人工言語学事典記事:【恣意(arbitrariness)】

2015/11/16 seren arbazard

【恣意(arbitrariness)】【恣意性(arbitrariness)】【恣意的な(arbitrary)】
人工言語学においては、そうなる必然性がないのにそうだと作者が定義すること。言語学では言語は恣意的とされるが、人工言語学では自然言語は非恣意的で人工言語はREAを除いて恣意的である。
エスペラントで太陽はsunoと言う。これは英sunから来ているが、仏soleilから来ても支障はない。sunを語源にしたのはザメンホフの恣意による。
アルカのようなPRIでは恣意は顕著である。アルカの音象徴ではpiは「鋭い」という概念を示す。アルカで「鋭い」はpilで、「錐」はpimで、「クリ」はpidlで、「レイピア」はpiikである。piという音が鋭さを表すのは1990年代のアルカの作者らの恣意によるものである。人類は普遍的にiの音に小ささや細かさを感じる傾向があるが、それならpiでなくkiでも良かったはずで、結局piに落ち着いたことはセレンらの恣意による。
理由付けられていれば非恣意ということではない。アルカで家庭教師はleznantという。原義は「左に立つ人」である。なぜかというと「生徒はたいてい右利きなので、教師は左後ろに立ってノートを見ることになる。このことから左に立つ人と呼ばれるようになった」ためである。歴史的なエピソードが付いていて、一応理由付けられている。英coachは元々ハンガリーの地名Kocsから来ている。この町は馬車で有名で、coachは1556に公式馬車としてイギリスに入った。その後、家庭教師を雇える富裕層の間で、家庭教師がコーチ(馬車)に乗って家にやってくるものだから、1848にはメトニミーでコーチは家庭教師を指すようになった。運動のコーチという意味になったのは1885からである。アルカのleznantと同じようにエピソード付けられている。しかしcoachが非恣意的であるのに対し、leznantは恣意的である。一見leznantには理由付けがあるが、カルディアという世界の全てを構築した結果必然的に生じたものでなく、造語者であるセレンが意図的に作ったものにすぎない。このように、もっともらしい理由があっても、REAでない限り、あらゆる設定は恣意でしかない。
工学言語にも恣意はある。BASICで画面に文字列を表示する際、printという語が使われる。しかしこれは命令の内容を考える限りshowやdisplayでも構わない。なのにprintを英語から引っ張ってきている点で恣意である。さらに言えばprintである必然性もない。実際C言語で同じことをしようとすると、printfという語を使うのが一般的である。ある条件を満たす間特定の処理を繰り返す場合、BASICではwhileという語を使うが、whilstで行けなかった理由はなく、whileも恣意である。このようにENGにも恣意性がある。
恣意を完全に取り払うにはREAを作るしかない。REAは人力では制作不可能なため、世界の全てをシミュレートし構築できるコンピュータが必要になる。少なくとも2015現在では人工言語から恣意性を奪うことはできない。
conlangerがやりがちなのは、SVOなどの基本語順を恣意的に決めるとか、歴史的な必然性もなく自言語を活格言語にしたり能格言語にしたりするとかそういうことである。現実の活格言語は歴史の緩やかな流れの中、主に能格言語から対格言語に移行していく過程で生じる。その言語を使う民族の恣意で活格になっているわけではない。

コメント

  1. >arbitrariness

    今の文章だと、冒頭の「言語学では言語は恣意的とされるが、人工言語学では自然言語は非恣意的で……」のくだりは理由もなくわかりづらいので、まず、自然言語には記号と意味の直接的な結びつきはない(=一般に言われる言語の恣意性)一方で歴史的な必然性はあるということを述べて、そのあと人工言語は自然言語と違って設定上の歴史的必然性のほうも欠如しているということを述べると良いと思います。

    「設定上の」と限定したのは、現実の中では人工言語も自然言語と同様に歴史を持ち、歴史的必然性も持つからです。BASICの例で言えば、表示の意味で”print”を使うのは当時紙ベースの出力装置が主流であったから……と理由を論じることができます。

    ただ、人工言語と自然言語では歴史的必然性の現れ方が異なっており、実際はBASICのprintのように単語レベルで自然言語と似た議論ができることは稀です。言語の歴史的必然性は、自然言語では言語の語彙や構造に現れ、人工言語では作り方や動機などの側面に現れるのが一般的です。人工言語では、自然言語と異なり語彙や構造について恣意性が高いため、客観的なことを述べるのが困難です(アウトラインで八分儀などを例に指摘された「語彙の年代指標」は貴重な例外)。必然的に、人工言語学ではそれ以外の部分に焦点が当たってくると考えられます。こうなると、人工言語学と言語学とは分析すべき対象も性質も違うのであり、両者の関係は想像よりも遥かに希薄なものとなるでしょう。

    というところまで考えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です