人工言語学事典記事:【学用反比(Inverse Proportion between Learning and Using:IPLU)】

2015/6/4 seren arbazard

【学用反比(Inverse Proportion between Learning and Using:IPLU)】
言語の学習効率と運用効率は反比例するという人工言語学上の法則のこと。これを【学用反比】と言う。2005年に発見された。
トキポナのように単語数を減らせば文が冗長になったり多解釈になる。エスペラントのestasは法則的なので覚えやすいが、長く使いづらい。学習効率と運用効率の良さは両立できない。
唯一可能とすれば、アルカのメルテーブルに相当するシステムだが、あのシステムを使うとすべて(かほとんど)の母音と子音の頻度が均一になる。
あらゆる自然言語はsとzがあるならsをよく使う。aとuならaの頻度が高い。
メルテーブル的なシステムを使うと頻度の少ないべき母音や子音の頻度が非自然言語的に高くなり、言語学的でないという欠点があり、それを用いた人工言語は自然言語的とはいえないし、その民族にとって発音しづらい子音の率が高くなることで結果的に運用効率が悪くなる。

2015/11/17 seren arbazard
【セレンの法則】→【学用反比】にリネーム。

人工言語学事典記事:【作業階梯(Work Ladder:WL)】

2015/6/4 seren arbazard

【作業階梯(Work Ladder:WL)】
人工言語の進化は「音→文法→語彙→文化→風土→語法→認知法→表現法→メンタルコーパス」の9段階、9工程から成る。この法則のことを【作業階梯(Work Ladder:WL)】と言う。
セレンが人工言語学を始めた2005年にこの法則が生まれ、2015年に書籍化の作業がされた1nias注:未成。
20世紀の人工言語は語彙までで、文化・風土の必要性が提唱されたのは2005年が初めて。遅れて2010年にアメリカ人が車輪の再発明をした。2015年の時点で語法以右の必要性について述べているのはセレン=アルバザードのみであり、世界はまだ十分に啓蒙されていない。
将来、未来に、誰が再発明して啓蒙するだろう。しかし最初にこの階梯に気づいたのはセレンである。

2015/9/24 seren arbazard

セレンの階梯、文化と語法の間に歴史を入れます。修正よしなに。

2015/11/17 seren arbazard

【セレンの階梯】→【作業階梯(Work Ladder:WL)】にリネーム。

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1. nias注:未成。

言子と文子

2015/6/4 seren arbazard

言子とは形態素、語、句、節といった文法的な単位でなく言語の認知上の最小単位のこと。片栗粉は普通の人は「片栗粉」という形でひとつの意味を成すものだと考えている。1言子である。しかしこれがもともとはカタクリという花から作られたということを知ると、パン粉などのように「カタクリ」と「コ」の2言子に分かれることができる。
言子は認知上の単位なので文法は関係ないし、同じ人間でも状況によって同じ言葉が1言子に見えたり2言子に見えたりする。片栗粉もカタクリの粉だと知った後もやはり片栗粉は片栗粉というものだと考え、1言子として見ることができる。

文子は言子2つ以上が成句的に組み合わさったもののこと。「AだかBだか知らねえが」というのは日本語の成句で、これでひとつの文子。人間は何万かの言子と何万かの文子を脳内に持ち、文子を他の文子や言子と組み合わせて文を作る。「オンデマンドだかポンデリングだか知らねえが」はこの文子構造に各言子をはめた文。Aには未知か気に食わないもの、かっこつけたもの、しばしば難解な語が来る。Bには俗っぽいもの、ダサいもの、馬鹿っぽい語が入る。オンデマンドは「需要に応じて」という意味で、印刷関係などで使う。ポンデリングはミスタードーナツ社の人気メニューで、女子供がよく食べる。俗っぽい。

言語学的な文法論は人の頭に入っていない。国語の授業でやっても覚えないのが普通なことからも明らか。人は文子と言子を組み合わせて言語を運用する。したがってメンタルコーパスは数万の文子と言子から成る。
文子は必ずしも関数のように「AだかBだか」のように変数から成っているとは限らず、オンデマンドやポンデリングのような個物具体的な形で文子として記憶されている場合もあり、その場合には「フレイムタンだかナポリタンだか知らねえが」という別の文は変数Aでなくオンデマンドの代わりにフレイムタン(剣の名前)が入ることで作られる。これは類推である。

実際人間は認知文法や生成文法のような文法を持っておらず、この言子と文子から文を作る。この事実は数十~数百年の間にセレン=アルバザード以外の誰かによって再発見されるだろうが、最初に唱えたのは2003年のセレン=アルバザードである。フェルマーの定理のように正しい結論だけ述べておく。言語学者でなく、人工言語学者が先に真理に到達したのは皮肉である。

究極の人工言語はアルカだけではない

2015/5/2 seren arbazard

人工言語は360度さまざまな方向に成長させることができる。アルカはボトムアップ式の自然言語ライクなアプリオリという方向性を極めるものであり、例えばトップダウン式のやり方だってあるし、アルカにはできないことを極めるというやり方があると思う。
トキポナやロジバンはアルカとは違う形で極めたものと言ってよい。別にどちらが上ということはないだろう。強いて言えばどれだけ労力をかけて作りこまれたという点くらいではないか。出来そのもの以外について評価するとしたら。

変わらない言語

2015/5/2 seren arbazard

言語の最大の欠点は時とともに変化することである。新語が増えるだけならまだしも、旧語の語義まで変わってしまうのが常である。
何が欠点かって、その情報の保存性の悪さである。
bmp画像はHDDが古くなるたびに新しいHDDにコピーしておけば一生その写真は色褪せることがない。しかし紙に焼いた写真はたった数十年で色褪せてしまう。元データのフィルムも永久不滅ではない。
言語は紙焼き写真のように情報の保存性が悪い。たった百年前の漱石の文ですら一般人には読めないところがあるし、千年昔の源氏物語だともはや古文を履修したものでないと読めない。とても同じ日本語に見えない。

なぜ言語はこうまでも変わりやすいのか。その答えは、人工言語を作ってきた者には経験として分かることであるが、ネイティブの言語の覚え方がトップダウンだからである。ネイティブは言語を覚えるとき、コミュニケーションの中で自然と言語の意味を理解する。辞書を引いていちいち覚えることはない。
なので大人でも間違えて語義を推測して、しかもそれが大勢だといつしかその誤用が認められるようになる。「すべからく」が「すべて」に形が似ているからといって「すべて」的な意味だと思っている人は多い。
「仰られる」が二重敬語だと気づいていない人も多い。
私自身、「忖度する」という動詞を「相手の状況に配慮してやる」くらいの意味に考えていたことがある。違和感を覚えて辞書を読んで初めて意味を知った。

言語は実際の運用を通して習得される。いちいち辞書を引いて語義を暗記するようなことはない。
なので、ほとんどの語には「こういう場面で使われる言葉だ」くらいにしか把握されておらず、みな正確な意味は知らない。
語義は各個人の中で。ぼんやりと用例と合わせて覚えられている。ಡ←こんな形のように、ヨーロッパの国境のように捉えきれない定義しづらい曲線でできている。
ぼんやりとしか理解されていないので、当然その形は移ろいやすいし個人差もある。
辞書は言葉を使って四角四面に語義を定義する。▱←こんな形のように、アフリカの国境のごとく、論理的に定義しやすい。

もしネイティブが赤ん坊のうちはトップダウンで行くとしても学校に上がってからボトムアップ式に語義を覚えていったら、その言語の語彙の定義は論理的な四角四面な定義しやすいものになるだろう。
いわば、法律の条文と同じレベルで辞書の定義を丸暗記し、言語を運用するのである。この場合、皆が同じ語義を共有するし、定義はきちんと書かれているので、その言語は変化しにくい。
我々は「夢」という語の定義を知らない。そんなもの辞書でいちいち覚えないからだ。「すべからく」も多くの人はなんとなく使っているだけだろう。
こういう定義を覚えていない語の意味は変わりやすい。
逆に憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」というフレーズは大半の人がこのままの形で丸暗記していると思う。なぜって学校で暗記させられたからだ。このフレーズのように、まるまる覚えてしまったものは変わりにくい。
法律家は法律を丸暗記するが、そのままの定義で覚えておくことによって、法律が曖昧になったり突然変わることがないようになっている。
で、これを言語にも応用すれば、実に変わりにくい言語ができあがるのではないだろうかと思われる。
子供たちは学校で辞書を読み、語義を覚え、四角四面な定義で論理的に話す。
それは今までの自然言語を超越した言語なのではないだろうか。
極めて論理的でかつ人によってブレがなく論理的で、まるでプログラミング言語を扱っているかのように人の言語を使うことができる。
で、世界には自然言語並みに作りこまれたそういう言語がないので、私はアルカの辞書diaklelで世界初の挑戦をしたいと思っている。
そしてそれによって百年千年と未来に繋がる変わらない言語を実現することができる。最低限、新語の関係でアペンドしたり修正することはあってもだ。

で、それは何語で書かれるべきかだが、日本語や英語など自然言語は変化するのでふさわしくない。その変化のないという人工言語――つまりアルカで書かなければ意味がない。
たとえば25条について「えーなんだっけ、病気がなくて文明的なそれなりの生活だっけ?」といったらほとんどの知識人が「いや、健康で文化的な最低限度の生活だよ」と訂正してくれるだろう。
この条文のように語義についても法律のごとく覚えておけば齟齬や変化も生じにくいし、アルカをアトラスの国際語として使うにも必要なことである。

何語でコンテンツを残すか

2015/5/2 seren arbazard

アルカは世界一作りこまれた人工言語を目指している。で、仮にそれが作れたとして、歴史に残らないと、というか現代人と未来人にその存在を認知されないと、誰もその価値がわからないという問題がある。2015年現在アルカの辞書のdiaklelは幻日辞典という名で、日本語とアルカでのみ書かれている。しかし今後日本の人口が減っていくことを考えると、やはり国際語の英語で情報を残しておくべきかな、とも思う。ただ英語だってかつてのラテン語やフランス語のように凋落する日が来るかもしれず、というか今までの人類の歴史を見ている限り恐らくそうなるはずで、記述言語自体が古くなって使えなくなる可能性もある。そうなると未来に残らない。それに英語が仮に永久に国際語だとしても英語も自然言語なので当然100-200年経てば今の英語は古文になってしまう。それは日本語も同じだ。漱石の明治時代の原文ですら現代人には古文に思える。
英語の支配がいつまで続くのかわからないし、続いたとしても今の英語は未来では古くて人々は読めなくなっている可能性が高い。となると、どうするべきかなぁと考えたところ、人工言語は作りたては変化が大きいがある程度作り切ると自然言語より変化が少なくなるという法則を活かして、では人工言語たるアルカで書いておけば良いのではないかと思った。しかし全文アルカだと、それは凄いことなのだろうけど誰も読めないわけで、人々に認知されなければ歴史には残らない。というわけで、辞書の一部、たとえば語義などは日本語や英語で残しつつ、かつ宣伝は日本語や英語を使ってやればいいという結論に至った。
もちろん語義が日本語や英語である以上、語義に使った自然言語の方の意味が変わるリスクがある。
たとえば「タブレット」は2000年代は絵を描くのに使うガジェットという認識だったが、2015年現在はもはや大きめのスマホ的な意味で使われている。leizenという語の語義(訳語)を「タブレット」とした場合、未来で「タブレット」がどういう意味で使われるかわからないので、誤解される恐れがある。
そこで考えたのが、有形な名詞ならなるべく写真などの画像を載せつつ、かつ語釈でそれがどういうものか伝えればいいという結論になった。

そういうわけでdiaklelはアルカで書きつつも訳語は日本語・英語で残しておいて、誤解がないようアルカで語釈を書いておく。
日本語、英語は変化するから語釈が日本語・英語だと語釈も未来で誤解されるので、変化のない人工言語で語釈を書くべきである。語釈にかぎらず、訳語以外の情報はすべて人工言語で書いたほうが安心だ。それにそうしたほうがその人工言語のコーパスも増えてよい。

脱線するが、ラテン語が長く国際語だったのは、権威とかそういうのはもちろんあるとして、ラテン語が死語だったことも原因ではないか。死語のメリットはもう変わらないということである。
つまり歴史に残すのに便利だというわけである。
英語のように生きた言語はすぐ変化するから、情報の保存という観点で考えると、ラテン語が長く国際語だったのは分かる気がする。

人工言語を作る手順 ~ ここまでのまとめ

2015/4/30 seren arbazard

自然言語はありもので、言語の塔がもともと建っている。その塔を分解して音~表現法まで帰納していく。トップダウンである。
一方人工言語はスタート地点で何もなく、塔がない。ゼロだ。なのでボトムアップで組み立てる。
その結果自然言語と同じ精度の塔ができればそのカラーがトップダウンだったかボトムだったかなどはどうでもよく、自然言語ライクな人工言語を作ることができる。
人工言語が作るべきものは音~メンタルコーパスまでであり、これをボトムアップで作るのが仕事だ。
メンタルコーパスは本来トップダウンで、コミュニケーションを通して培うものだが、人工言語の場合、音声、文字、動画コーパスなどを通じてメンタルコーパスをボトムアップで作るしかない。
要するに人工言語作者のやるべきことは――あくまで自然言語ライクな人工言語を作る場合にのみ言えることだが――音~表現法、メンタルコーパスのボトムアップの構築である。
語法も認知法も解釈言語(たとえば幻日なら日本語)と異なる部分だけを辞書に記述すればいい。つまり、hanと「広い」の語義や語法が同じなら訳語を書くだけで十分で、異なっていればどう異なっているのか書けばいい。
認知法もその人工言語なりの認知法の仕方を書いておけばいい。表現法も然り。
そして音~表現法の各論を統合してその人工言語オリジナルのコーパスを作り上げ、メンタルコーパスを構築する環境を整える。

ところで自然言語ライクな言語学に則した人工言語以外については?
その場合、事実上無限の作り方があるので作り方なんて学ばないであなたが思うよう好き勝手作ればよい。
私は1000ピースから成るパズルの嵌め合わせ方を説明しているのであって、1000ピースの並べ方などほぼ無限にあるのだから、完成された絵以外の結果がほしいならあなたの好きな場所に好きなピースを埋めていけばいい。私の助けは要らないはずだ。

もちろん、自然言語ライクな人工言語以外にレーゾンデートルがないと言っているわけではない。自然言語ライクだからといって別にユーザーが増えるわけでもないし、単にelaborateだなぁと人から思われるに過ぎない。
単に私は自然言語ライクな人工言語を今まで人類が作ったことがないのでじゃあ自分が世界初になろうかなと思ってやっているわけで、アルカが完成する前に自然言語ライクな人工言語ができたら私のモチベーションはなくなるだろう。
自然言語ライクでなくたってレーゾンデートルはある。単にあなたが言葉遊びをして楽しいとかの次元のこともあるだろうし、あるいはプログラミング言語のような特定の用途を持った人工言語なら自然言語ライクでなくても道具として非常に便利なのでレーゾンテートルは大いにあると思う。

語彙やメンタルコーパスはどれくらい必要か

2015/4/30 seren arbazard

正直言って、as you likeだ。as much as you wantだ。
5歳の子供だって音~表現法~メンタルコーパスまですべてネイティブ並みに持っている。
ただ5歳の文法はややいい加減で語彙も少なくメンタルコーパスも少ない。だが確実にそこらの外国人よりはネイティブらしく、その言語だけで生きていっている。
5歳時の語彙など数千あるかだろう。メンタルコーパスもかなり小さいはずだ。
それでもネイティブには違いないのだから、人工言語の語彙やメンタルコーパスだって5歳児程度のレベルでも十分ネイティブレベルである。
当然大人になれば語彙やメンタルコーパスも大きくなるが、生活するのに困らない程度の語彙やメンタルコーパスしかなく、大学や学校の授業をできない未開の言語などいくらでもある。むしろ日本語とか英語とかが専門分野でさえ表現できてしまうほど恐ろしく語彙やメンタルコーパスが大きいだけであって、多くの少数民族の言語は日常生活に必要な語彙やメンタルコーパス程度しか持たない。
それだって立派に一つの言語としてカウントされているのだから、彼らの語彙やメンタルコーパスなど日本の大学生に比べればはるかに小さいものだから(代わりに彼らのは異様に動植物の名に詳しかったりするものの)、まぁあなたの人工言語の語彙が数千しかなくても、それであなたが思い描いている人工世界の発展度に合っていれば、何も広辞苑やOED並みの語彙を作らなくてもいいと思う。
というか発展した世界を想定したとしても、我々日本人が広辞苑の1/10の語彙を知らなくても立派にネイティブとして先進国に生きていることを考えれば、必ずしも広辞苑なみの語彙は必要ないと思う。

人工言語のメンタルコーパスはボトムアップ

2015/4/30 seren arbazard

人工言語は自然言語と違って文ありきではない。もともと例文ひとつコーポラひとつ存在しない。
ゼロを分析したって分解しようがない。
人工言語のメンタルコーパスは音~表現法と同じくボトムアップ式に積み上げて作るしかない。

言語学はトップダウン

2015/4/30 seren arbazard

人工言語づくりはボトムアップだが言語学はトップダウンである。つまり演繹的でなく帰納的である。言語学は人間が作った文を分析し、色々な文を研究し、なぜ「overeat applesと言えないか」「なぜ『私が』と言えても『が私』と言えないのか」などのテーマを持ち、その理由を音、文法、認知などを論拠に「恐らくこういう理由ではないか」と帰納する。実在の文を元に「なぜ○○なのか」に答える。なので帰納的であり、トップダウンである。発話した内容という大前提が元にあって、なぜそういう言い方をするのかを色んな文と対照して推論するので帰納的である。
言語学の扱っている音論や文法論などは人工言語の音や文法と違ってゼロから組み立てたものでなく、ありものを分析していった。つまり、人工言語はレンガをひとつひとつ積み上げて各論という塔を作るが、言語学は既に建っている塔を分解してその構造を理解するわけで、それで演繹と帰納なのだ。