この新しい表現の創出はどうもメンタルコーパスに由来するというより、脳内で作った語法、認知法、表現法によるものらしい。
で、なぜ語法とかを教えているわけでもないのにどの日本人も同じ表現をするのかというのが疑問だ。なぜ皆が皆同じ語法、認知法、表現法を導出するのか、それが謎だ。
つまりネイティブというのはメンタルコーパスとともに、語法、認知法、表現法も獲得している。そしてそれは他のネイティブとも大抵のケースにおいて等しい内容なのだ。
いずれにせよ、メンタルコーパスにない事例を見て皆が皆同じような表現をするということは同じ語法、認知法、表現法を共有していることになる。
つまり人間はトップダウンのメンタルコーパス習得以外にボトムアップの語法、認知法、表現法という法則性をも習得していることになる。
法則性というのは直線的であり、脳内で様々な法則性を掛けあわせた結果、自然言語の持つ曲線的な構造ができることになる。
で、直線の集まりで曲線になるというのは、要は一見曲線だが微分したら線分の集合だったというようなもので、結局自然言語らいくな人工言語は語法、認知法、表現法もメンタルコーパスも作らないといけないということになる。