メンタルコーパスをどう構築するか

2015/4/30 seren arbazard

ふつう人は生まれて親とのコミュニケーションを通じてメンタルコーパスを培う。
学校に行く歳になると、友達とのコミュニケーションも経験する。
しかし、途中で家が外国に引っ越したなどの理由でバイリンガルになることがある。音声は幼少期でないとマスターできないとされるが、私の知る限り私の弟の同級生は中学からでも発音含めて完璧なネイティブになっていた。
その子は冷佳という中国人の子で、親も中国人なので学校で日本語を習得したと思われる。中学生となるとちょうど言語の臨界期で、バイリンガルになるのは難しかったはずだ。

つまりメンタルコーパスは赤ん坊の頃からでなくても構築できる。
東大教授のロバート・キャンベルも発音以外はネイティブレベルである。
彼は大人になってから日本語を始めたので、メンタルコーパスは大人になっても構築できると言える。

メンタルコーパスを構築するときにしてはならないのが、母語の外局として言語を覚えることである。
靴をshoeなどと翻訳しながら覚えると、母語のほうが引力というかインパクトが強いので母語の外局としての外国語の単語の知識でしかなくなる。つまりshoeをshoeとして覚えるのではなく、「靴は英語でshoeだ」というあくまで母語を基底とした覚え方になる。母語の外局にshoeという単語が記憶されるだけで、これではその言語のメンタルコーパスを築けない。

バイリンガルを見ていると「靴は英語ではshoeだ」というような覚え方をしていない。
李(2009)pp.73-751李凌燕『中国語の子供はどう中国語を覚えるか』語研によると中日のバイリンガルだった5歳の娘の京京(汪海曦)はうさぎとかめの童話を中国語と日本語に訳したとある。
京京は中国語でこの物語を覚えたので、中国語ではあらすじを書けている。しかし日本語版はというと、翻訳するのが面倒と言って途中でやめてしまっている。
このことからどうもバイリンガルの中では中国語は中国語、日本語は日本語と別個に覚えていて、別個のメンタルコーパスを持っているらしいことが分かる。
私の知人の村岡康平(らっと)も拙著『紫苑の書』を英語訳している際、Twitterにて、英語は英語、日本語は日本語で覚えているので簡単に翻訳できない旨述べている。
つまりバイリンガルは複数のメンタルコーパスを持っており、ひとつの母語を基底にその外局として外国語の知識を蓄えていない。
なので、あなたが母語を獲得したとき、あるいはバイリンガルが複数の言語を習得した時と同じく、何かの言語に訳して覚えるというのは良くないし、それではその言語のメンタルコーパスは築けない。

さて、メンタルコーパスをどう構築するかという問題だが、できるだけインパクトの強い対人コミュニケーションを通してだとメンタルコーパスを築きやすい。要は親や友だちがいればいい。ただ人工言語にとってはその両方がない。アルカやエスペラントのネイティブも親が人工言語のノンネイティブなので、自然言語のようなメンタルコーパスを築けているとは考えづらい。
対人コミュニケーションができないとなればあとは一方通行のテレビやラジオや本になるが、人工言語の場合、本以外のコンテンツを築くのはとても難しい。
しかもテレビに子守をさせても赤ん坊は言語を覚えないことからも分かる通り、一方的なコミュニケーションではメンタルコーパスを構築しづらい。

結局、効果は薄いながら人工言語としては現実には文のコーパスと音のコーパス、そして各スキーマを覚えさせるためのスキット動画の量産によってメンタルコーパスを構築するしかない。
自然言語に比べて戦況は不利だ。でも文字コーパスだけではメンタルコーパスは一切築けないというわけではないから、難しくはあっても不可能ではない。
アルカも文学を作ったり、音声ファイルを吹き込んだり、スキット集としての映画を作ったりと、できるだけのことはやった。

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1. 李凌燕『中国語の子供はどう中国語を覚えるか』語研

曲線も微分すれば線分の集合

2015/4/19 seren arbazard

自然言語は曲線でこれまでの人工言語は直線だと述べた。自然言語ライクな人工言語を作るにはメンタルコーパスを制作する必要があるとも述べた。
しかし曲線は微分すれば線分の集合でしかないように、ボトムアップ式の直線的なやり方でも微細に至って作れば事実上曲線になれるのである。
中国語で雨は降るは下雨で、下は文字通り「下がる」とか「落ちてくる」という意味で、強いて自然な日本語で言うと「降る」でしかない。本来は「落ちる」などを意味する。
では日本語で「雨が落ちる」と言うかというと言わない。雨は降るものだとは日本人はメンタルコーパスを通して知っている。
しかし面白いことに「落ちる」の辞書の定義を読んだわけでもないし「落ちる」の語法を教えられたわけでもないのに、日本人はある状況では雨が落ちるも言えると判断できるのである。
たとえば雨漏りがするのでビニール袋で天井の穴を塞いだとする。
ビニールに穴が空いてポツポツと来れば、日本人は「雨が漏れてきた!」と表現するし、ビニールが雨水の重みに耐えられなくてドサーッとなれば「雨が落ちてきた」も容認される。で、こういう雨漏りみたいな例は普通の暮らしをしていれば起こらないことなのに、もし人間が初めてこのような状況に置かれたとしても、すべての日本人が「雨が漏れてきた」とか「雨が落ちてきた」と表現できる。子供ですらだ。メンタルコーパスにこのようなスキーマは想定され備蓄されていない。
にもかかわらず日本人は示し合わせたように「漏れてきた」とか「落ちてきた」と表現するし、それで理解し合える。
なぜだろう?刺激の貧困説にも通じる不思議さだ。
どうも人間はメンタルコーパスを獲得する際、自分なりの語法、認知法、表現法を作り出すようなのである。
どの日本人の子供でもこのような状況に初めて置かれて「漏れる」だの「落ちる」だの一定の表現をするということは、つまりメンタルコーパスにない新しい表現を創出する能力があるということで、この新しい表現の創出はどうもメンタルコーパスに由来するというより、脳内で作った語法、認知法、表現法によるものらしい。
で、なぜ語法とかを教えているわけでもないのにどの日本人も同じ表現をするのかというのが疑問だ。なぜ皆が皆同じ語法、認知法、表現法を導出するのか、それが謎だ。
つまりネイティブというのはメンタルコーパスとともに、語法、認知法、表現法も獲得している。そしてそれは他のネイティブとも大抵のケースにおいて等しい内容なのだ。
いずれにせよ、メンタルコーパスにない事例を見て皆が皆同じような表現をするということは同じ語法、認知法、表現法を共有していることになる。
つまり人間はトップダウンのメンタルコーパス習得以外にボトムアップの語法、認知法、表現法という法則性をも習得していることになる。
法則性というのは直線的であり、脳内で様々な法則性を掛けあわせた結果、自然言語の持つ曲線的な構造ができることになる。
で、直線の集まりで曲線になるというのは、要は一見曲線だが微分したら線分の集合だったというようなもので、結局自然言語らいくな人工言語は語法、認知法、表現法もメンタルコーパスも作らないといけないということになる。

直線的な言語と曲線的な言語とメンタルコーパス

2015/4/19 seren arbazard

人工言語を作るとき、2種類の作り方がある。1つは――というかこれまで人類はこのタイプの人工言語しか作ったことがないが――ボトムアップ式に、音、文法、語彙、文化、風土、語法、認知法、表現法をこの順で作り上げていく方法である。語法などはすべて辞書に記載され、読まれて理解される。このタイプの作り方ではたとえばアルカのhan(広い)のように「面積が甚大であることを示す」といった語法の定義となる。言葉で語法を定義していくと世界の切り分け方が直線的で四角四面になる。イメージ的にはアフリカの国々の国境みたいな感じである。

一方、自然言語の持つ概念はすべて曲線的であり、ヨーロッパの国々の国境のようである。ボトムアップな作り方では直線的な概念(世界)の切り分け方しかできない。別に人間という生物は四角四面な切り分け方の人工言語でもネイティブになれるし、そのことはアルカのネイティブを制作したことからも実証されている。
ただ「あたかも自然言語のような言語を作る」という点において、このボトムアップ式の直線的なやり方では満たせない。

自然言語にしても人工言語にしても辞書というのはすべてボトムアップ式な説明で四角四面な定義である。たとえば明鏡第二版では「夢」は「睡眠中に様々な物事をあたかも現実の経験であるかのように感じる心的現象。多くは視覚像として現れる」とされている。日本語ネイティブがこれを読んだら「まぁそうだな」とは思うだろうが、誰一人としてこの定義を法律の条文のように覚えてはいない。人間は辞書の定義のように概念を理解しない。
なのでたとえば英英辞典を読んで完璧に暗記したとしても、辞書的な言葉による四角四面な定義でしかないので、英語のネイティブにはなれない。
もちろん明鏡を全文暗記しても日本語のネイティブにはなれない。日本語は自然言語であり、その概念の切り分け方は曲線的だからだ。

たとえば夢の定義を覚えても「彼が今朝夢に出てきた」のような言い方はできない。何が曲線的って、明鏡で「出現」を調べると「現れ出ること」とあるが、じゃあこの定義と夢の定義をかけ合わせると「彼が今朝夢に出現した」と言えることになる。これこそ直線的なボトムアップ式の表現だ。しかしこの文が非文でないが100%不自然なのはすべてのネイティブに共有されるはずである。日本語ネイティブはみな「夢のときは出現より出てくるのほうが自然だ」と分かっている。
自然言語にせよ人工言語にせよ、音~表現法までのボトムアップ式のやり方だと、ロジカルな説明でしかなく、直線的でしかいられない。自然言語に極限まで近づけた、というか自然言語と見紛うような人工言語を作る場合、音~表現法まで作りこんでも直線的でしかなく、現実の自然言語のような曲線性は持てない。

で、もう一方の作り方である。今までこの手法で人工言語が作られたことはない。
それはトップダウン式の曲線的な作り方である。
そのやり方とは「メンタルコーパスを構築する」ことである。
たとえば日本人が「彼が今朝夢に出てきた」という表現をできるのは、辞書を読んだからでなく、メンタルコーパスを構築してあるからである。まず赤ん坊の頃夢を見てそのことを親に話したり、悪夢を見て泣いたときなど、母親から「怖い夢を見たのね」などと言われる。この繰り返しでやがて子供は「どうも寝てるときに見たあれは『ユメ』というらしいぞ」と理解したり、「ユメを見る」というコロケーションを獲得したりする。
次に夢に父がでてきたりして、そのことを親に話すなどして、「ボク、パパを夢で見たよ」などと説明すると、母親は「パパが夢に出てきたのね」などと説明する。
こうして夢に人が現れる場合は「Nが夢に出てくる」というふうに表現するのだなと理解し、「Nが夢に出てくる」という文子1言子・文子の概念についてはArbazard(2004)(貞苅詩門の学習院大学における学士論文を参照のこと。同大学文学部棟8階の書架にて閲読可。副手に声をかけて読むことができる)。言子とは他の類似概念で言えばチャンクに近い。文子は成句に近い。(言子でなく)を獲得する。
人はこうして子供のうちは口語で、大きくなるにつれて文語も合わせてかなり多くの言子と文子を獲得する。そしてメンタルコーパスとはこの言子と文子の集合のことである。
ネイティブは辞書を読んでその四角四面な定義を見て概念を覚えない。日本人の場合、ほとんどの人間は辞書は漢字を確認するために使うものだ。
間違えても日本人の子供は明鏡の定義を暗記して言葉を覚えない。
そしてこのことはあらゆる言語のネイティブに言える。

さて、もし人工言語を自然言語レベルにまで作りこむとしたら、旧来のボトムアップ式のやり方ではいけない。実際自然言語というものは「出現するってのは現れるってことだろ。たとえばライバルが出現した、とかさ。じゃあ夢に人が現れた場合、○○が出現したって言うか?言わないよな。ふつう夢に出てきたっていうよな」というように、四角四面な直線的な定義では例外が多すぎて定義しきれず、結局言子と文子の集積というメンタルコーパスの構築を通した曲線的な定義を通して作られるものだからである。
アルカも1991から2015までボトムアップ式であった。というか語法、認知、表現法まで言及した人工言語はアルカが初めてである。しかしボトムアップを究極まで突き詰めても直線的な定義しかできず、まあそのおかげでロジカルに齟齬なく外国人間でも意思疎通できたわけだが、ゼロから自然言語レベルの言語が作れるかという点においては、ボトムアップを究めても不可能だった。
研究の結果、人工言語を自然言語レベルで精巧に作るなら、曲線的な、トップダウン式の、メンタルコーパスを構築するやり方が必要であることがわかった。

ようはメンタルコーパスさえ構築できれば日本語だろうと英語だろうとネイティブレベルになれる(ただし発音は幼いころでないとネイティブ化は難しい。東大のロバート・キャンベルあたりは大人になってから日本語をやりメンタルコーパスを獲得したが、発音はやはり外国人である)。
ではそもそもメンタルコーパスとは何かというと、文字通り頭の中でにある個々人のコーパスで、言子と文子の集まりである。たとえば「夢を見る」というのは文子であり、文法処理を行って「夢を見た」などを導出する。「Nが夢に出てくる」も文子であり、Nに任意の名詞が入る。
言子や文子は記憶に定着しやすいものとしにくいものがある。一番定着しやすいのは対人コミュニケーションでかつ強い感情を伴ったものである。たとえば父親がキレて「この野郎!」といって殴られたとする。このように強い感情を伴った対人コミュニケーションでかつ出来事であると、人は言子や文子を獲得しやすい。「この野郎」と言われて殴られた子供は決して「この野郎ってどういう意味だろう」と考えて辞書を引かない。
単に「あぁ、こういう場面ではこう言うんだな」というようにスキーマと関係付けて覚える。だから自分が父になって息子を殴るときも容易に「この野郎!」と言うことができる。「こういうシーンではこういう風に言うものだ」というスキーマを獲得しているからである。

一番記憶に残りにくいのは上の逆で、要するにほとんどの日本人が英語を学習するときにやっている、「単語帳を読んで訳を覚える」というものだ。
出来事でもないし、場所やイベントと関連付けることもないし、コミュニケーションでもないし、感情も伴わない。恐らく日本人が英語を勉強しても使えないのは単語の訳を覚えるというボトムアップ式のやり方をしているからではないか。
2015にnias avelantisが私に出した手紙の中で、”I can make an advice”2nias補足、私が書いたのはmake an adviceでなくgive an adviceだが、確信がなかったのでgoogleでこの表現があることを確認して書いた。しかし誤用が引っかかるので意味がなかったらしい(知性に欠ける)。という文があって、初見でかなり違和感があったのだが、まず私はこれを見たとき「ふつうIf you want my adviceだろう」と思った。私には多少英語のメンタルコーパスがあるからだ。彼にはwant one’s adviceという文子がなかったので、日本語の「私はアドバイスできる」という文を頭のなかで作り、私はできるの部分をI canにした。で、アドバイスするという言い方を英語でどう言うか知らなかったので、日本語の「私はアドバイスできる」という文を頭の中で作り、私はできるの部分をI canにした。で、アドバイスするという言い方を英語でどう言うか知らなかったのでdo an adviceと考えたのだろう。しかし英語はdoをあまり使わないという受験知識があったので、「強いて言えばmakeかな?」と思ってmake an adviceとしたのだと思われる。
ちなみにadviceは不可算名詞なのでan adviceという言い方はおかしいし、このことは受験で習うのだが、これについては覚えていなかったようで、英文法の原則に基づいてanを付けたというところだろう。
彼はボトムアップ式の学習法しかしてこなかったので訳も日本語を基底としたやり方になったのだろう。
誤解のないように言っておくが、avelantis卿は日本の中で最も知的なクラスタに属するし、私も敬意を持っている。ただ言語というのはアメリカなら中卒底辺だってメンタルコーパスを持っているので自然な言い方ができるし、なんというか知性より習慣的知識に依存するものでしかなく、彼ほどの知能があってもメンタルコーパスなしには自然な言い方はできないということである。

さて話を戻して、ようは自然言語ライクを目指す人工言語はメンタルコーパスを作るべきなのである。子供の頃のあなたが日本語や英語を覚えたとき辞書を使わなかったように。
ただ人工言語の場合メンタルコーパスを作るのはかなり難しい。なぜって、テレビもラジオも本も人工言語を使わないし、あなたの家族や学校の友達も人工言語を使わないからである。人間は出来事記憶は忘れにくい。人間が記憶しやすい条件は上で述べたとおりだが、人工言語にはメンタルコーパスを構築するだけの社会的環境が整っていない。なのでせいぜいできることといえば人工言語で書かれた本を読んでメンタルコーパスを構築することだが、そんなたくさんの本というかコーパス自体が人工言語にはないし、本で見ただけの記憶は比較的薄れやすいし、臨界期を過ぎた大人には更に難しい。

ただ、幸いなことにメンタルコーパスはOEDやCOBUILDのような何億ものコーパスを集めなくても作れる。実は音~表現法までの全段階において、満足に表現できるためのメンタルコーパスを、3~4歳の子供でもおおむねは、6歳にもなればだいぶ、10歳になればほぼ完璧に、14歳ともなれば完全に獲得している。
生活をして生きていくというだけのレベルであれば、6~10歳程度の子供でも立派にメンタルコーパスを持っていてネイティブである。
彼らが脳内に蓄えている言子などたかが知れていて、その程度のメンタルコーパスなら明文化して辞書に登録することができる。
つまり人工言語でも自然言語ライクになれるということである。――メンタルコーパスを獲得するのに十分なコーパス集を作っておけば。それは小説でもいいし辞書の用例でもいいし、どのような形であれ良い。
このメンタルコーパス構築用のコーパスを用いるときのコツとしては、訳を読まず、個々の例文をできるだけ文だけでなく音声で、かつPCを使ってさも人とコミュニケーションをしているかのようにインタラクティブに、行うことである。できればその人工言語を使える人かアンドロイドとコミュニケーションするのが良いのだが。
母語に訳すのはいけない。訳の大意だけ他言語で覚えてしまい、人工言語のメンタルコーパス構築に役立たない。
なのでこれからの人工言語の辞書は、まぁ自然言語にもOEDや明鏡があるように、そういうボトムアップ式のものも作りつつ、かつトップダウン式のやり方で行くべきである。
それをやるにあたって、紙に書かれた文字だけで覚えようとは無理である。
我々人類が今まで外国語を勉強してきたようなやり方は実は一番効率が悪い。PCを使えば辞書は画像や動画も使えるし、音声も使えるし、プログラムを組んでAIを使ってインタラクティブにもなれる。
つまりメンタルコーパスを構築する際記憶に残りやすくなる。
なので人工言語というか自然言語もだが、辞書がやるべきことはこれからは紙の脱却なのである。無論「不可逆的」のような普通口語で使いそうにない言葉は本で読んで覚え、メンタルコーパスを構築するのが普通だろう。
しかし口語のほとんどはインタラクティブな方が効率が良い。
ちなみにこの論文はAIを作るときにも役立つと思う。

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1. 言子・文子の概念についてはArbazard(2004)(貞苅詩門の学習院大学における学士論文を参照のこと。同大学文学部棟8階の書架にて閲読可。副手に声をかけて読むことができる)。言子とは他の類似概念で言えばチャンクに近い。文子は成句に近い。
2. nias補足、私が書いたのはmake an adviceでなくgive an adviceだが、確信がなかったのでgoogleでこの表現があることを確認して書いた。しかし誤用が引っかかるので意味がなかったらしい(知性に欠ける)。

人工言語は中二病

2015/4/10 seren arbazard

正直言って人工言語は中二病の一種だと思う。イェフダーのように宗教がらみで潜在ユーザーがいる言語は中二病でないと思うが、そもそもヘブライ語が人工言語かという問題もある。
ザメンホフについても、皆が同じ言語を喋れたら今より世界は平和になんて建前はあれど、実際は同じ国の人同士ですら内ゲバするのが人間だし、そもそもエスペラントは人口において国際語の英語にまったく勝ててないし、非現実的な夢想という思春期にありがちな中二病だったと思う。

アルカにせよ、混血児で自分の居場所がわからないような少年少女による自分たちがいていい空想の世界に添えられた中二病の発露だと思う。
トールキンに至ってははじめからファンタジーで脳内お花畑だし、まぁ普通に中二病と思う。

中二病でないのはハナから実用を目的としたプログラミング言語ぐらいで、でもあれは人間の言語ではないので、純粋な意味で言語かって言うと少し違う。

同じ工学言語でもトキポナとかロジバンみたいなのはPCに使えるわけでもなし、まぁなんか作ること自体が楽しくて作ったんだろうな感ある。

結局のところ人工言語は中二病で、一過性の思春期の病だと思う。
人工言語クラスタは楽しいから作ってるのであって、ゲームみたいな感覚なのだろう。
草野球と同じで、作ってること自体が楽しく、それが何にならなくてもいいのだろう。
クラスタの一部はプロ野球を目指して私やローゼンの本やサイトを読んで本格的に作ろうとするようだが、ほとんどは草野球みたいに「なんか楽しかった」ってなれば満足なのだろうと思う。
しかもこの業界、プロになっても何のトクもないのである。
やはり中二病の遊びなんだろうなと思う。

私自身、仲間や恋人たちだけの仲間内の符牒を作ってもっと帰属意識を持って、より固い絆を作ろうぜ的なところからのめり込んでいった気がする。
その思春期にありがちな子供の夢を叶えるために活動してきたわけで、やっぱ中二病なんだろうなと思う。

ただ、別に中二病をここでは悪い意味に使ってはなくて、そういう自分(たち)の理想を形にしようよ的な発想は尊いと思うし、今後何年かかってもこの人工言語という中二病患者はなくならないと思う。

人工言語が作らねばならないもの

2015/4/10 seren arbazard

20世紀までの人工言語はアプリオリな人工言語と言ってもアプリオリな部分はせいぜい音、文法、単語くらいのものでしかなかった。
2005年にセレンが人工言語論を打ち立てたあたりから、あるいは1991年からアルカを作り始めたあたりから、他の要素も人工言語には必要ということがわかってきた。

セレンはまず「文化」「風土」(つまり「世界」)が言語に影響を与えるので、これらも検討すべきと述べた。世界の必要性はサピア=ウォーフのころから言語と文化の相対性について言及があったので理解されやすかった。
アメリカのM.Rosenfelderでもこの程度のことは気付いていたようである。

しかし、人工言語には世界以上のものが必要で、それを認識しているのは2015年現在セレンらしかいないようである。というのもアルカ以外の人工言語には以下の要素が考慮されていなかったためである。

その要素とは、「語法」や「認知」や「語用論」である。
たとえば日本語の唇には唇の下を含まないが、英語のlipは含む。
頭にものを乗せて所有している動作を英語ではhave、日本語では持つといえるが韓国語では「のせる」と表現し、持つと言わない。
名詞にしても動詞にしてもあらゆる語の語法が定義されていないと、ない部分というのは人工言語の世界ではユーザーが勝手に自分の母○○で埋めてしまうものなので、アプリオリな人工言語といえなくなってしまう。語法は文にして説明しても例文の中で示しても構わない。アルカの場合はユーザーがアルカの語法を共有していたので明文化する必要が2013年まではなく後者のタイプだった。

「認知」も重要で、昼ドラみたいな展開を日本では「ドロドロした」と擬態語で表現する。泥などのドロドロした感じがドラマにも見えるということでドロドロと形容している。これは日本語の認知による表現である。

「国道16号は埼玉県を走っている」の走るも人間の目線の走査を認知的に表現している。目の走査機能はどの人類も持っているが、道が走ると表現するかどうかは言語ごとに異なる。
人の認知器官は互いに同一だが、認知を言語に反映させるさせないのポイントは言語ごとに異なるし、反映の仕方もひと通りではない。

なので人工言語はその言語専用の認知表現を備えていなければならない。
その認知がアプリオリかアポステリオリかは問わない。とにかく何かしら指定しておかないとユーザーが母認知でその言語を運用してしまう。
そうなると多国籍で話したときに必ず齟齬が生じる。

そして残るは語用論である。
日本語としては「一部の人は桜が嫌い」でも「桜が嫌いな人もいる」でもよいし非文でないが、日本人ならみな必ず後者が自然と答える。
同じ事柄をどのように表現するか、どの言語も複数の言い方が可能である。しかしどの言い方が自然かとなると語用論の分野になる。
ということは人工言語は語用論についてもアプリオリなりアポステリオリなりとにかく独自の語用論を備えていなくてはユーザーが母語用論を援用してしまうのでアウトだ。
日本語は「台風が窓を割った」とも「台風で窓が割れた」とも言えるが後者のほうが自然である。それは日本語が英語と違って無生物主語を好まないというところから来ている。
こういう「自分の言語はどのような理論の言い回しを好むか」つまり独自の語用論を考えなくてはならない。

しかし、2015年現在、「語法、認知、語用論」まで独自のものを必要とするという考えはアルカ以外に見られない。
人類はまだそこまで到達していないのだ。
人工言語である以上、というか言語である以上、あらゆる要素がオリジナルでなければユーザーが母要素を援用する、そしてその先にはディスコミュニケーションやマルアンダスタンディングが待っているという危惧を、人工言語屋は、ついでにいえば自然言語の語学屋も言語学者も知っておいたほうが良い。
ちなみにアルカでは道が走っているのような簡単なコロケーションひとつとっても自分含め外人を集めて「お前この言い方で俺の言いたい意味分かる?」「分かんね」「じゃあこれなら?」「あっそれなら分かる」「私もー」的な流れで頭突っつき合わせて作っているので、ものすごく時間がかかり、24年経った現在でも未完の言語である。
なおアルカで道が走っているは「道が行く」と認知的に表現する。ちなみに「道が往来する」ではどうかなどの意見もあったことを付け加えておく。
また、何人かの古参ユーザーは「道が行く」と聞いて「は?」となったので、「tとkの間に道がある」と言い換えたらなるほどとなったので、認知的な表現はやはり万人には理解されづらいのだなと思ったが、「tとkの間にある」は迂言的で冗長なので、やはり論理的な言い方は通じやすいが運用効率が悪いなと思った。

万人が意思疎通できるような言語とは

2015/4/10 seren arbazard

万人が意思疎通できるような言語は人工言語の大きなテーマで、特に国際補助語にとって大きなテーマである。
国際補助語でなかったとしてもユーザーが多国籍になれば自然と万人が意思疎通できるような言語について考えざるを得なくなる。

万人が意思疎通できるような言語でないとその言語は多国籍で使ったとき誤解を生みやすい。
自国だけで意思疎通できているとしたらそれは単に自国語の文化や認知にアポステリオリしているだけだ。母語にアポステリオリしているだけで、その言語自身の文化や認知ではない。

で、万人が意思疎通できるような言語について考えるとき、2つの作り方がある。ひとつは人間に共通する文化や認知だけ採用し、非共通の物事はすべて論理的に迂言して説明するというやり方だ。しかしこのタイプの言語はユーザーが持つ銘々のmother usageとかmother cognition(母語法とか母認知)の最大公約数しか採れないので迂言法と相俟って恐ろしく運用効率が悪い。
さらにそういう言語ではすべての概念が各々異なった語形を与えられるのでカバー率も自然言語に比べて極めて悪く、学習効率も悪い。
万人が意思疎通できるような言語ではあるものの、現実的な使用には堪えない。

もうひとつのやり方が、万人の母語や母文化や母認知とも異なった新しい語法、文化、認知などを0から作って、万人でそれを共有しようというものであるが、どの民族にとっても学習が難しいというデメリットがある。
アルカがこのタイプであるが、学習効率、運用効率、表現力の観点で見るとバランスよくカルディアオリジナルの文化や語法や認知がなされていて、やはりバランサーである。つまり最良というより平均顔美人でしかない。

万人が意思疎通できるような言語にはこのように最大公約数を取るやり方と0から作って共有するやり方、言い換えればアポステリオリとアプリオリがあるが、学習効率、運用効率、表現力全体で考えると後者のほうがまだポイントは高い。
アルカは万人が意思疎通できるような無難なアプリオリ言語の実例であって、無難でありかつ現実的には最良なラインだが、我々の子供のころ思い浮かべたあらゆる視点において最も優れた人工言語というわけにはいかない。
なぜって、これまでも述べてきたとおり、最も優れた人工言語というのが丸い四角のように実在しないのだから。

というかもしそんな神の言語みたいなものがあったら賢い人類たちはとっくにそれくらい作り上げているはずである。
結局はperlやCみたいに用途に応じて最も優れた人工言語は作れても、360°優れた人工言語は作れず、作ろうとしてもアルカのようなバランサーになるのである。

理想的な国際語について

2015/4/10 seren arbazard

理想的な国際語については国際語論で述べた。
理想的な国際語は誰からも平等な言語である必要があるのでアプリオリでなければならないが、そのゼロから作られた言語がどの言語を母語とする人々の間でも誤解なく意思疎通できる必要がある。そのためにはすべての語の語法を定義する必要がある。

そこで、理想的な国際語を作るとき文化的または認知的な表現を漂白するかどうかということが問題になってくる。
たとえば幻hanは広いという意味だが、2次元の面積が大きいことのみを表し、心が広いのような比喩的な使い方はない。
面積が大きいことは空間に関する物理的な論理なので万人にとって理解されやすいため理想的な国際語に採用すべきだが、心が広いと人を心が「広い」と表現するのは日本人ならわかるが、他の母語話者にはそうでないことがある。
心が広いの広いは比喩的な表現で、つまり認知的な表現である。人間は同じ認知器官を持つが、どの概念にどの比喩を当てるかは言語ごとに異なるので理想的な国際語に認知的な表現はふさわしくないといえる。
文化的表現に関しては況やで、狼が孤高なのか残酷なのかは文化によってまちまちなので、国際補助語のエスペラントがlupaで残忍や獰猛を表すとか、「ヴォラピュクのようだ」でちんぷんかんぷんを表すということはあってはならない。
つまりエスペラントはこの時点で理想的な国際語ではない。

そこで理想的な国際語としては、文化漂白や認知漂白という手法を用いて、文化的、認知的な表現をしない言語の設計をすることになる。
認知的な表現を一切せず、物理法則や神経科学によってのみ表現する言語なら理想的な国際語としてふさわしいと思われる。
ところがそのような言語は学習効率、運用効率、表現力のうち運用効率と表現力が低く、かつ学習効率の高さも保証されないので、学習効率、運用効率、表現力全体の値が低く、優れた言語とは言いがたい。

もし認知表現がすべて使えなかったら、新しい概念は常に新しい語を用意しなくてはならず、必要な単語が無尽蔵に増えて学習が容易でない。
たとえばドロドロの愛憎劇のドロドロは比喩、すなわち認知的な表現であって、日本語はそういう劇を擬態語のドロドロで表現したが、一方英語はsordid(下劣な)という形容詞で表現している。逆に英語がdirtyを「汚い」とは別に卑猥なという意味で比喩的に使っているのに対し、日本語は「卑猥な」という形容動詞を当てている。
自然言語は新しい概念ができたとき新語を作るか既存の語を拡張するかで表現するのである程度認知的な表現が生まれる。だが認知的な表現はその喩えが掴めない初習者には理解されず誤解のタネとなる。

そこで理想的な国際語としては一切の誤解を生まないためにあらゆる文化、認知漂白を行ったとして、その結果残るのはコロケーションをほとんど生まないか造語力の弱い新語だらけになるか、あるいは既存の語をトキポナやベーシック英語のように組み合わせて迂言的に表現するかであり、前者は学習効率が悪く、後者は運用効率が悪い。
つまり、理想的な国際語は作れるには作れるが、学習効率か運用効率のどちらかが悪くなるという宿命がある。そしてその時点ですでに理想的でない。

アルカではこの問題が1990年代から議論されていた。アルカは理想的な国際語を目指していなかったが、ユーザーが28ヶ国以上から成っていたため、互いに意思疎通をするには否応なく理想的な国際語のような言語について考察せざるを得なかったためである。
つまり理想的な国際語を目指していないのに成員の問題で理想的な国際語のような言語を目指さねばならなかったというわけだ。

それでアルカはどうしたのかというと、28ヶ国どの言語文化認知様式にも属さない新たな世界の切り分け方を作ろうということに落ち着いた。
理想的な国際語が学習効率か運用効率が悪いというのは1990年代に身を以て経験していたので、自分たち専用のアプリオリな世界の切り分け方をしようという結論になったのである。

アルカのユーザーたちも初めから理想的な国際語が無理だとかオリジナルの切り分け方をしようとしていたわけではない。最初に起こった問題は文化摩擦だった。
28ヶ国の人間が集えばテーブルマナーや挨拶の仕方から合わずに困る。そこで1990年代前半の私たちは彼我の文化の差を尊重するという手法に出たが、尊重しすぎてなにひとつまとまって行動できないという結論に至った。
そこで1990年代半ばに今度は互いの文化差を無視して寛容になろうという動きができたが、そうなると皆自然と28人の最大公約数的な行動、つまり安牌な行動しかできなくなって、これも廃案となった。この案が上で述べた理想的な国際語に近いと思う。文化も認知も漂白してできた無色透明な理想的な国際語は学習も運用も効率が悪かったのである。
そして1990年代後半から21世紀初頭にかけて、「どうせなら0から新しく自分たち専用の文化を作って皆それに合わせればよくないか」という考えに至り、かくしてその架空の共有文化たるカルディアが生まれ、文化に引きずられて言語も同じような進化を遂げた。

理想的な国際語を作っても学習・運用効率が低い、かといって特定の自然言語に寄せると28人のうち誰かが不満を言う。
そこででた結論が、0から新しく世界も文化も風土も宗教も言語も作ろうというプロジェクトで、アルカはこの精神を受け継いでいる。
アルカは数十人のメンバーの個人語だが実はこれほど試行錯誤してきた国際語はないというほど国際語然としている。
これを世界が使えば誰にとっても平等でそこそこわかりやすく使いやすい言語を人類は手に入れることになる。
実際は人々のほとんどは英語帝国主義だろうがなんだろうが長いものに巻かれとくか的な発想だし、言語の平等さや純粋性にはこだわらないので、アルカが国際語として使われることはないのだが。

我々は長年の試行錯誤の結果、理想的な国際語は学習運用効率が悪いので使うに堪えないということ、現実には理想的な国際語としてはアプリオリなものをそれなりの学習効率、運用効率、表現力のバランスで作ったものが理想的な国際語に当たるということを知った。

優れた言語

2015/4/10 seren arbazard

高校の頃セレンはアルカを最も優れた言語にしたいと考えていた。比較言語学なるものがあると知って優劣をつけるための学問かと期待したが、父親に「あれはそういう学問ではない」と言われ、「じゃあそんな学問に何の意味があるんだ」と言い放ったことを覚えている。そして高校のうちに比較言語学について読み、なるほど自分の想像していたものとはまったく違うと思った。
高校の頃、セレンは言語に優劣の差があり、最も優れた言語があるはずだと考えた。その後言語学は言語に優劣の差を付けないということを読んで知った。千野栄一あたりが最右翼だったように思う。

かつて言語学は言語には優劣があると考えていた。白人至上主義なレイシズムに帰着したので、のちの言語学はレイシズム=悪という倫理の下、言語に優劣の差はないという見解を示すようになった。
しかしセレンは現代言語学を見ていて、何かレイシズムに対する過敏な忌避感があるなと感じていた。ドイツがナチについて過敏に忌避するように、言語学も言語の優劣について過敏に忌避していると感じた。
倫理上の問題があって現代言語学は言語間に優劣がないと強調しているだけで、実のところ言語に優劣の差はあるのではないかというのがセレンの考えだった。

たとえばフランス語の動詞の活用など、意味上は何の役にも立っておらず、すべて不定詞で話してもフランス人には伝わるし、実際フランスの子供は動詞の活用をなかなか覚えない。アメリカの子供も同様で、he playのような言い方をよくする。playsより短いし意味の違いもないのだからむしろhe playのほうが合理的である。
どの言語にもその言語ならではの妙なこだわりがあって、そのせいで学習効率が悪くなることがある。英独仏などの活用は運用効率を上げるわけでもなく学習効率を低めるだけである。この英独仏ならではの妙なこだわりのせいでこれらの言語の学習効率は下がっている。
イタリア語になると逆に活用だけで主語がわかるから主語が省略でき、活用で主語を明示できる。ここまで来ると活用に運用の合理性が現れるのだが、英独仏ではそうなっていない。

学習効率、運用効率など、ある側面についてのみいえば言語には優劣があるといえる。動詞の活用については独仏より英語のほうが学習効率が良いので、この点に関しては英語のほうが優れているといえる。

言語間に優劣はないという現代言語学の常識という建前に私は反対している。言語を作ってきた人間にとっては運用や学習の効率というのはとても気になるところで言語学者が似非人道主義で停滞している横で言語の設計屋は言語間の優劣を肌で感じている。作る人の視点にならないと見えてこないこともあるのではないか。

問題は、言語間に総合的な優劣をつけるのが難しいという点である。活用が不便な代わりに独仏はスペルから発音が分かりやすいし、中国語のように細かな量詞もないのでその分学習効率は良い。
活用が楽なのと量詞が楽なの、どちらが上だろうか。それは定量的に測れない。なので全体としてある言語が優れているかは判断しかねる。

では中国語のように活用が簡単でドイツ語のように読みやすい言語があれば、つまりあらゆる面で学びやすい要素だけを集めた言語があったら、それはあらゆる面で学びやすい要素だけを集めた言語があったら、それは優れた言語なのだろうか。
そういう言語は確かに学びやすい。しかし運用しやすいか、表現力は豊かかという別の尺度が入ってくるので、全体として優れた言語かどうかはわからない。そしてそもそも自然言語にはそのような全方向に学びやすい言語はない。
なので言語学は優れた言語があるとは言わない。

では人工言語ならどうか。人工言語であればどの方向性においても学びやすい言語を作ることができる。
しかし人工言語においても学習効率が運用効率と表現力より優先されるか不明なため、結局優劣は言えないということになる。

だが我々の直感は知っている。長い歴史のあるエスペラントと、今日思いついたばかりの人工言語があったら、この2つが等価とされないということを直感で知っている。
となると少なくとも人工言語においては優劣の差があるといえる。
では我々は何をもってインスタント人工言語よりエスペラントのほうが優れていると直感しているのだろうか。そもそも言語の出来を評価するパラメータはどのようなものか。学習効率、運用効率、表現力以外に、人工言語ならではの事情として、歴史(使用実績)、ユーザー数(話者数)、知名度、影響力、作り込み度、などが評価基準に入ってくる。

これらを踏まえて最も優れた言語は何かを考えると、人工言語独自の作り込みなどの要素は全て満たし、自然言語レベルにまでしてなおかつ学習効率、運用効率、表現力を良くした人工言語が一番優れているといえる。
自然言語はピジン化を意図的にでもしない限り、学習効率、運用効率、表現力をすべて良くすることができない。
なので最も優れた言語は人工言語にのみ存在するといえる。

ところがここで問題がある。しばしば学習効率、運用効率、表現力は互いに矛盾するパラメータなのだ。
エスペラントの繋辞はestasだが、これは英語のbe動詞と違って規則的なので学習効率は良い。しかしそのせいでisなどより語形が長くなってしまい、運用効率が低くなっている。
中国語の量詞もそうだ。中国の子供も小さいうちは何でも个を使ってしまいがちで、なかなか量詞を覚えない。
ならばと量詞をなくしたとして、学習効率は上がるが表現力は低下する。
フランス語の名詞の性もないほうが学習は容易だが、la tour(塔)とle tour(一周)の区別ができなくなるなど、運用効率は悪くなる。

このように学習効率、運用効率、表現力はしばしば互いに矛盾するので、学習効率、運用効率、表現力すべてを良くするというのは現実的でない。
そして学習効率、運用効率、表現力すべてを良くすることができない以上、学習効率、運用効率、表現力のうちどれかに特化するかバランスよく学習効率、運用効率、表現力のパラメータを並べるかしかなく、ゆえに最も優れた人工言語は作れないことになる。
存在自体が丸い四角のように矛盾的なのだ。

セレンらが手がけたアルカですら、学習効率、運用効率、表現力のすべてのパラメータをそれぞれほどほどにしたバランス型にすぎない。
数詞がカテゴリーでないため、学びやすいが、英語のfire(火)とa fire(火事)を区別しづらいという運用上の問題を抱えているし、かと思えば豊富な人称代名詞や文末純詞のお陰で喋っている人のキャラはよく表現できるがそれを覚える手間がある点で学習効率も悪い。
結局アルカもバランサーにすぎず、最も優れた人工言語とはいえない。

国際語論 2/2

seren arbazard

・中立文化を持つべき

セレンが述べている通り、言語と文化風土は不可分である。そこで文化を漂白した脱文化を掲げたが、すべてにおいて文化要素を排除するのは事実上不可能である。その場合にはどの文化にも属さない中立的な架空の文化を立てれば皆にとって平等で公平となる。すなわち「理想的な国際語」に相応しいと言える。たとえば上で挙げたvelantだが、これについて考えてみよう。この語は「一本道」を意味するが、その語源はavelantisという語にある。avelantisは異世界カルディアにおける死者の黄泉路である。この世界では人は死ぬと死神が来て魂をあの世に導くと考えられている。avelantisはこの世とあの世を繋ぐ一本道であり、そこからvelantは来ている。したがってvelantという語は脱文化的な表現ではないと言える。しかし現実のどの文化にも属さない思想哲学なので、中立文化と言える。「理想的な国際語」は言語である以上、文化と不可分である。そこでどうしても文化を考えなければならない場合、このように架空の想像上の文化といった中立文化をあてがう「理想的な国際語」としての相応しさを保てる。

・定義しやすく学習運用がたやすい四角四面な語法を持つこと

概念マップを参照のこと。
自然言語の辞書の定義はどれも例外や反例を感じるものである。たとえば明鏡国語辞典第2版には愛の語釈は「価値あるものを大切にしたいと思う、人間本来の温かい心」とある。しかしこの定義だと、他人の家の価値ある壺が割れないよう丁重に大切に扱う場合も当てはまるが、その人が壺を愛しているとは言いがたい。このように辞書の定義は自然言語においては意味領域が青線のように複雑な形をしているので、言語で必要十分に説明しがたい。アルカは人工言語なので言語の意味領域(青)のほうを定義(赤)に合わせられる。たとえばアルカで愛はtiiaだが、これは「対象の利益や幸せを自分のそれより優先すること」であり、この定義に当たればすべてtiiaであるし、当たらなければtiiaでない。つまり男女の性愛でも自分の身のほうが大事な希薄な関係ならtiiaとは言えないし、逆に相手が赤の他人でも自分より大切だと思えればtiiaと言える。定義に言語を合わせることで、その民族の人間が辞書を読んで語義を覚えたとしてもまるで法律の条文のように良い意味で杓子定規にその語を運用できるので、どの民族が使っても語法の違いによる意思疎通の齟齬が起きない。法律の条文のように辞書の定義がその語の意味領域を指定するので、同じ辞書を使っている限り、ユーザー間で誤解が起きない。そのためには「理想的な国際語」は語法の定義を持った辞書とその辞書が定める通りの意味を持つ、四角四面な語法を持った言語の設計をしなければならない。そして2015年現在アルカはそれを持っている唯一の言語である。ゆえに語法論においてもアルカは「理想的な国際語」に相応しいと言える。

・「理想的な国際語」の意義

無題

たとえば日本人が米中仏の人とそれぞれコミュニケーションすると言語を習得せねばならず大変である(fig1)。そこでfig2のように中間言語を介在させればひとつの言語を覚えるだけで誰ともコミュニケーションできるようになる。
この中心に来ているのは現実には英語だが、それだと英語帝国主義になるので「理想的な国際語」が望ましいというのが本論の前提である。そしてこの「理想的な国際語」の部分にはアルカを提唱している。
この真ん中に来るのは中立で平等でなくてはならない。アルカの場合、語順はSVOがデフォルトなので英仏に有利だが、名詞に単複がないのでその点では日中に有利である。それぞれの点において各国語にとって有利不利があるので、結果的に平等な難易度となっており、中立かつ公平である。

ザメンホフは民族間の言語の壁が民族紛争など諍いの種になっていると考え、言語の壁をなくして世界を平和に導こうとしてエスペラントを作った。エスペラントの精神は反戦と博愛主義である。
このフィルターでアルカを見てはならない。アルカの場合、支配関係のない精神的平等を言語によって実現する方法を提唱している。これは魂の戦いである。母語の自国に支配されず、英語帝国主義にも支配されない精神的に自由で平等な生き方の実践。利ではなく理の問題。哲学的で高尚なテーマである。利を取るなら母語と英語だけで生きればいい。精神の自由と平等という理を尊ぶなら「理想的な国際語」で生きることができる。その理が、精神の自由と平等が「理想的な国際語」の意義である。

以上終わり。これを元に議論して原稿を詰めたいです。コメントを。

国際語論 1/2

2015/1/9 seren arbazard

本論では「理想的な国際語」について考察する。
そして「理想的な国際語」として人工言語アルカを提案する。

英語帝国主義

2015年現在デファクトスタンダードな国際語は英語である。英語のネイティブは当然英語を習得するし、英語圏の経済力、軍事力が強いため、英語はノンネイティブの間にも広まっていく。日本では義務教育として施されるし、貧困国では仕事のために英語を使う。
多くのノンネイティブは好きで英語をやっているわけではない。勉強や仕事など生活のためにいやいややっているものも多い。望んでやるわけでもないのにやらされる現在の世界。これを英語帝国主義とする。

英語帝国主義の問題は英語という特定民族の言語が他民族に対し支配的な立場を取ることにある。具体的に言えば、たとえば日本とアメリカにおいて、戦勝国の言語を国際語ということで敗戦国が学んでいるこの現状は、アメリカ人側を支配者層に立たせている。経済的、軍事的、政治的だけでなく、言語という民族のアイデンティティ上でも日本は英語を母語とするアメリカにマウントされている。
あるいは貧困国において観光くらいしかまともな外貨収入がない国の民などは生きるためにやりたくなくても英語をやるが、ここでも英語は彼らの母語に対し支配的な立場を取っている。

言語はその民族の一番大切なアイデンティティのひとつであるという前提に立つと、英語帝国主義の最大の問題は他民族に対する精神的な支配にあると言える。
つまり簡単にいえば不平等なのだ。
しょせんこの世は弱肉強食。弱い民族は強い民族に支配されるしかない。しかし経済や軍事や政治など日々の生活、つまり「体」は売っても、「心」や「魂」は売れない――そう考えるものもあるだろう。
「理想的な国際語」のレーゾンデートルとはまさに彼らのためにある。
体は売っても心は売らない。つまり「生きていく上では英語を利用するが、そんなもの「理想的な国際語」としては認めない」、そんな反英語帝国主義が本論の国際語論である。
すなわち、国際語論とは反英語帝国主義のひとつである。

「理想的な国際語」の条件

「理想的な国際語」はあらゆる民族の言語であってはならない。なぜなら特定の民族の言語を「理想的な国際語」にすると、そのネイティブとそれ以外のノンネイティブの間で言語的な、一種の精神的な支配関係ができ、不平等だからである。ゆえにあらゆる自然言語は「理想的な国際語」になることが本質的にできない。
そこで人工言語の出番である。「理想的な国際語」になりうる言語は本質的に人工言語のみである。

しかし人工言語には2つの類型がある。ひとつは自然言語から語彙などを借用したアポステリオリで、ひとつはそういった借用を一切しないアプリオリである。アポステリオリは自然言語からできているので借用元の言語の民族が一方的に支配的になってしまうという致命的な不平等があるため、「理想的な国際語」になれない。代表的なのはエスペラントである。エスペラントは西洋語のアポステリオリなのでこれを「理想的な国際語」として採用すると欧米人が支配的でアジア人や黒人の多くは支配される側という、現実通りの勢力図になってしまい、精神の虐待にほかならない。

ひとつアポステリオリで可能性があるとすれば、発想を転換して、あらゆる言語から借用を行うというアイディアが考えうる。しかし現実的にはこの案には問題が多い。
たとえば世界に5000の言語があるとして、そこから1語ずつ借用するというやり方だが、これだと話者が一人しかいない言語も一票持っていて、話者が10億人以上いる中国語も一票しか持たないことになり、到底平等とは言いがたい。
ならばと話者の人口比に合わせた配分にすると結局英語や中国語など現在強い言語を元に形成されるので英語帝国主義と大差ないし、少数民族が支配される側に回る点で不平等である。
そのため、あらゆる言語から借用するタイプのアポステリオリも「理想的な国際語」にはなれない。

しかるに消去法で残るのはアプリオリである。「理想的な国際語」にはアプリオリが相応しいと言える。

アプリオリの弱点

「理想的な国際語」に唯一相応しいアプリオリであるが、問題点もある。まず、どの言語からも借用しないということはたしかに万人にとって平等ではあるが万人にとってわかりづらい。それが弱点のひとつである。

しかし学習が難しいことは支配関係とは関係がないので、単にすべてのものが努力すればよいだけである。そもそも怠惰でいたければ母語と英語だけで暮らせばいいのだから。
「理想的な国際語」は魂の戦いなので、支配された飼い犬のような魂を売った生き方でいいのなら「理想的な国際語」などはじめからやらなくていい。怠惰に生きる権利を人は持っているのだから。
「理想的な国際語」は魂を売り渡したくないもののためにあるので、「学習するのが大変だから「理想的な国際語」に相応しくない」は逃げ口上にすぎない。
それにアプリオリはたしかに学ぶのが難しいが、かといって英語だって日本語から見ればアルカを学ぶ以上に難しいわけで、自然言語なら簡単でアプリオリなら難しくて手が出ないということはない。日本人がアラビア語をやるならアルカを学ぶほうが人工的に設計されている分何倍も易しい。

もうひとつアプリオリの弱点は「自然言語なみに使えるアプリオリ」を作るのに平気で何十年もの研究と実験が必要だということである。その期間中複数人の人間を一切金にならないアプリオリ作りに従事させるのはまこと至難の業である。
人を雇ったとすると莫大な額がかかるが、ビジネスにならない研究に金を出してくれる企業も銀行もない。なのでアルカの創案者であるリーザのような「金と動機を持った個人」しかできない。また、人を雇わない場合、完全にボランティアになるので、好事家を魅了することができるカリスマを持った人物が自身の人生をとして活動しなければ現実的に自然言語なみのアプリオリは作れない。その2つの面においてアルカは古~制までリーザに、制~新生までセレンという人材に恵まれた。
こうしてさまざまな人の努力が奇跡的に積み重なった結果、自然言語なみのアプリオリが何十年という研究と実験によってようやくひとつ生まれる。
科学者はよく分かるだろうが、機械やプログラムを「理論上うまく働く」ように設計して作ったとして、それがうまくいくことはほとんどない。試行錯誤の後、ようやく機械やプログラムは回るようになる。自然言語なみのアプリオリも同じで、アルカと同じように一見見える作りの人工言語を作ることは個人が数年かければ作れるが、それを実験して実用に堪えるようにまで磨き上げるのは長い期間を要する。体裁だけ繕ってもプログラムがうまく回らないのと同じく、言語としては機能しないのである。
すなわち、それだけ自然言語なみのアプリオリの存在は稀有であり、2015年現在そのような言語はアルカしかない。アルカは初代、先代、古、制、新生、俗と続く人工言語シリーズであるが、どれももともと「理想的な国際語」として作られたものではない。ただ30カ国以上のユーザーによって制作・使用されてきた20年以上の歴史の中で、自然と世界中で使える、世界の様々な民族の間で意思疎通が可能な言語へと磨かれていって、結果的に「理想的な国際語」らしきものへとなっていった。
なぜ「らしき」なのかというと、あくまで現行の俗幻はカルディアという架空の世界で使われる言語という芸術言語として作られているからである。アルカはこのままでは「理想的な国際語」になれない。チューンアップが必要である。そして「理想的な国際語」用に調整したアルカを世界語アルカ、ないし結幻(ゆうげん)と呼ぶ。これが「理想的な国際語」としてのアルカである。

アルカはもともとカルディアの言語だが、現実でも使うことができるし、実際に使われている。カルディアではアルカは「理想的な国際語」であり、人工言語でもある。つまりもともと「理想的な国際語」としての素地を持っている。それを現実世界で実際に使おうというわけである。
アルカはアルバザードという異世界の国の言語であり、俗幻はそれを反映している。つまり俗幻はアルバザードのローカル言語である。
結幻はこの俗幻にチューンアップを施し、「理想的な国際語」として使えるようにしたものである。たとえば俗幻には個性を表す位相が豊富だが、結幻にはない。またアルバザードの文化を反映した表現も漂白されている。

人工言語の発展と「理想的な国際語」への誤謬

人工言語の発展は「音→文法→語彙→文化→構文→語法→認知法→表現法」の順で起こる。ほとんどの人工言語は語彙までで止まる。そのため、人工言語クラスタの多くは「音、文法、語彙」だけで人工言語の出来を評価しようとするが、これは素人のやることである。
これらはビギナーズフォーカスで、特に「音、文法、語彙」について延々議論している間はいつまで経っても人工言語のビギナーにすぎないし、驚くことにカリスマが啓蒙しない限り何十年も人々はこの三大ビギナーズフォーカスのみに目を向け続け、一切発展しない。まさに人工言語の害悪である。
なぜこの3つで思考停止するのかというと、エスペラントがこのレベルで終わっていて、人工言語でエスペラントしか知られていないからであろう。アルカが浸透していれば一番上の表現法まで議論できるのに。
こういう素人の言うことには幅がなく、たとえば「アルカにはr,l,cと3つもラ行があるから難しい言語で「理想的な国際語」に相応しくない」とかそういうのが最も散見される素人考えである。俗幻はともかく、結幻はr,l,cを区別できなくても構わない。各民族がそれぞれ類音を用いればよい。

しかしなぜ人工言語クラスタはエスペラント以外の人工言語も知っているのにそれでもなおこの三大ビギナーズフォーカスに留まるのだろうか。それは彼らが言語を実際に作ってかつそれを運用しないからである。もしアルカのように多民族間で使用したら互いの文化が違うことによる意思疎通のできなさや、「手というと腕も含むのか」や「水はお湯も含むのか」などといった語法の違いに気づく。水をeriaとしよう。日本語話者は冷たいものをプロトタイプとして想定する。完全に日本語の水の語法のままeriaを捉えている。しかし英語話者はcold waterもhot waterも区別せずeriaと思う。なので熱いお湯を指して平気でeriaということがあり、日本語話者は冷たいのかと思ってうっかり触りそうになって危ない思いをすることがありえる。手を振れというので腕ごとブンブン振ったらち「違う、それは腕だ」と言われて、ようはバイバイのジェスチャーをしろと言っていたのかと気付かされる。セレンらの人生はいつもこんな感じだった。こういう文化や語法の違いによる、異なる母語を持つ相手と意思疎通することの難しさを10歳の頃から嫌というほど叩きこまれ、かつその集団の中でアルカという人工言語を使って生きてきたわけだ。こういう経験をすれば嫌でも人工言語を進化させていく際に文化や語法といったビギナーズフォーカス以上のレベルに目を向けなければならなくなる。セレンが特別賢いのではなく、素人との決定的な違いは人生経験である。人工言語の経験値が圧倒的に異なる。しかしその体験をしなくとも読者はセレンの記録を読んで追体験すればビギナーズフォーカスを超えることができる。E=mc^2を発見するのは難しいが、習う分には高校生でもできるのと同じである。しかし異民族との間で人工言語を磨き上げるというレアな体験をしているのは世界広しといえどセレンだけであろうから、この体験を追体験せよと言われてもなかなか理解するのが難しく、啓蒙されずにビギナーズフォーカスから抜け出せないものも残存しているのが実情である。セレンの啓蒙活動が人工言語クラスタの――ひいては人工言語界の民度を向上させることを切に期待するものである。

・音素は少ないほうがいいという誤謬

よくある国際語論の誤謬にこれがある。エスペラントやアルカはl,rの区別があるから、l,rを区別しない日本語にとって不都合でだから「理想的な国際語」に向かないと。そこで人々はこう考える。最も音韻が少ない言語はなんだろうと。その言語に合わせればどの民族にとっても発音できるので平等だろうと。発想としてはクラスで一番点数の低い生徒に授業を合わせているだけで、底辺以外には迷惑なだけだし彼らにとって不都合なので平等ではなくなる。大事なのはクラスの中間、平均に合わせて授業をすることで、平均値を取るほうが全成員から見て不都合さが平等になる。下に合わせようとするものの伝家の宝刀がロトカス語であり、よく引き合いに出される。ロトカス語は音素の最も少ない言語であり、なるほどこの言語の音素に合わせればおよそすべての民族にとって発音可能な言語になるかもしれない。しかしこのロトカス語は音節数が少ないので一つ一つの単語が長く、ひどく冗長である。いくら学習が容易でも「学ぶは一回使うは一生」である。運用が非効率ではとても「理想的な国際語」として相応しくない。学習と運用はバランスが大事である。実際のところ、音素は多くも少なくもない平均的な数が「理想的な国際語」には相応しい。エスペラントやアルカはちょうどいい塩梅であるといえる。そもそもアルカの音をすべて発音できなくてもアルカは使える。そのことはアルカの映画で日本人の少女がアルカを話していることからも実証されている。「理想的な国際語」に完全な発音は求められていないし意思疎通できれば十分である。

・SVOかSOVか

音素の問題と並ぶのがこの議論である。エスペラントやアルカはSVOであるがSVOは全言語の約4割でありSOVは約5割もいるからSVOなエスペラントやアルカは「理想的な国際語」に相応しくないというものである。それを真に受けたものがSVOにもSOVにもなれる言語を設計したが、ついぞ流行らなかった。むろんSOVを採用してもSVO勢から批判される。正直SVOだのSOVだのは文法のしかも一番入口の部分で設計することである。そのレベルで議論が止まっているのは議論ばかりしていて作業を全然しないからいつまで経っても次のステップへ進めないためである。「理想的な国際語」にとって語順はどうでもよい。語順をSVOにしたら「私は愛するあなたを」という文を見てもただの倒置でしかないことからも分かるように、人間にとって語順は瑣末な問題にすぎない。「理想的な国際語」としてはSVOだろうがSOVだろうがどうでもよい。ただ異様に語順に拘って先に進もうとしない者にとってはアルカのように語順が自由な言語を示しておくといいかもしれない。

・語彙が少ないほど簡単で「理想的な国際語」に相応しいという誤謬

音、文法と来て三大あるある底辺議論が語彙である。三大ビギナーズフォーカスに相応しい。人工言語学研究会の工学言語のところで論破しているのでまずそちらを参照されたい。「理想的な国際語」としては覚えるのが簡単なほうが相応しいという考えは完全には否定しない。もちろん学習が簡単なほうがよい。しかし長年の経験を積んだ言語屋は学習と運用の効率はしばしば反比例することを知っている。学習を容易にすればするほど運用効率は一般に悪くなるという法則がある。この法則のことをセレンの法則と呼んでおく。トキポナやベーシック英語が好例で、トキポナは解釈が多すぎて意思疎通がしばしばできないし、ベーシック英語は表現の幅が狭すぎる。また少ない単語で複雑な概念を表現するので難しい文を言おうとするとやたら冗長になるか多解釈を許す羽目になり、運用効率が悪い。しかし語彙はビギナーズフォーカスのひとつなので「学ぶは一回、使うは一生」という教訓を肌身に感じていない素人はあっさり騙される傾向にある。そもそも自然言語を見ればわかるが、単語が少ないほうがいいのなら自然言語もそのように発展しているはずである。しかしそんな言語はひとつもない。ピジン英語ですらクレオール化とともに単語はむしろ増えていく。それはある程度の語彙がないと円滑なコミュニケーションができないことの証左である。というわけで語彙について、少ないほど簡単で「理想的な国際語」に相応しいというのが誤りだということがわかった。語彙に関しては自然言語と同じ程度、基本語で2000~3000、日常生活で8000~15000程度の語、専門用語を入れて中型辞典の5万~10万程度の語彙があればいいことになる。

以上が音、文法、語彙のあるある議論だが、この3つのビギナーズフォーカスで止まっている人口が多いため、有名な人工言語もこれらの議論で止まっているものが多い。これらの議論をテーマにした人工言語はいわば「売れる商品」だからである。トキポナ、ロジバン、ベーシック英語など有名どころが多い。

・テンスやアスペクトや論理関係を細かく表現できるほうが「理想的な国際語」に相応しいという風潮

ロジバンがこれにあたるが、よく考えてほしい。なぜ5000もある自然言語は適度な大雑把さを持った表現しかせず、ロジバンなみに細かい表現をしないのか。それはひとえに必要性がないからである。人間は自然言語を見れば分かるように、細かすぎる表現は避けてある程度のファジーさをもたせる傾向にある。なぜそうかというと、制アルカの時相詞のシステムが崩れたのと同じで、細かすぎる表現は冗長になるか聞き間違いに弱いかのどちらかで運用効率が悪いからである。たとえば制アルカの場合、テンス、アスペクト、ムードをすべてVCひとつで表現していた。ax,ix,ox,ex,uxですべて意味が劇的に変わる。こうすると多用な時相法を効率よく表現できるが、これを8年運用した結果、聞き取りにくく意味を取り違えやすいということが体験され、結局制アルカのこの時相詞というシステムは滅んだ。かといって語形を長くすればよいかというと今度は逆に冗長になり使いにくくなってしまう。そもそもあまりに時相法を細かく伝える必要が現実にはないのだ。現実ではいくつかの時相法が頻出し、それ以外は稀である。したがって言語のほうとしても頻出するものに短い語形をあてがって、そうでないものは迂言法で示すようにしたほうがよい。そして実際自然言語はそういうふうになっている。論理についても同じで、いちいち論理学の式のように細かい論理構造を表現しなくても人間は常識によって論理構造を理解するので、普段から過論理に喋ることはただ文が冗長になるだけで運用効率が悪い。普段は常識に任せ、必要に応じて迂言法で論理を示せばよく、そのためロジバンのレーゾンデートルが危ぶまれる。あれで工学言語としては結構だが、「理想的な国際語」にはなれないし、なる気もないだろう。
アルカは自然言語と同じく常識によって分かるところはいちいち論理関係を説明せず、効率よく情報を伝達する。その一方で細かい論理関係を表現しようと思えばそれはそれで可能というシステムになっていて、「理想的な国際語」に相応しいと言える。

「理想的な国際語」として相応しい言語とは

・有文化(地方)表現と脱文化(国際)表現

セレンが述べたように、言語と文化と風土は不可分であり、言語は文化や風土から影響を受ける。俗幻の場合、アルバザードの文化と風土を反映して芸術言語として高めていけばいい。これを有文化(地方)表現と呼ぶ。一方、「理想的な国際語」としてはそれではまずい。特定文化や風土に肩入れする訳にはいかないからである。そこで文化的な表現を漂白して全世界で使える表現、すなわち脱文化(国際)表現が必要となる。俗では狼は統率のとれた兵士を示すが、「理想的な国際語」にはこの用法はない。俗では虹は四色だが、「理想的な国際語」としては各地域ごとに色数を決めさせる。中には何色かを気にしない地域もあろう。太陽もフランスは黄色で日本語は赤でアルバザードは白だが、「理想的な国際語」としては各地域に色を定めさせる。つまり「理想的な国際語」としては太陽の色を指定しない。siblingを長幼や男女で分けるかも地域に任せる。長幼男女を一切区別しない地域ではkoomという語を使えばよく、逆にそれらをすべて区別する地域ではalserなどを使えば良い。アルカは語法が豊富で、様々なニーズに応える懐の広さがある。このようにして特定の地域の文化や風土を押し付けない脱文化的、国際的表現がアルカには可能であり、「理想的な国際語」として相応しいと言える。エスペラントは兄と弟を区別しないという西洋の見方をそのまま反映したfratoというので、西洋の有文化的・地方的表現であり、「理想的な国際語」として相応しくない。エスペラントを採用すると西洋人の世界観をアジア人らが押し付けられてしまうからである。

・構文は少ないほうがよい

人工言語学研究会の構文論を参照のこと。構文が多いとその分特別な言い回しを短く言えるメリットがある。C言語などを見ても同じことが言える。ただ構文については少なく絞ったほうがよい。この2点について説明しよう。
まず構文が多いと短く言えることについて。たとえばI gave him an appleという二重目的語構文(SVOO)はI gave an apple to himというSVOの構文より有標な構文だがより短く合理的である。しかしデメリットとして構文を覚える手間がかかる。「学ぶは一回、使うは一生」なので覚える労力については実はどうでもいい。問題は使う際に選択肢が多いと民族によって使う構文が異なってしまい、事実上別の言語を喋っているかのように見えてしまうことである。日本語話者はSVOOがないのでSVOのほうを使いたがるだろう。ここにきて英語話者がSVOOで話したら異なる言語を使っているように見えるという問題がある。兄とfratoのように意味が異なればその差自体に意義があるのだが、SVOもSVOOも同じことを意味するのでは話が違う(もっともSVOOとSVOは英語では同一の意味ではないのだが、今は英語の話をしているのではないからその差は捨象する)。構文が幾つもあると同じことを何通りにも言えてしまう。プログラミング言語でも同じで、C言語ではc=c+1と書いてもc++と書いてもまったく同じことを意味するが、同じ意味なのに民族によって使う構文が異なるとコミュニケーションが取りづらい。プログラマーでもc++と書くことに慣れている人が他人のソースコードを読んでc=c+1とあったら違和感を覚える。そして実際プログラミングの世界では複数人でひとつのコードを組むときは「インクリメンタルはc++で統一する」というように構文の統一を図って互いにコミュニケーションすることが多い。この実情を見るに、「理想的な国際語」においても同じことを意味するのであれば構文には多様性を持たせないほうがコミュニケーション上有利ということになる。さてアルカであるが、30ヶ国以上の人間の間で使われてきたことから自然と複数のプログラマーがひとつのプログラムを組むときのようにやはり構文についても必要最小限に抑えるように進化してきた。原則アルカの構文はSVOしかなく、あとはそれの派生系である。tu et ~ xel ~など格詞と組み合わせた派生構文で賄っている。選択の幅が狭いのでどの民族も同じ構文を使うようになり、意思疎通がしやすい。
さてもうひとつの「単語に豊富な表現法の役割をあてがう」件についてだが、これも疎明する。日本では「~せざるをえない」という意味を示したいときは左記のように基本語を組み合わせた成句的な構文を使って表現する。英語ではI can’t help doingとなる。英語もまた日本語と同じく成句的な構文を使って表現する。そういう例が日本語にも英語にもたくさんあるので互いの言語を覚える際に非常に苦労する。いっそI can’t help doingを意味する前置詞なり副詞なりがあれば便利なのに。この長たらしい構文を一語にカプセル化できたらいいのに。そう思う人もいるだろう。セレンらがまさにそうだった。アルカでは一部の単語はプログラムにおける関数だと考えている。長たらしい処理をひとつのカプセルにまとめた関数だ。たとえばアルカではI can’t help doingをvelantというたった一語の副詞で表現する。これを動詞の後につければ「~せざるをえない」という意味になる。I can’t help doingという組み合わせを覚える労力を使って動詞という語を覚えればコンパクトにまとまり、覚えねばならない構文もひとつ減る。しかもこのvelantという語はそもそも名詞として「一本道」という意味を持ち、それをメタファーして「~せざるをえない」という語義を与えているわけであり、認知言語学を実践したシステムになっている。つまりvelantという語はどのみち「一本道」という名詞を覚える際に必要なのだからこれを副詞としてリサイクルすれば新たに単語を覚える手間さえかからず構文をひとつ減らした関数ができるとセレンらは考えたのである。こうしてアルカは労少なくして構文をカプセル化することで減らし、覚えやすく使いやすいという、言語において稀有な状態を作り出すことに成功した。
以上2つの点において構文はできるだけ減らすべきであるし、原則SVOという構文しか持たないアルカは「理想的な国際語」として相応しいと言える。