ランジュ – 2012年9月19日

※nias注:旧版からの移植記事です。一部削除。

2012年9月19日

 今日は日曜で、官公庁や学校は休日だ。
 セレンは大学に行くと、西5号館の地下に足を運んだ。傍らには書類や端末を抱えたメルがいる。
 地下には400人は収容できる大教室がある。今日はここを貸してもらい、演説をすることになっている。
 フェリシア大は平日の演説を聴講できない社会人向けに、休日に教室を貸し出している。セレンはOBなので、教室を借りることができた。
 借りるのに特に内容の審査はない。教室が空いていればその日に予約を入れるだけだ。だから演説をぶつのは敷居が低い。問題は人が集まるかどうかだ。

 会場に1時間前に入った。準備のためだ。
 準備をメルとしていると、定時より早く行動する凪人たちがぽつりぽつりとやってきた。
 その後定時行動の北方人などがやってきた。定時過ぎにふらっと猫のようにやってくる南方人のことは放っておいて、定刻通りに演説を始める。

 セレンは教室を見回した。400人講堂にわずか十数人。あまりに少ない数だった。
 演説のテーマは現代魔法学。
 これでもセレンは現代魔法学の第一人者だ。本も出しているし、ネットで調べれば自分たちのサイトが1ページ目に来る。頭の硬い老害を除いて、現代魔法学を知る者は自動でセレンの名を知るという状況になっている。
 にもかかわらず、現代魔法学に興味を持つのはネット上ですら1000人行くかどうかという体たらくだ。こうしてオフ会ともなれば普段から懇意にしている信奉者しか集まらない。

 書籍は紙媒体も電子版も完売した。
 しかし低俗な一般大衆向けの娯楽本に比べれば、あるいはメジャーな学問の書籍に比べれば、捌けた冊数は雀の涙ほどでしかない。
 誰も何の役にも立たない現代魔法学などに興味を示さないのだ。

 かつてアルバザードは魔法学の最先端を走っていた。魔法学の研究は熱心に行われた。
 しかし人類が魔法の力を失うと、途端に人々は無用となった魔法学を切り捨てた。
 現代魔法学は魔法の力が消えた今、単なる机上の空論でしかないのだ。
 実用性もない、力にも金にもならない。そんなもの誰がやるというのだ。現代魔法学をやるなど酔狂の極み。嘲笑されるか、「え、そんな学問あったの?」と驚かれるかのどちらかだ。
 だがセレンはこの学問に10歳の頃から心血を注いできた。もう21年だ。努力の甲斐あって、この世界での第一人者にはなれた。しかし一般大衆の理解は相変わらず得られない。

 正直セレンは化学や物理や医学などに嫉妬していた。
 これらの学問なら就職も有利で企業から引く手あまた。一方、現代魔法学など就職以前の問題だ。学会にすら残れない。
 そう、現代魔法学は学会から追放されている。人類が魔法を失った時点で学会は魔法学に関する文献を受理しない方針に切り替えたからだ。
 だからセレンの啓蒙活動はあくまで私費。書籍の出版も公演もサイト構築もすべて私費と自助努力で行なってきた。

 大学時代、セレンは先輩や級友たちから奇異の目で見られ、嘲笑さえされていた。
 セレンは表向きは言語学や総合科学の専攻をしていた。
 一応、魔法学という分野は史学部で学べるが、セレンがやりたいのは中世の魔法学と現代の科学を融合した現代魔法学だった。
 それには歴史学としての魔法学はもちろん、呪文学に通じる言語学や、現代科学を広く知ることのできる総合科学の知識が必要だった。
 だが言語学が文系である一方、総合科学は理系だった。だからセレンは二足のわらじを履いていた。
 その結果、学生時代は研究と勉強とバイトに明け暮れ、ロクに遊ぶ間もなかった。

 総合科学をやっていたなら就職先がありそうなものだが、実は総合科学という分野は広く浅く理系の諸学問を扱う分野なので、特定の技能が深く習得できない。
 例えば物理の中でも工学を専攻していれば重工業などに就職することも可能だが、広く浅くの総合科学ではそれができないのだ。
 広く浅くよりも狭く深くのほうが企業には歓迎される。広く浅い知識だけ持った技術のない人間は必要とされない。ファイナルファンタジーで言うところの赤魔道士のようなものだ。
 そう、総合科学という一般に認知された分野でさえ、就職は厳しい。世間の目も厳しい。まして言語学は総合科学以上に職がなく、世間の関心も薄い。
 そして恐ろしいことに、現代魔法学は総合科学や言語学の何百倍も世間の無理解が甚だしい。セレンが孤軍奮闘しているのは、そういう土俵なのだ。

 現代魔法学の弱点は実証不可能性。魔法が消えた今、理論を打ち立てても実験も観測もできないのだ。だからよくエセ科学と非難を受ける。セレンの提唱した理論もすべて机上の空論でしかない。
 そんな机上の空論のオンパレードだから、現代魔法学に興味を持つ人間の中には全く非科学的で非現実的な理論を立てる者も多くいる。
 どうせ現代魔法学など実用できないのだからと、クオリティの低い現実味のない理論を打ち立てるお遊び感覚の者が後を絶たない。
 現代魔法学という狭い世界でさえ、一枚岩ではないのだ。セレンはもし人類に魔法の力が蘇ったら即実用可能になるように配慮した上で理論を立てている。だが大半はセレンのように真面目に理論を打ち立ていない。単なる遊び半分の空想や妄想にすぎない。そう、彼らにとってどのみち実用化されない現代魔法学に真面目に取り組むなど、馬鹿げた話なのだ。要は暇つぶしに空想の世界で遊びたいだけ。狭い現代魔法学の住人のほとんどがその程度のクオリティの理論しか打ち立てない。
 だがセレンは違った。魔法の力さえ戻れば即座に実用可能な理論として、徹底的にゼロから理論を作り上げた。現代魔法学をやるために大学に入り、院にまで入った。しかし当時得たのは嘲笑だけだった。

 大学に見切りを付けたセレンはネット上で活躍した。はじめはキチガイだと罵られるだけであったが、その真面目で徹底した理論は凄まじいクオリティを放っており、まるでそれが現実の実用可能な理論であるかのように感じられ、徐々に理解者が現れた。
 そうして狭い世界ながらも名声と地位を確立していき、今では現代魔法学の第一人者にまで昇りつめた。鶏口となるも牛後となるなかれとはまさにこのことだ。
 セレンの啓蒙活動の結果、現代魔法学界は変わっていった。以前は自己満足のクオリティの低い非現実的な理論が跋扈していたが、今は中高生など若い新しい人間を中心にセレンのやり方を踏襲する者が増えてきた。
 それでもセレンほど長い期間真剣に取り組んできた者は世界中に一人たりとていないため、セレンはライバル不在という不遇に喘いでいた。
 そこでセレンはここ何年もの間、若手の育成に心血を注いだ。現代魔法学の理論を一般人にも分かりやすく解説し、敷居を下げたのだ。また、現代魔法学の理論の構築法もアルバザードで初めて公開した。
 セレンが出てくるまでは現代魔法学でググっても個々の研究者ごとの理論が出てくるだけで、しかもその案はどれも実用性に乏しいものしかなかった。微動ながら、セレンが世界を変えたのだ。

 ネット上で地位を得て、書籍も出し、セレンは狭い世界で台頭した。それでも世間にはまだまだ全く知られていないといっていい。
 その結果がこの講堂に集まった人数だ。ネット上では1000人規模の理解者がいても、こうしてオフ会で人を招集すると、頑張ってもせいぜい十数人しか集めることができない。これが今の彼の力であり、世間の理解の限界なのだ。

「惨めだ……」
 セレンは静かに壇上の脇で言った。メルがそっと手を出し、腕を取って胸に押し当てる。
「そんなことないよ……? ここに集まった人間は選ばれた人間。崇高なお兄ちゃんの考えを理解できる者たち。私たちは理解されない。世間に無視される。そんなくだらない世間は私たちのほうが相手しなければいい。愚民に用はないんだよ。少数精鋭でいいの」
「そう……だよな」
 セレンは重苦しく答えると、壇上に立った。

 今日の発表は主にこれまでの理論のまとめだった。
 セレンが出てくる以前の現代魔法学はジョーク学問で、馬鹿げた空想で、お遊びでしかなく、真面目に科学的に考察することなどなかった。
 だがセレンは違った。総合科学や言語学といった学問から科学的に魔法学を分析し、現代魔法学を構築した。

 彼の有名な理論のひとつに「ヴィード場」がある。
 彼は人間界ユマナが実在すると主張し、ユマナには魔法がないと主張した。一方双子宇宙であるカルディアには魔法が存在するとした。
 一般人は魔法が存在しなくなったと考えているが彼はそれを誤りとし、単に人類の多くがヴィードを大幅に失っただけで、この世界ではまだ魔法等が存在しうると述べた。
 ではなぜユマナには魔法が存在せず、カルディアには存在するのか。そこに彼は物理学の「場の理論」を用いた。
 例えばある物体が質量を持つのは「ヒッグス場」という「場」が存在するからだ。ヒッグス場がなければ物体に質量は存在しない。
 それと同じで、魔法――厳密には幻晄――を存在させるための「ヴィード場(幻晄場)」がカルディアには存在すると彼は述べた。

 セレンはユマナに魔法がないのは、ユマナにヴィード場がないからだと述べた。
 同様に、カルディアに魔法があるのは、カルディアにヴィード場があるからだと述べた。
 こういった中世にはなかった物理学の研究成果を魔法学に活かすことにより、現代魔法学の理論は構築されていく。
 セレンはこのように総合科学や言語学を元に、遊戯的でなく学問的に独自の理論を打ち立てた。
 それは世間の人間からすれば実証不可能な絵空事でしかなかったが、ゼロから丁寧に組み立てた本格的な理論は特定の人々に現代魔法学がまるで実際に運用可能な理論であるかのように感じさせた。

 演説が終わり、セレンは家に帰って演説の様子を動画サイトにアップした。
 お茶を淹れてくれたメルが嘲笑しだしたので何事かと思ったら、「お兄ちゃん、またバカが喚いてるよ」と言ってパソコンの画面を見せてきた。
 それは2chのスレだった。現代魔法学は狭い世界のくせに一枚岩ではない。中にはセレンの名声や実績に嫉妬する者がいる。
 全く理論的な面には目をやらず、脊髄反射でとにかくセレンのやることなすことにケチをつけてキチガイ呼ばわりする。今回も動画のURLを貼ったと思ったら即座に2chに転載されてコレだ。

 今回もまた粘着荒らしがセレンのアップした動画に言われのないケチを付けてきたようだ。
「放っておけ。どうせ嫉妬だ。俺がこの世界で日々業績を残していってるのに、自分は何も成せないから妬んでるんだろう。努力せずに他人の足ばかり引っ張ってる雑魚だ。どうあがいても俺には勝てないから放置でいい」
「でもこいつ、自作自演や騙りをやってるのよね。お兄ちゃんが2chに書き込んでるように見せたり……」
「大丈夫。まともな人間はウチのコミュニティに来る。社会の底辺で喚いてる奴の声なんか、まともな人間の耳には入らないし、入ったところで誰も耳を貸さないさ」
「それもそうだね」
 メルはくすっと笑うとブラウザを閉じた。

セレンはメルに腕枕しながら話しかけた。
「なぁ、いつもこんな安アパートで悪いな」
「ううん、平気。それに孤児院でするのもちょっとね」
「子供たちにバレちゃまずいしな」
「だね」
「大学の近くの……てゆうかカリーズ駅の近くのでかいホテルあるだろ」
「あの高そうなところ?」
「うん。……今の稼ぎじゃ無理だけど、いつかあそこに泊まろう。窓から大学を見てやろう。俺、いつかお前を連れてってやるよ」
 それを聞くとメルは幸せそうな顔で「嬉しい!」と言ってセレンの体に抱きついた。

「ねぇ……お兄ちゃん。お兄ちゃんは世間を恨んでる?」
 セレンは無言だった。
「恨んでないわけがないよね。お兄ちゃんの血の滲むような努力を物ともせず、見向きもせず、大衆娯楽にばかり興味と金を払う愚民どもを」
「もし……」
「ん?」
「もし俺に力があれば……」
「うん」
 セレンは拳を握った。
「変えてやるのに……。この腐った世界を」
「そうだね。この世界は腐ってるね。ユティア朝がどんなに治世しても、ミロク様亡き今、世の中は加速度的に腐っていってる」
「誰かが止めないと。誰かが変えないと」
 セレンは手を宙に伸ばした。
「俺に力があればなぁ……」

「力があったら?」
「現代魔法学を実証するには巨大な研究設備が必要になる。それには莫大な費用がかかる。その金さえあれば、俺の理論を実証できるのに」
「じゃあ力を持ったらまず現代魔法学を実証するところからスタートだ?」
「そう。その後ミロクのようにこの腐った世の中を変えていく。俺が再びミロク革命を起こすんだ」
「素敵……」
「……でも現実はそうはいかない。狭い世界で小さな名声を得て静かに死んでいくだけだ。哀れな人生だよ」
「……」
「でも、まぁお前という恋人がいるだけで十分俺は幸せなんだろうな」
 セレンはそう言うとメルの頭を撫でた。

ランジュ – 2012年7月28日

※nias注:旧版からの移植記事です。

2012年7月28日

 無事映像ができ、不満もあったが、何よりセレンは安心した。
 映画にセレンは出演し、リディアとメルは「カッコいい」とはしゃいでいた。

ランジュ – 2012年6月13日

※nias注:旧版からの移植記事です。

2012年6月13日

「お兄ちゃん、これ……」と呟いてメルが差し出したのは妊娠検査薬だった。結果は陽性。
セレンは目を開き、「あのときのか?」と聞いた。
「うん。5月3日以来してないから、あのときの……」
「そうか……」
「どう思う?」
「え、ふつうに嬉しいよ」

その刹那、セレンの部屋の入口にリディアが立っているのに気付いた。
眠れる姫君だったはずの彼女はあどけない顔の中に冷たい表情を宿していた。
「私が……許さない」呟くリディア。
「……え?」困惑するメル。

リディアはセレンに手をかざすと、「この子を産むことは許さない」と静かに述べた。「それにこの子はセレン君の研究の邪魔になる。あなたは研究に人生を捧げるべきだよ」
「何を言ってるんだい、リディアちゃん……?」
「それに貧乏研究者のセレン君に子供を養う力はない」
そう言われるとセレンは黙った。

「この子は貴方を救わない。貴方には他にやるべきことがある。この子は諦めて」
リディアは氷のように言い放った。
メルはセレンとリディアを交互に見た。リディアはメルを見ると、「どう思う?」と水を向けた。
メルは自信なさげに「そりゃ……まだお兄ちゃんがこんな状況で子供なんて……無理かなって。でも、私は産みたいとも思うし。どうすればいいのか分からない」と答えた。

そしてメルはセレンを見やると、「お兄ちゃんが決めて」と言った。リディアもまた「セレン君が決めて」と言った。
セレンはそれからしばらく悩み続け、悩みに悩んだ末、「堕ろそう……。俺がこの子を殺す」と言った。
メルは泣きながら頷いた。

リディアは「じゃあ、産まれてこれなかったけど命はしっかり宿したこの子に、名前を付けてあげないと」と言った。
するとセレンはしばらく考えたのち、「リディア……と名付けようと思う」と答えた。
メルは驚いた顔で「どうして?」と尋ねた。するとセレンは首を傾げながら、「なんとなく……前世でそんな約束をした覚えがあるんだ」
「約束?」
「あぁ。前世で愛した人と。もし自分以外の誰かを愛して子供ができ、俺に命名権が与えられた場合は、自分の名を名付けろと。その彼女がそう俺に言って、俺は約束した。――そんな気がする」
「そう……」メルは深く頷いた。「じゃあこの子の名前はリディア。産まれなかった私の子……」

「すまない、メル……」
「……いいの。でも、お兄ちゃんはきっと父親になんかなれない。私、今回のことでそう確信した」
「俺もしたよ……」
すると堕胎を言い出したリディアまでもが「私もそう思う」と感想を口にした。

ランジュ – 2012年3月9日

※nias注:旧版からの移植記事です。

2012年3月9日

メルの部屋のベッドに腰掛け、セレンは彼女に問いかけた。
「針金をある比率で半分に折り、円と正方形を作る。このとき面積の和が最小となるときの比率はいくつだと思う?」
セレンは手におびただしい量の式を書いたメモを持っていた。代数で定石通りに解いたのだ。
メルは一瞬だけ目をチラッと右上にやると、「π:4」と答えた。

あまりの早さにセレンは驚いた。
「なんで分かった!? いくらなんでも暗算早すぎだろ。というか暗算できるほど単純な式じゃないぞ」
「暗算以前に代数で解いてないよ」
「じゃあどうやったんだ?」
するとメルはさらっと答えた。
「円が正方形の内接円になるとき、面積の和が最小になる。よってπ:4」
セレンはぽかんと口を開けたまま放心した。

ランジュ – 2012年2月22日

※nias注:旧版からの移植記事です。

2012年2月22日

「曲を作ったんだ」
セレンはアンセで曲を再生する。さびしい歌だった。メルは何度か小さく頷いた。

「10年くらい前も曲を作ったよね?」
「あのころから現代魔法学の研究が盛んになったから、曲は諦めてしまった。三十路の手習いだよ」
「いいんじゃないの。うまくはないけど、私は好きだよ。お兄ちゃんの心が聴こえるようで」
「そうか」セレンは満足気に頷いた。「ならいいんだ。報われる」

ランジュ – 2012年1月23日

※nias注:旧版からの移植記事です。太字は加筆部。

2012年1月23日

大学の池に呼び出されて来てみたら、橋の上にメルが立っていた。
「よぅ、どうした」と言いながらセレンはメルに近付く。珍しく神妙な顔つきをしている。
メルは橋の手すりに手を置くと、水面を見て、それからセレンに真剣な眼差しを向けた。
「ねぇ、私のことどう思ってる?」
「なんだよいきなり」セレンは目を左上に動かすと、「そうだな、可愛い妹みたいな感じか」と答えた。

「妹……か」表情が暗くなる。
「うん?」
「あのさ……。私の気持ち、気付いてるでしょ?」
単刀直入だった。セレンは一瞬ぴくっとしたが、落ち着いた声で「まぁ、なんとなく」と返した。

「いつから?」
「――気付いてたかって? 好かれてるのは最初から気付いていたよ」
「異性として好かれてるということにはいつ気付いたの?」
「いつごろだろうなぁ。かなりお前が小さいころかもしれないし、ある程度大きくなってからかもしれないし」

池に目をやる。
「もう私……大人なんだよ。そろそろ妹やめてもよくない?」
「……かもしれないな」
「ベンチ……」奥のほうのベンチを指さす。「座ろうか」

二人はベンチに座った。
「お兄ちゃんは好きな女はいないの?」
「好きというか……」
「あぁ、ミーファ先生や先生に憧れてるのは知ってるから」
「そ……そうか」
「でもそれはあくまで憧れでしょ?」
「うん、まあ。じゃあ好きな人はいないと言っていいかな」

メルは意を決したようにセレンを見つめた。
「私じゃダメかな……?」
「……いや、そんなことはないけど」
「何か問題ある?」
「何も……ないな」
「女として見れる?」
「多分大丈夫だと思う。でも今までずっと妹だったから、急には無理かもしれない」

「じゃあ、ゆっくり時間をかけて関係を変えていこう?」
メルはセレンの手を握った。セレンはその手を握り返した。
「そうだな。いつかこうなるんじゃないかとはずっと思っていたし、そろそろいい時期かもしれない」
「ありがとう。……それにしても、なんだかあっさり決まっちゃったね」
「だな……。まぁそんなもんなんじゃないか。あまりに俺たちは親しすぎてさ」

「そういえばお兄ちゃんって、私が大人になるのを待ってて女を作らなかったの?」
「別にそういうわけじゃないけどな」手に顎を載せる。
「やっぱりミーファ先生のことが頭を離れなかったから?」
「う……」渋い顔になる。「それもある。でもそれだけじゃないよ。女性に囲まれて育ったから、あんまり積極的に彼女を作ろうと思わなかっただけ。女が身近にいなかったらもっとガツガツしてたと思う。この世界線の俺は常に満たされて幸せだったよ」

「そっか……。ともあれ、私と付き合うってことでいいのね?」
「あぁ、そうだな。じゃあ付き合おうか」
「ならちゃんと言葉に出して。私はお兄ちゃんのことが好き。お兄ちゃんは?」
セレンはゆっくり頷くと、「すきだよ」と答えた。

メルは脚を伸ばすと嬉しそうな顔で「あぁ、良かった。これでもだいぶ緊張してたのよ」と言った。
「そうなのか?」
「そりゃそうよ。断られる理由はないって知っていたけど、今までの関係を変えるわけだから緊張はしてた」
「俺も俺でいつ言われるだろうかとはずっと思ってたよ。けど急に言われて急にOKして、なんか拍子抜けな気分だ」

「……ねぇ、子供はどうする?」
「気が早いな。まぁ自然な流れに任せればいいと思うよ」
「ふふ、そうね」
「というか、お前と子供を作ることになるのか。なんか妹として一緒に育ってきたから不思議な感じがするな」
「そうだねー」とメルは朗らかに笑った。「私もヘンな感じ。でもイヤじゃないよ。むしろ嬉しいかも」

「そっか。で、お前は幸せなのか?」
メルはセレンの肩に頭を載せた。
「うん、幸せだよ。お兄ちゃんに会えて良かった」
「そりゃ嬉しいな。俺でも人に受け入れてもらえるんだ」セレンは静かに呟いた。

するとメルの胸から一房の紫陽花が淡い光に包まれて出てきた。
「これ、リディアちゃんの心の花か」
「こんな風にして集めるんだね。あと6枚か」
メルは興味深そうに言った。

ランジュ – 2011年12月19日

※nias注:旧版からの移植記事です。太字は変更箇所。

2011年12月19日

いつも8時ごろに夕飯を食べるのに、今日はリディアが居間に降りてこなかった。
心配になったセレンは彼女の部屋に行く。ノックをするが返事はない。
「リディアちゃん……?」
ドアを開ける。鍵はかかっていなかった。

中は真っ暗。奥のベッドにリディアが横たわっていた。
電気をつけて近寄る。彼女は白い顔で冷たくなっていた。
「リディアちゃん?」
訝んで肩を揺らす。反応がない。セレンは焦り、頬に手を当てる。氷のように冷たかった。

「おい……」青ざめるセレン。胸に手を当て、心音を聞く。トクンと音がする。
良かった。死んではいないようだ。
居間に降りる。少女たちがセレンの重い表情を見て心配そうな顔をする。
メルも何事かと立ち上がるが、彼は彼女を制してリーザとミーファをリディアの部屋に呼んだ。メルや孤児たちを巻き込みたくなかった。

部屋に入ったミーファは深刻そうな顔になり、医者を呼ぶよう提案した。セレンもそれに賛同。しかしリーザだけが醒めた表情で「そのままでいい」と言った。
驚いた顔でリーザを見る二人。するとリーザは「医者には何もできない」と付け足した。
「どういうことですか」
「どういうも何も、これは病気じゃないから」しれっと述べるリーザ。
「病気じゃないなら何だっていうんです?」
「時間切れ、よ」あっさりと言った。「リディアちゃんはいつも眠り姫のようでしょう? それもそのはず。彼女には心がないのだから」
「心……?」
「正確には心の花」つぅとリディアの胸に人差し指をあてがう。「一番目は秋桜。二番目は紫陽花。合計9つの花で彼女の心は構成されていた。だけど彼女はそれを散り散りに失ってしまった。だから眠り姫のようにほとんど心を持たない人形のように過ごしていた」
セレンは口に手を当ててリーザの話に耳を傾けた。

「正確には彼女は8つの花を失っていた。貴方が夏に拾ったリディアちゃんにはたったひとつだけ心の花が残されていた。だからかろうじて生命活動を維持することができた。でもそれもそろそろ限界」
「限界って……」
「他の花を集めない限り、彼女はこのまま冷たくなってしまう」
「そうなるとどうなるんですか」
リーザは何も答えなかった。それはリディアの死を暗示していた。
「……その話が本当だとして、どうして先生はそんなことを知っているんですか」
リーザは振り向くと、くすっと笑って「さぁ?」と答えた。だがセレンはなぜかかえって合点がいった。なぜリーザが夏にあんなに簡単にリディアを引き取ることをよしとしたか。もともとリーザは彼女がただの孤児でないこと、何か事情を抱えていることを知っていたのだろう。もっとも、彼女が何を知っているのかセレンは皆目見当もつかないが。

ミーファは事情を知らなかったのか、整理するようにリーザに問うた。
「それで、彼女を本来あるべき姿に戻すにはあと8つの心の花を取り戻さなければならないんですね?」
「そうね」
「それでその……具体的にはどうすればいいんでしょうか」

リーザはリディアの胸に手を当てる。すると一枝の秋桜がすぅっと浮かび上がった。
「これが彼女の命を維持している花。もうだいぶ弱ってしまったけれど」
顎に手を当てるミーファ。「これと同じように紫陽花や金木犀がどこかにあるんですね?」
「そう。彼女の花はあちこちへ飛んでいって、人の心の中に入ってしまった」
「誰の……?」恐る恐る問うセレン。
「最初は世界中に散り散りに。やがて時間を経て心に傷を持った八人の少女の中へ。彼女たちの傷は花が癒してあげている。もし彼女たちの心を癒すことができれば、彼女たちは花を必要としなくなる。そうすれば花を彼女たちの体から取り出すことができる。リディアちゃんに返してあげることができる」

「八人の少女……ですか」突拍子もない話だった。「問題が山積していますね。まず八人を探すのが絶望的です。心に傷を負った少女など世の中にいくらでもいますから」
「その点は平気よ」リーザは部屋の中を見回した。「セレン君は何のためにこの孤児院があるんだと思っているの?」
「はい……?」的を射ないリーザの質問に首を傾げる。
「この孤児院には女の子がいるでしょう? イシュタル、ミルハ、コノハ、フェアリス。彼女たち孤児は皆心に傷を抱えている」
「……彼女たちの心の中にリディアちゃんの心の花があるってことですか?」
小さく頷くリーザ。

「しかしそれじゃまだ4人です。半分でしかない」
「あら、私たちは女の子じゃないの?」くすくすと笑う。「メル、ミーファ、リーザ。これで3人よね」
「先生たちの中にも……?」セレンは首を振る。「ちょっと待ってください。意味が分かりません。その言い方だとこの孤児院はリディアちゃんの心の花を持った子たちを集めるために作られた風に聞こえます」
「そういうことになるわね」

「時系列が無茶苦茶です。リディアちゃんが来るより前に彼女たちはここに集まっていたんですよ? そもそも先生が孤児院を建てたのは396年のことじゃないですか」
「あら、計算は合っているわよ。だってリディアちゃんが生まれたのは395年のザナの月ラルドゥラの日ですもの」
魔法学を専攻している関係で中世の歴史に詳しいセレンはすぐにピンと来た。その日付はオーディン時代の英雄リディア=ルティアの誕生日からちょうど400年後のものだ。
「つまり先生は彼女が英雄リディア=ルティアの転生したものだと言いたいわけですね。でもありえません。今は423年。彼女は7歳。彼女が生まれたのは415年。395年とは程遠い」
「それは彼女の外見から判断したことでしょう? 彼女は395年に転生をした。そしてそのままブランクを置いて、去年の夏にフェリシア大の池に7歳の姿で現れた。その間の彼女の動向は誰も知らない。なぜ7歳の姿になっているのかも」
考えがたいことだった。だが、リーザの言うことを正しいとすれば数の上での計算は成立する。395年にリディアが転生し、1つの花を残して8つの花を失った。396年にリーザは孤児院を建て、リディアの心の花を持った人間を集めた。――と考えれば辻褄は合う。そしてなぜ彼女がここまで事情に詳しいのかも納得が行く。

「仮に先生の言っていることが正しいとしましょう。というか今はそれを信じるしか道がない。――そうだとして、で、僕は一体何をすればいいんですか」
するとリーザはくすっと笑って向き直った。「単純なことよ。この孤児院の女の子たちの心の傷を癒してあげればいい」確かに単純だった。だが、恐ろしく難しかった。「さもなくば」リディアの胸に手を置く。「彼女はこのまま冷たくなってしまう」
「……」
リーザはセレンの手を握った。
「貴方が拾ったのよ。守ろうって思ったんでしょう?」
「……はい」静かにセレンは答えた。

リーザはリディアに毛布をかけると、部屋を出ようとした。
「ひとついいですか、先生」
「なぁに?」
「先生たちを入れても7人です。最後の一人は……」
するとリーザは小さな手を口元に当てて微笑んだ。
「いずれ分かるわ」

ランジュ – 2011年11月18日

※nias注:旧版からの移植記事です。

2011年11月18日

風花院の一室で、セレンは目を覚ました。
目を開いたら、眼前には赤い顔のメルがいた。
「ん……。俺、寝てたのか。メル……何してたんだ?」
「えっ!?」どきっとする。「な、何も……」
「そうか……。なんで起きたんだろうな」セレンは窓から差し込む光に目をやる。「あぁ、明かりが眩しくて起きたのか」
「そ……そうね。きっとそうだよ」なぜか焦った様子のメル。

「なんとなく起きたときに耳がくすぐったかったんだが」
「えと……」もじもじする。「風が耳に入ったんじゃない?」
「窓閉まってるのにか?」
「あむ……。ふ、不思議だね」
「なんだか耳に息を吹きかけられたような感じがしたんだが」
メルは汗をかきながら、「ヘンな目覚めね」とぎこちなく言った。

「それより現代魔法学の本、どこに置いておけばいい?」
メルは2冊の本を手に持っていた。先月だかに自費出版した本で、今までの研究成果をまとめたものだ。
本当は商業出版できればよかったが、現代魔法学なんかでは商売にならないので自費出版しかありえない。
電子出版をしたが、一応紙にもしておいた。422年になってもまだ紙の書籍は完全に滅んでいないからだ。もっとも、今更レイゼンを使わず紙で読む層などかなり年配の者に限られるが。

「そこの棚でいいよ。適当に」
「自分の本なのにずいぶんぞんざいね」不思議そうな顔のメル。
「書籍化の目的はあくまで『いつ誰が何と書いたか』を国に保証させるためだからね。そんな本を実際に買って読む人間なんざロクにいるはずもないさ」
「つまり、お兄ちゃんは自分の研究成果を歴史に遺しておきたかったんだね」
「そう。ここ20年の研究成果をね。売上も売名行為もすべて俺にとってはどうでもいいことだ。要は自分が著作者であることを明示し、成果を歴史に刻みたかっただけだからな」と言って大きく伸びをする。

「でも、その本を出してからというもの、ある程度研究に区切りがついてしまったよ」
寂しそうな顔をするセレン。メルはそっと近付いて、彼の横にしゃがみこむ。
「生きる意味を見失ってしまった、とも言えるな」彼は日光に手を晒し、目を細める。
「……お兄ちゃんはまだまだこれからだよ。現代魔法学を……ううん、お兄ちゃんの凄さを他人に分からせるまでは」

「凄さ、ねぇ……」セレンはレイゼンを開く。自分のサイトを検索すると、1ページ目に公式サイトが出てきた。「現代魔法学といえばこの俺、セレン=アルバザードだ」 「そうだね」大きく頷く。 「6年かけてこの地位を築いた。逆に言えば誰もやらない分野だからこそ、たった6年でここまでのし上がれたわけだ」自嘲気味に笑う。
「そうだとしても、大変な苦労だったと思うよ」
「共感者も理解者も、もっといえば信奉者もいる。彼らのおかげで俺はもう十分満足できた」
「そうなんだ?」
「大学のころとは違う。あの頃は周囲から馬鹿にされるだけだった。今は理解者がいる。あの頃の恨みはもう果たした。もう普及に関するコンプレックスはない」

「とはいえ歴史に名を遺すという点で見れば、研究内容がアルカだけで書かれている事態は好ましくない。そこでサイトを訳してルティアや凪にも進出しようかと思った。だがそれは研究自体を進める行為ではない。  翻訳はあくまで現代魔法学でここまで研究を掘り下げた人間がいるということを世界の連中に告知できる程度のものでいい。細部に至るまで訳す必要はないし、その時間は研究に割いたほうがいい」
「そうだね」とメルは肯定した。

「ともあれ本を出して一段落着いたら、急に生きる意味を見失ってしまった。自分が何をすればいいのか分からない」
「でも肝心の研究がまだ伸びしろのある状態でしょう?」
「まぁな。だから、生きている。漫然とだがな。どこに終わりがあるのかも分からない道を歩んでいる」
メルはセレンの手をぎゅっと握った。
「現代魔法学をこれ以上一般人に広めるのは無理だ。普及という点ではもう伸びしろはない。
研究をこれ以上深めても仲間が増えるわけじゃない。難しい内容になるほど理解者は減るからな。
今後は孤独な戦いになる。それを思うと気が重い」

メルはうつむき加減で呟いた。
「お兄ちゃんのことを直接助けてあげることはできないけど、メルは支えになってあげたい」
するとセレンはポンポンと頭を撫でた。
「その気持ちで十分だよ」

「それとな」思い出したように呟く。「最近、ヘンな夢を見るんだ。起きると必ず右胸が痛む。悲しい苦しい夢だ。そして必ずある考えが浮かぶ。でもそれは今は決行してはいけないことで、かといっていざ将来になったら決行できるか分からない不安定なことなんだ」
「夢……」
「夢の主人公は俺なんだけど、俺じゃないんだ。もう一人の俺がいるかのような気分だ。でもその俺が物凄く苦しんでいるのは伝わってくる」
セレンは胸を押さえた。
「俺が感じたこともないような胸の痛みを、もう一人の俺が感じている。何年も、何年も。休むことなく」

「そのお兄ちゃんは今私が見ているこのお兄ちゃんにも関与しているの?」
「している、と思う。いや、むしろ彼こそが俺の本体なんじゃないかと思う。彼が耐えかねられなくなった瞬間、全ての計画が水泡に帰すんだと思う」
「計画? 誰の?」
「夢の中では知っているんだ。でも今は思い出せない。ただ、きっとこの世界を支えている誰かの計画だ」
メルは「そう……」と言ったきり、不安げな表情で目を閉じた。
「神の夢は不安定で移ろいやすい。いつ予定が変わるか分からない。リアルタイムで運命は刻命に変わっていく」