ミルフの月
1992年9月6日
夏休みも終わり、リーザの寺子屋が再開していた。
この日の体育の授業で、リーザはセレンを見ながらリディアとオヴィに呟いていた。
「セレン君は剣技はだいぶ得意なようね。格闘技も長けてる」
「わたしは?」
「リディアさんは格闘技は良いけど、剣はそこまで得意じゃないようね」
「俺は斧が得意だぜ。それに腕力じゃ誰にも負けねぇ」
「そうね。でも3人に共通しているのは魔法が苦手な点ね」
リーザの言葉にリディアは項垂れた。女子のくせに魔法が苦手。リディアのコンプレックスだった。
セレンが素振りを終えてリーザのところにやってきた。
「わたし、魔法の才能ないのかなぁ」リディアは肩を落とす。
「今現在実力と知識がないのは確かね」リーザは冷静に答える。
セレンはそれを聞いて首を傾げる。
「魔法には実力と知識が必要なんですか?」
「そうよ。特にアルバザード人はしばしばルティア人のような強力な魔力を持っていないから、知識でカバーするしかないの。だからこの国では魔法学が発達している」
「魔法学……。授業でやりますね」
「中学以降になったらもっと難しくなるわよ。いまはほんの簡単なところしか教えてないけどね」
「勉強で魔法が上手くなるんですか」
「直接魔力が上がるかっていうと微妙ね。ルティアの学校のように魔法の実技訓練ばかりしていたほうが短期的な目で見れば魔力は上達するから」
セレンは黙って頷いた。
「でも有能な魔導師の少ないアルバザードは諸国に対抗するため、魔法学を研究してきた。カコの時代のアルシアの11魔将で満足せず、その後千年以上も基礎研究を続けてきた」
「その地道な成果が錬金術などの諸学問に繋がってるんですよね?」
授業で習った知識をセレンは確認するように問うた。するとリーザは満足気に頷いた。
「魔法学はどこまで発展するんでしょうか」
「今後もっと大きな発展をすると思うわ。あなたたち次世代にかかっていることよ」
「僕達に……」
「魔法学のいいところは、魔力の総じて弱い男性でも扱えること。実技でなく学問だからね」
「男子は魔法工学、女子は錬金術に進学することが多いですよね」
魔法学が細分化されていることは勉強熱心なセレンには既習であった。
「そうね。千年以上の基礎研究を経て、アルバザードはルティアなど諸外国にはない最先端の魔法理論を手に入れ、それを実用化することに成功した。努力は人を裏切らない」
「千年後も魔法学は発展しつづけてるんでしょうか」
「魔法が消えない限りはそうなるでしょうね」
「魔法が消えるなんてありえるんですか?」
「まぁ空気がなくなるくらいありえないことよね」
リーザは微笑んだ。しかしセレンの顔は暗い。
「空気がないと人間は死にますが、魔法がなくても死にません。もし魔法が使えない世の中になったら……」
「……そうしたら、世間は魔法を捨てるかもしれないわね」
リーザは神妙な面持ちでそう呟いた。
「セレン君……アルバザード語がうまくなったよね」
話を聞いていたリディアがポツリと言う。
「そうね、何も喋れなかった頃に比べれば劇的な進歩ね。毎日この国で暮らしているし、子供だからここまで上達したんでしょうね」
「頑張ってるよね、セレン君。わたしもがんばらなくっちゃ!」リディアは拳を握った。
2012年9月19日
今日は日曜で、官公庁や学校は休日だ。
セレンは大学に行くと、西5号館の地下に足を運んだ。傍らには書類や端末を抱えたメルがいる。
地下には400人は収容できる大教室がある。今日はここを貸してもらい、演説をすることになっている。
フェリシア大は平日の演説を聴講できない社会人向けに、休日に教室を貸し出している。セレンはOBなので、教室を借りることができた。
借りるのに特に内容の審査はない。教室が空いていればその日に予約を入れるだけだ。だから演説をぶつのは敷居が低い。問題は人が集まるかどうかだ。
会場に1時間前に入った。準備のためだ。
準備をメルとしていると、定時より早く行動する凪人たちがぽつりぽつりとやってきた。
その後定時行動の北方人などがやってきた。定時過ぎにふらっと猫のようにやってくる南方人のことは放っておいて、定刻通りに演説を始める。
セレンは教室を見回した。400人講堂にわずか十数人。あまりに少ない数だった。
演説のテーマは現代魔法学。
これでもセレンは現代魔法学の第一人者だ。本も出しているし、ネットで調べれば自分たちのサイトが1ページ目に来る。頭の硬い老害を除いて、現代魔法学を知る者は自動でセレンの名を知るという状況になっている。
にもかかわらず、現代魔法学に興味を持つのはネット上ですら1000人行くかどうかという体たらくだ。こうしてオフ会ともなれば普段から懇意にしている信奉者しか集まらない。
書籍は紙媒体も電子版も完売した。
しかし低俗な一般大衆向けの娯楽本に比べれば、あるいはメジャーな学問の書籍に比べれば、捌けた冊数は雀の涙ほどでしかない。
誰も何の役にも立たない現代魔法学などに興味を示さないのだ。
かつてアルバザードは魔法学の最先端を走っていた。魔法学の研究は熱心に行われた。
しかし人類が魔法の力を失うと、途端に人々は無用となった魔法学を切り捨てた。
現代魔法学は魔法の力が消えた今、単なる机上の空論でしかないのだ。
実用性もない、力にも金にもならない。そんなもの誰がやるというのだ。現代魔法学をやるなど酔狂の極み。嘲笑されるか、「え、そんな学問あったの?」と驚かれるかのどちらかだ。
だがセレンはこの学問に10歳の頃から心血を注いできた。もう21年だ。努力の甲斐あって、この世界での第一人者にはなれた。しかし一般大衆の理解は相変わらず得られない。
正直セレンは化学や物理や医学などに嫉妬していた。
これらの学問なら就職も有利で企業から引く手あまた。一方、現代魔法学など就職以前の問題だ。学会にすら残れない。
そう、現代魔法学は学会から追放されている。人類が魔法を失った時点で学会は魔法学に関する文献を受理しない方針に切り替えたからだ。
だからセレンの啓蒙活動はあくまで私費。書籍の出版も公演もサイト構築もすべて私費と自助努力で行なってきた。
大学時代、セレンは先輩や級友たちから奇異の目で見られ、嘲笑さえされていた。
セレンは表向きは言語学や総合科学の専攻をしていた。
一応、魔法学という分野は史学部で学べるが、セレンがやりたいのは中世の魔法学と現代の科学を融合した現代魔法学だった。
それには歴史学としての魔法学はもちろん、呪文学に通じる言語学や、現代科学を広く知ることのできる総合科学の知識が必要だった。
だが言語学が文系である一方、総合科学は理系だった。だからセレンは二足のわらじを履いていた。
その結果、学生時代は研究と勉強とバイトに明け暮れ、ロクに遊ぶ間もなかった。
総合科学をやっていたなら就職先がありそうなものだが、実は総合科学という分野は広く浅く理系の諸学問を扱う分野なので、特定の技能が深く習得できない。
例えば物理の中でも工学を専攻していれば重工業などに就職することも可能だが、広く浅くの総合科学ではそれができないのだ。
広く浅くよりも狭く深くのほうが企業には歓迎される。広く浅い知識だけ持った技術のない人間は必要とされない。ファイナルファンタジーで言うところの赤魔道士のようなものだ。
そう、総合科学という一般に認知された分野でさえ、就職は厳しい。世間の目も厳しい。まして言語学は総合科学以上に職がなく、世間の関心も薄い。
そして恐ろしいことに、現代魔法学は総合科学や言語学の何百倍も世間の無理解が甚だしい。セレンが孤軍奮闘しているのは、そういう土俵なのだ。
現代魔法学の弱点は実証不可能性。魔法が消えた今、理論を打ち立てても実験も観測もできないのだ。だからよくエセ科学と非難を受ける。セレンの提唱した理論もすべて机上の空論でしかない。
そんな机上の空論のオンパレードだから、現代魔法学に興味を持つ人間の中には全く非科学的で非現実的な理論を立てる者も多くいる。
どうせ現代魔法学など実用できないのだからと、クオリティの低い現実味のない理論を打ち立てるお遊び感覚の者が後を絶たない。
現代魔法学という狭い世界でさえ、一枚岩ではないのだ。セレンはもし人類に魔法の力が蘇ったら即実用可能になるように配慮した上で理論を立てている。だが大半はセレンのように真面目に理論を打ち立ていない。単なる遊び半分の空想や妄想にすぎない。そう、彼らにとってどのみち実用化されない現代魔法学に真面目に取り組むなど、馬鹿げた話なのだ。要は暇つぶしに空想の世界で遊びたいだけ。狭い現代魔法学の住人のほとんどがその程度のクオリティの理論しか打ち立てない。
だがセレンは違った。魔法の力さえ戻れば即座に実用可能な理論として、徹底的にゼロから理論を作り上げた。現代魔法学をやるために大学に入り、院にまで入った。しかし当時得たのは嘲笑だけだった。
大学に見切りを付けたセレンはネット上で活躍した。はじめはキチガイだと罵られるだけであったが、その真面目で徹底した理論は凄まじいクオリティを放っており、まるでそれが現実の実用可能な理論であるかのように感じられ、徐々に理解者が現れた。
そうして狭い世界ながらも名声と地位を確立していき、今では現代魔法学の第一人者にまで昇りつめた。鶏口となるも牛後となるなかれとはまさにこのことだ。
セレンの啓蒙活動の結果、現代魔法学界は変わっていった。以前は自己満足のクオリティの低い非現実的な理論が跋扈していたが、今は中高生など若い新しい人間を中心にセレンのやり方を踏襲する者が増えてきた。
それでもセレンほど長い期間真剣に取り組んできた者は世界中に一人たりとていないため、セレンはライバル不在という不遇に喘いでいた。
そこでセレンはここ何年もの間、若手の育成に心血を注いだ。現代魔法学の理論を一般人にも分かりやすく解説し、敷居を下げたのだ。また、現代魔法学の理論の構築法もアルバザードで初めて公開した。
セレンが出てくるまでは現代魔法学でググっても個々の研究者ごとの理論が出てくるだけで、しかもその案はどれも実用性に乏しいものしかなかった。微動ながら、セレンが世界を変えたのだ。
ネット上で地位を得て、書籍も出し、セレンは狭い世界で台頭した。それでも世間にはまだまだ全く知られていないといっていい。
その結果がこの講堂に集まった人数だ。ネット上では1000人規模の理解者がいても、こうしてオフ会で人を招集すると、頑張ってもせいぜい十数人しか集めることができない。これが今の彼の力であり、世間の理解の限界なのだ。
「惨めだ……」
セレンは静かに壇上の脇で言った。メルがそっと手を出し、腕を取って胸に押し当てる。
「そんなことないよ……? ここに集まった人間は選ばれた人間。崇高なお兄ちゃんの考えを理解できる者たち。私たちは理解されない。世間に無視される。そんなくだらない世間は私たちのほうが相手しなければいい。愚民に用はないんだよ。少数精鋭でいいの」
「そう……だよな」
セレンは重苦しく答えると、壇上に立った。
今日の発表は主にこれまでの理論のまとめだった。
セレンが出てくる以前の現代魔法学はジョーク学問で、馬鹿げた空想で、お遊びでしかなく、真面目に科学的に考察することなどなかった。
だがセレンは違った。総合科学や言語学といった学問から科学的に魔法学を分析し、現代魔法学を構築した。
彼の有名な理論のひとつに「ヴィード場」がある。
彼は人間界ユマナが実在すると主張し、ユマナには魔法がないと主張した。一方双子宇宙であるカルディアには魔法が存在するとした。
一般人は魔法が存在しなくなったと考えているが彼はそれを誤りとし、単に人類の多くがヴィードを大幅に失っただけで、この世界ではまだ魔法等が存在しうると述べた。
ではなぜユマナには魔法が存在せず、カルディアには存在するのか。そこに彼は物理学の「場の理論」を用いた。
例えばある物体が質量を持つのは「ヒッグス場」という「場」が存在するからだ。ヒッグス場がなければ物体に質量は存在しない。
それと同じで、魔法――厳密には幻晄――を存在させるための「ヴィード場(幻晄場)」がカルディアには存在すると彼は述べた。
セレンはユマナに魔法がないのは、ユマナにヴィード場がないからだと述べた。
同様に、カルディアに魔法があるのは、カルディアにヴィード場があるからだと述べた。
こういった中世にはなかった物理学の研究成果を魔法学に活かすことにより、現代魔法学の理論は構築されていく。
セレンはこのように総合科学や言語学を元に、遊戯的でなく学問的に独自の理論を打ち立てた。
それは世間の人間からすれば実証不可能な絵空事でしかなかったが、ゼロから丁寧に組み立てた本格的な理論は特定の人々に現代魔法学がまるで実際に運用可能な理論であるかのように感じさせた。
演説が終わり、セレンは家に帰って演説の様子を動画サイトにアップした。
お茶を淹れてくれたメルが嘲笑しだしたので何事かと思ったら、「お兄ちゃん、またバカが喚いてるよ」と言ってパソコンの画面を見せてきた。
それは2chのスレだった。現代魔法学は狭い世界のくせに一枚岩ではない。中にはセレンの名声や実績に嫉妬する者がいる。
全く理論的な面には目をやらず、脊髄反射でとにかくセレンのやることなすことにケチをつけてキチガイ呼ばわりする。今回も動画のURLを貼ったと思ったら即座に2chに転載されてコレだ。
今回もまた粘着荒らしがセレンのアップした動画に言われのないケチを付けてきたようだ。
「放っておけ。どうせ嫉妬だ。俺がこの世界で日々業績を残していってるのに、自分は何も成せないから妬んでるんだろう。努力せずに他人の足ばかり引っ張ってる雑魚だ。どうあがいても俺には勝てないから放置でいい」
「でもこいつ、自作自演や騙りをやってるのよね。お兄ちゃんが2chに書き込んでるように見せたり……」
「大丈夫。まともな人間はウチのコミュニティに来る。社会の底辺で喚いてる奴の声なんか、まともな人間の耳には入らないし、入ったところで誰も耳を貸さないさ」
「それもそうだね」
メルはくすっと笑うとブラウザを閉じた。
「ねぇ、お兄ちゃん。今日はとっても疲れてると思うんだけど……その……」
メルはベッドの上でもじもじした。
「あ、うん……いいよ」
セレンはメルの頭を抱き寄せ、髪を掻きあげた。
「ふふ……。……それにしても、哀れだよね」
「何が?」
「2chで荒らしてる連中。何も成さず、偉人相手に文句ばかり。こうして愛してくれる女もいないんだろうね」
「まぁ連中にはお似合いの人生だろ。底辺には適度に愚痴言わせてガス抜きさせとけばいいんだよ。それが馬鹿のあしらい方ってこと」
メルは「ふふ」と笑うと、「そうだね」と言った。
セックスが終わるとセレンはメルに腕枕しながら話しかけた。
「なぁ、いつもこんな安アパートで悪いな」
「ううん、平気。それに孤児院でするのもちょっとね」
「子供たちにバレちゃまずいしな」
「だね」
「大学の近くの……てゆうかカリーズ駅の近くのでかいホテルあるだろ」
「あの高そうなところ?」
「うん。……今の稼ぎじゃ無理だけど、いつかあそこに泊まろう。窓から大学を見てやろう。俺、いつかお前を連れてってやるよ」
それを聞くとメルは幸せそうな顔で「嬉しい!」と言ってセレンの体に抱きついた。
「ねぇ……お兄ちゃん。お兄ちゃんは世間を恨んでる?」
セレンは無言だった。
「恨んでないわけがないよね。お兄ちゃんの血の滲むような努力を物ともせず、見向きもせず、大衆娯楽にばかり興味と金を払う愚民どもを」
「もし……」
「ん?」
「もし俺に力があれば……」
「うん」
セレンは拳を握った。
「変えてやるのに……。この腐った世界を」
「そうだね。この世界は腐ってるね。ユティア朝がどんなに治世しても、ミロク様亡き今、世の中は加速度的に腐っていってる」
「誰かが止めないと。誰かが変えないと」
セレンは手を宙に伸ばした。
「俺に力があればなぁ……」
「力があったら?」
「現代魔法学を実証するには巨大な研究設備が必要になる。それには莫大な費用がかかる。その金さえあれば、俺の理論を実証できるのに」
「じゃあ力を持ったらまず現代魔法学を実証するところからスタートだ?」
「そう。その後ミロクのようにこの腐った世の中を変えていく。俺が再びミロク革命を起こすんだ」
「素敵……」
「……でも現実はそうはいかない。狭い世界で小さな名声を得て静かに死んでいくだけだ。哀れな人生だよ」
「……」
「でも、まぁお前という恋人がいるだけで十分俺は幸せなんだろうな」
セレンはそう言うとメルの頭を撫でた。
原文
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