2015/4/30 seren arbazard
ふつう人は生まれて親とのコミュニケーションを通じてメンタルコーパスを培う。
学校に行く歳になると、友達とのコミュニケーションも経験する。
しかし、途中で家が外国に引っ越したなどの理由でバイリンガルになることがある。音声は幼少期でないとマスターできないとされるが、私の知る限り私の弟の同級生は中学からでも発音含めて完璧なネイティブになっていた。
その子は冷佳という中国人の子で、親も中国人なので学校で日本語を習得したと思われる。中学生となるとちょうど言語の臨界期で、バイリンガルになるのは難しかったはずだ。
つまりメンタルコーパスは赤ん坊の頃からでなくても構築できる。
東大教授のロバート・キャンベルも発音以外はネイティブレベルである。
彼は大人になってから日本語を始めたので、メンタルコーパスは大人になっても構築できると言える。
メンタルコーパスを構築するときにしてはならないのが、母語の外局として言語を覚えることである。
靴をshoeなどと翻訳しながら覚えると、母語のほうが引力というかインパクトが強いので母語の外局としての外国語の単語の知識でしかなくなる。つまりshoeをshoeとして覚えるのではなく、「靴は英語でshoeだ」というあくまで母語を基底とした覚え方になる。母語の外局にshoeという単語が記憶されるだけで、これではその言語のメンタルコーパスを築けない。
バイリンガルを見ていると「靴は英語ではshoeだ」というような覚え方をしていない。
李(2009)pp.73-751李凌燕『中国語の子供はどう中国語を覚えるか』語研によると中日のバイリンガルだった5歳の娘の京京(汪海曦)はうさぎとかめの童話を中国語と日本語に訳したとある。
京京は中国語でこの物語を覚えたので、中国語ではあらすじを書けている。しかし日本語版はというと、翻訳するのが面倒と言って途中でやめてしまっている。
このことからどうもバイリンガルの中では中国語は中国語、日本語は日本語と別個に覚えていて、別個のメンタルコーパスを持っているらしいことが分かる。
私の知人の村岡康平(らっと)も拙著『紫苑の書』を英語訳している際、Twitterにて、英語は英語、日本語は日本語で覚えているので簡単に翻訳できない旨述べている。
つまりバイリンガルは複数のメンタルコーパスを持っており、ひとつの母語を基底にその外局として外国語の知識を蓄えていない。
なので、あなたが母語を獲得したとき、あるいはバイリンガルが複数の言語を習得した時と同じく、何かの言語に訳して覚えるというのは良くないし、それではその言語のメンタルコーパスは築けない。
さて、メンタルコーパスをどう構築するかという問題だが、できるだけインパクトの強い対人コミュニケーションを通してだとメンタルコーパスを築きやすい。要は親や友だちがいればいい。ただ人工言語にとってはその両方がない。アルカやエスペラントのネイティブも親が人工言語のノンネイティブなので、自然言語のようなメンタルコーパスを築けているとは考えづらい。
対人コミュニケーションができないとなればあとは一方通行のテレビやラジオや本になるが、人工言語の場合、本以外のコンテンツを築くのはとても難しい。
しかもテレビに子守をさせても赤ん坊は言語を覚えないことからも分かる通り、一方的なコミュニケーションではメンタルコーパスを構築しづらい。
結局、効果は薄いながら人工言語としては現実には文のコーパスと音のコーパス、そして各スキーマを覚えさせるためのスキット動画の量産によってメンタルコーパスを構築するしかない。
自然言語に比べて戦況は不利だ。でも文字コーパスだけではメンタルコーパスは一切築けないというわけではないから、難しくはあっても不可能ではない。
アルカも文学を作ったり、音声ファイルを吹き込んだり、スキット集としての映画を作ったりと、できるだけのことはやった。
注
1. | ↑ | 李凌燕『中国語の子供はどう中国語を覚えるか』語研 |